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月百姿

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月百姿 名月や畳の上に松の影 其角

松尾芭蕉の蕉門十哲に数えられた俳諧師・宝井其角(たからいきかく、1661年-1707年)の雑談集より、収録されている題名の句にちなんで描かれた。 名月や畳の上に松の影 この句の季語は「名月」、時期は「仲秋」。秋の涼しさを感じる中秋の名月を、畳の上でくつろぎながら眺める様子が詠まれている。雑談集では11世紀の中国の詩人である王安石の「月移花影上欄干」という句に着想を得たと記している(出典)。松の影が畳の上に映り込む情景を通じて、月の美しさと秋の静けさが感じられる。 摺りは

月百姿 君は今駒かたあたりほとゝきす たか雄

吉原の花魁・二代目高尾太夫は万治高尾や仙台高尾とも呼ばれ、島原の吉野太夫、新町の夕霧太夫と共に三名妓と呼ばれるほどの名声を得た。高尾太夫は吉原で最も有名な遊女で代々襲名され、二代目高尾太夫は下野国の塩原塩釜村の百姓の娘あきを吉原の妓楼・三浦屋の主人四郎左衛門が引き取った。題名は二代目高尾太夫が伊達家19代当主・伊達綱宗をうたった歌とされる。 ただし、物事は複雑だ。以下の話は史実や流布が入り混じっているらしく諸説ある。伊達綱宗が高尾太夫を寵愛し身請けしようとしたが、彼女には実

月夜釜 小鮒の源吾 嶋矢伴蔵

古典落語の釜泥。石川五右衛門の子分達が、京都の三条河原で釜茹での刑にされた一味の恨みを晴らすために、江戸中の釜を盗むと宣言する。ある夜、豆腐屋の爺さんが釜の中に入り寝ずの番をすることにしたが、酒を飲んで寝込んでしまい、その間に二人の泥棒によって釜は盗まれてしまう。泥棒たちは運んでいる途中で爺さんの声に気づきそのまま逃げ出す。目を覚ました爺さんが地震と勘違いして釜から出てみると、武蔵野の星空が見えた、「しまった、今夜は家を盗まれた」(出典)。 鳥獣人物戯画を思わせるコミカルな

月百姿 心観月 手友梅

盲目の戦国武将・手友梅(てのゆうばい)は、背中の指物には竹の短冊で歌を掲げた。備中国吉城では、毛利の軍勢に多勢に無勢で戦い討ち取られた。皆がかつてない盲人と涙を流したという。芳年は歴史に消えた無名の士に光を当てた人だった(小早川に滅ぼされた三村家の人間か)、目録では読み違えて平友梅とされている。 暗きより 暗き道にも迷はじな 心の月のくもりなければ 和泉式部の有名な和歌「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」から本歌取りしつつ、心の月という内面的表

月百姿 神事残月

永田町にある日枝神社の山王祭。神田祭、深川祭と並ぶ江戸三大祭の風景。青空に浮かぶ昼の月が見える。読み方は「しんとうざんげつ」。

月百姿 常にこそ曇もいとえ今宵こそおもうは月の光なりけり 玄以

前田玄以は豊臣政権の五奉行として主に公家や宗教関連を補佐した。関ヶ原では大坂城にて中立的な態度を取ったことが家康に評価され、丹波亀山5万石の本領を安堵された。題名は玄以が秀吉より京都所司代に任じられた際の京都聚楽第で読まれた歌、その後の秀次事件に始まる政権末期の暗さを前に月夜のうたた寝している場面。 玄以の着衣には正面摺りと空摺りが施されており、摺りもよく当時の技巧を楽しませてくれる。

月百姿 おもひきや雲ゐの秋のそらならて竹あむ窓の月を見んとは 秀次

関白・豊臣秀次は秀吉の数少ない成人した親類(秀吉の姉ともの子)で政権の後継者として栄華を極めつつあったものの、秀頼の誕生によって一変する。京都聚楽第から高野山蟄居した後、さらにいわゆる秀次事件として本人のみならず一族郎党の切腹へと繋がった。同時に人々の不興を買ったであろう、豊臣政権の短命化につながってしまったのかもしれない。 漫画センゴクの秀次の最後のシーンはこの月百姿を参考に描いたようだ。天才秀吉についていくことができない木下家の秀才・秀次が精神を追い詰められながらも、一

月百姿 南屏山昇月 曹操

建安13年(208年)の赤壁の戦い前夜、南屏山(なんびょうざん)に登る月を見る曹操の勇ましい背中。この時曹操が読んだとされる有名な漢詩がある。 短歌行(其ノ一) 月明星稀 烏鵲南飛 繞樹三匝 何枝可依 山不厭高 海不厭深 周公吐哺 天下歸心 変わり摺りもあるが、後ですられたこちらのバージョンもまた見事。月百姿に後の時代の赤壁を描いた赤壁月もある。

月百姿 朧夜月 熊坂

熊坂長範は平安末期の伝説の大盗賊、牛若丸義経が奥州へ向かう道中の美濃国赤坂の宿場で戦って討たれた。室町時代の能に登場するものの実在したかはよくわかっていない。 芳年武者无類の源牛若丸・熊坂長範の構図も素敵だが、こちらの枠外まで広がる漫画絵スタイルも斬新で静的かつ動的な1枚。背景が水色地と紺地の変わり摺が存在し、前者が摺りが早いそうだが当時から人気あったのだろう。

月百姿 霜満軍営秋気清数行過雁月三更 謙信

七尾城の戦い。信長との同盟を破棄した上杉謙信は第三次信長包囲網に加わった。遊佐続密ら重臣が調略により十五夜の夜に城内で反乱を起こし、能登は上杉の手に落ちた。その後、後詰に来た柴田勝家の軍を手取川の戦いで蹴散らして戦国最強の名声を得た謙信だが、翌天正6年に急死したため御館の乱に突入した。 七尾城の戦いに臨んだ謙信が陣中の月見の宴で詠んだ漢詩が題名(謙信の漢詩はこれしか残されておらず、自身で実際に書いたのかは議論がある)。 九月十三夜陣中作 霜滿軍營秋氣淸 數行過雁月三更 越