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大日本名将鑑

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大日本名将鑑 だいにほんめいしょうかがみ 全51作。
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記事一覧

大日本名将鑑 楠正成

「太平記」巻六「正成天王寺未来記披見事」、楠木正成が元弘2年(1332年)に鎌倉幕府に反旗を翻した。その際に天王寺(現在の四天王寺)を参拝し、馬と太刀、鎧一領を奉納して寺僧に「未来記」をという書物見せてもらった場面(出典)。聖徳太子は未来を予知する能力を持つとする記述が日本書紀にあり、これが未来記や未然本紀という書物に記されたとされる(出典)。 寺僧は正成の求めに応じて、持統天皇以降の未来を記した秘蔵の書物を特別に見せた。そこには、第九十五代の天皇の時に天下が乱れ、東から魚

大日本名将鑑 左馬頭義朝 長田荘司景宗

頼朝や義経の父・源義朝は東国で勢力を伸ばし、京へ再び戻って下野守に任じられた。東国武士団を率いて保元の乱(1156年)で戦功を挙げ、左馬頭に任じられるが、平治の乱(1159年)で敗北して都を落ち延びた。尾張国知多郡内海へ着いた義朝の一行5名は、親戚である長田忠致(おさだただむね、長田荘司とも)の屋敷にかくまわれた。しかし、長田忠致は子の景致(景宗)と共に義朝を討ち取ることに決め、1160年正月三日に一行に酒を飲ませて郎党に湯屋で襲わせた。享年三十八歳、義朝は生涯を閉じた。

大日本名将鑑 最明寺時頼入道

鎌倉幕府第5代執権・北条時頼は信仰心あつく慈悲深く、執権職十一年にしてその職をゆずり出家して最明寺入道学了道崇と改名し、諸国行脚の旅に出た。静岡県伊豆の国市の最明寺で7年後に坐禅をくみながら臨終をむかえたとされる。 雪道を行く時頼の場面。これは非常に摺りがよい、手元で眺めたい1枚。

大日本名将鑑 平相国清盛

音戸の瀬戸(広島県呉市の音戸町と警固屋町との間にある水道)を開削した平清盛の日招き伝説。平氏の全盛期、夕日に舞っている様子が誤解されたか不遜な清盛のイメージと相まって伝説となったのか。 芳年武者无類 平相国清盛は黒衣一色で威厳を持った姿だが、大日本名将鑑は女官に囲まれており風靡さが目立ち、着物の龍柄も目立つ。摺りの良い貴重な1枚。

大日本名将鑑 文室綿麻呂

文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)は坂上田村麻呂とともに蝦夷征伐で功を上げた平安前期の公卿で武人、三諸大原の長男。810年の薬子の変で平城上皇に従い禁固されたが、坂上田村麻呂の願い出により許され、811年(弘仁2)と813~814年に征夷大将軍となった。陸奥・出羽両国の兵1万余人を動員して尓薩体(にさてい)、胆沢(いさわ)両郡の蝦夷を攻略し陸奥国の征夷事業を完了した。同時に両国の兵制改革、百姓賑恤(ひゃくしょうしんじゅつ)、蝦夷移配対策を種々献策して奥羽の律令化を図った(出典)。

大日本名将鑑 新田左中将義貞

稲村ヶ崎の龍神伝説。鎌倉を攻めた新田義貞が海に進撃を阻まれたが、腰に差した黄金の太刀を海に沈めて龍神に祈りを捧げると鎌倉へ続く道ができた。内地の坂東武者が潮の満ち引きを知らなかったというのは野暮だろう。 月百姿・稲むらか崎の明ぼのの月も同場面、そちらはより静的で祈りの姿に見える。

大日本名将鑑 武田大膳太夫晴信入道信玄

武田信玄の最晩年、野田城の戦い。通説では西上作戦のさなかで病死したとなっているが、一説には野田城(愛知県新城市)で攻城中に虫の聞いているときに火縄で打たれたと現地では伝えられてきたシーン。現在も野田城で実際に信玄を打ったと言い伝えられている火縄銃が残っている。

大日本名将鑑 徳川家康公

この場面の公家の正装を纏う家康公は、関ヶ原の戦勝後に征夷大将軍に就任した際の様子。豊臣家への配慮から関白は世襲のままとした。 漆黒の衣冠束帯に光の加減で出る空摺りが素晴らしい。

大日本名将鑑 豊臣秀吉公 加藤主計守清正

人気のあった地震加藤。朝鮮出兵で三成の讒言により秀吉の怒りを買い閉門された秀吉子飼いの加藤清正が、慶長伏見地震の際に真っ先に伏見城の秀吉のもとへ駆けつけた。この功績から清正は復権を果たした、という逸話・講談。 但しこれは事実ではない。また、文禄5年(1596年)9月5日の慶長伏見地震の前に、大政所は亡くなっていた(没年 天正20年(1592年))。野暮な話だが。

大日本名将鑑 毛利元就

氏康の河越夜戦、信長の桶狭間と並ぶ日本三大奇襲・厳島の戦い。主君大内義隆を討った陶隆房を、村上水軍とともに寡兵を持って討ち取った。 中国の覇者・毛利にとって伝説的な合戦だが、謀神・元就が実際に主導したのか疑問視する声もある。

大日本名将鑑 北条氏康

相模の獅子・北条氏康。生涯経験した36度の戦いで一度も敵に背を見せず、顔に2つ、身体に7つの刀傷を負った。これらの傷は氏康傷と呼ばれ、その武勇の証として語り継がれている。このシーンは調べても分からなかった。