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「畜生塚」(18歳以上向け)

「関白殿下が……高野山清巌寺にて、ご自害あそばされた由にございます」
 治部様はそう私に告げた。私は何を言っているのか分からずに、ただ言葉を失った。
 文禄四年七月二十日、急な用向きとのことで石田治部少輔様がこの聚楽第にお越しになられた。そして内密のこととして人払いをした上でお話になられた。
 治部様の伝えるところによると、関白殿下は七月八日に伏見城におわす太閤殿下の元を訪ねられたが、その日はお目通りすることができずに城下に留め置かれた。翌日九日に関白殿下は伏見を発ち、十一日に高野山清巌寺に入られた。清巌寺は言うまでもなく大政所様の菩提寺であり、そこで殿下は剃髪の意思を示されたという。七月十二日には太閤殿下により、関白殿下は高野山にて蟄居謹慎するようにとの命が出され、その使者として福島左衛門大夫様、池田伊予様、福原右馬介様の三名が高野山に遣わされた。使者は十四日には高野山に入られ、殿下と面会されたが、翌十五日の午前に殿下は腹を召され、その日のうちに寺の方々によって丁重に埋葬されたとのことであった。
 私にはとても信じられないことであった。私が最後に関白殿下とお目にかかったのは七月七日のことであり、まさに殿下がこの聚楽第を出立される前日のことであった。まさかあの夕べが今生の別れになるとは思いもよらなかったが、一方で、どうしてあの時に殿下の思いに気付くことが出来なかったのかと、激しい後悔の念に見舞われた。今から思えば、殿下はあの時、すでにお覚悟を決められていたのだろう。
 私は、何も言うことが出来なかった。治部様も、明らかに狼狽した面持ちであったが、やがて静かに席を辞した。しばらくして私は侍女を呼び、先ほど治部様がいらした事は城中で口外しないことを申し付けた。

 私が関白殿下と初めてお会いしたのは、ちょうど殿下が関白になられる少し前のことであった。私の父である右大臣様は以前より太閤殿下(当時は関白殿下にあらせられた)と親しく、この日も父は太閤殿下に呼ばれ、その際に私も同行するように仰せつかったのであった。
 私にとって太閤殿下にお目にかかるのはこの時が初めてであった。太閤殿下は天下人であられても気さくな方で、私にも親しく話してくださった。しばらく三人で世間話を交わした後、太閤殿下は私に向かっておもむろにこう言われた。
「儂は近いうちに、関白を甥の孫七郎に譲ろうと思うとる。もしそなたさえよければ、孫七郎のところに嫁いでもらいたいのだが、いかがかな」
 後に伝え聞いた話によると、父は私を太閤殿下の側室にすべく、この日私を同行させたらしい。私は十八の時に三条の権中納言様の元に嫁いだものの、夫には先立たれ、唯一人残された娘のおみやも早逝し、実家である菊亭の家に出戻っていたのである。その後も何度か再婚話があったようであるが、私にまつわる良からぬ噂話のためか、話が進むことはなかった。
 その噂話というのは、夫の権中納言様と娘が早くに亡くなったのは私の前世の因縁によるのだというものであった。もちろん私自身にはまったく身に覚えのないことではあったが、そのせいかどうかはともかく、三十になるまで私は実家で静かな生活を送っていたのであった。
 太閤殿下の突然のお話に、私は驚きのあまり何も答えることが出来なかったが、父は大喜びで、ぜひこの縁談を進めたいと張り切った。そして私はまだお会いしたこともなかった後の関白殿下の元に嫁ぐこととなったのであった。
 初めてお会いした関白殿下は、青年武将らしい精悍さと、文人のような繊細さをあわせ持った方という印象であった。年は私よりも六つ下であり、しかもすでに多くの奥方を娶られていた方だったので、年増の私がいまさら嫁ぐことに後ろめたい気持ちすら感じていたが、関白殿下は私のことを優しく迎えてくれた。
「私にはすでに何人かの妻と子供がいるが、そなたは私の正室として大切に扱いたい。そなたも私をいつまでも支えてくれるよう、願っている」
 事実、関白殿下は日々お忙しい中にあっても、五日に一度は必ず私の元をお訪ねになった。私と殿下の間には、ついに子をもうけることはなかったものの、殿下の優しさは変わらなかった。殿下には他に多くの側室があり、その間に子をもうけることも何度かあったので、そのたびに私は嫉妬の思いを感じたことは否めない。しかしそのことで殿下の気持ちが私から離れたと感じたことはなく、あらためて私は殿下の心に感謝した。そして殿下の子が増えることは、この豊臣家の繁栄につながることであると、私も理解するようにつとめた。

 こうして関白殿下との結婚生活は、安らかに最初の二年を過ごすことが出来た。様子が変わったのは、嫁いで三年目となった文禄二年のことであった。
 この年の六月、殿下のお子の一人が急逝された。殿下の様子は痛々しいものであった。そして八月、太閤殿下と淀殿の間に御拾様がお生まれになり、京都も大坂の町も祝福の声にわきたった。太閤殿下は二年前にお子の鶴松様を亡くされており、太閤殿下にとっては念願の、そして唯一のお子が誕生されたのであった。
 太閤殿下は、御拾様が生まれたことで世間がにぎやかになり、それがかえって子を亡くされた関白殿下のお心を痛めることになるのではと気を遣われ、関白殿下にしばらく熱海の温泉に行って静養することを勧められた。関白殿下はそれに従い、数名の供の者だけを従えて熱海に向かい、そこで一月ほどを過ごされた。
 しかしその旅行に私は同行しなかった。殿下が私を連れて行かなかったのは、私の子ではない子の死に心痛めている自分の姿を、私に見せないようにするという配慮だったのかもしれない。しかしあの時、私は無理にでもついて行くべきだったのかもしれない。なぜなら、熱海から戻られた殿下には、以前のような快活さが消え、より思い詰めた雰囲気が重くまとわりついていたからである。

 聚楽第に帰ってきた関白殿下は、以前と同じように五日に一度は必ず私のところにお越しになり、明け方まで泊まっていかれた。しかし以前のように床を共にすることは少なくなり、遅くまでお話を続けられることが多くなった。
「私は……太閤殿下が恐ろしい。そのうち、私は関白の位を取り上げられ、代わりに御拾様を関白にお就けになるのではないだろうか……」
 不安な気持ちをひとしきりお話になった後、関白殿下は私に詫びの言葉をかけ、燭台の灯を消して床に入られるのであったが、その後もいつもなかなか寝付けないようであった。
 とりわけ関白殿下が引き合いに出されるのは、二年前の千宗易様のことであった。太閤殿下の知恵袋として重宝され、また関白殿下の茶の湯の師匠でもあった千宗易様が、たいした理由もなく切腹させられた事件である。このことについてはいまだに多くの人々の間で議論となっており、さまざまな憶測が飛び交っているが、確かなのは太閤殿下は「恐ろしい人」であるという印象を多くの人々に植え付けたことであった。
 関白殿下の心身の健康は悪化の一途をたどり、そのため天下の名医と名高い曲直瀬道三玄朔の治療を受けることとなった。しかしこれが結果的には関白殿下にとってのあだとなった。
 今年の初め、関白殿下は伏見城におわす太閤殿下から呼び出しを受け、激しく叱責された。事の顛末はこうである。その頃、畏れ多くも帝が体調を崩され、しばらく玄朔が付き添って看病していた。しかしその四日目、玄朔は関白殿下の往診を予定していた日であったために皇居を離れ、聚楽第に向かった。困った帝の近習は玄朔の元に使いを寄こしたが、玄朔は手紙に処方すべき薬を書き付け、それを使いに手渡して帰した。
 このことが大きな問題となった。玄朔のこの行動は、帝の病よりも関白殿下の往診を優先したものととられても仕方のないものであった。玄朔は太閤殿下に呼び出され、厳しく叱責された。次いで関白殿下が呼び出され、もちろん関白殿下ご自身はこうした経緯があったことをご存知なかったのであるが、太閤殿下はこれまでになく厳しい言葉で関白殿下に注意をなされたという。
 これ以降、関白殿下はますます普通でないご様子となられた。そしてついにあの恐ろしい日を迎えることとなったのだ。

 その日は皆で北野天満宮にお参りに行くために、聚楽第から牛車を仕立てた。私の乗る牛車は、関白殿下の牛車の後ろに続いた。
 それほど長い道のりではなかったが、私は車の上でしばし物思いにふけっていた。そしてはたと気が付くと、もうすぐ天満宮に着くというあたりで牛車は歩みを止め、前方が何か騒がしい様子であった。従者に聞くと、私たちの行列を横切った座頭がいて、何かもめているという。
 私は従者に言って牛車から降ろしてもらい、前方の人だかりに近づき、そして中をのぞいて驚いた。
 そこにはみすぼらしい身なりの座頭が道にしゃがみこんでいて、地面は鮮血で濡れていた。その前には切り落とされた右腕が落ちており、それを見て私は思わず声を上げた。
「……斬るなら斬るが良い、このあわれな座頭を!」
 座頭は肩で息をしながらも、必死の形相で叫んでいた。
「そうしたら、お前は「殺生関白」として名を残すじゃろう!」
 座頭の視線の先には関白殿下のお姿があった。関白殿下も牛車を降り、怒りの形相で立っており、その手を腰の太刀の柄にかけている。
「よく申した!望み通りにしてやろう」
「おやめください、殿下!」
 関白殿下が叫んだ。それと同時に私も叫び、殿下の元に駆け寄ろうとした。
 次の瞬間、殿下は太刀を抜きざまに、一刀のもとに座頭を斬り捨てた。座頭は声を上げる間もなく絶命した。私は殿下の背中に取りすがったが、座頭の返り血が飛沫となって自分の頬に降りかかるのを感じ、思わず殿下から身を離した。恐ろしかったからである。
 殿下は振り返り、私を見た。その顔に浮かんでいたのは、先ほどの怒りの表情ではなく、まるで泣いているかのような表情であった。

 その日以降、関白殿下は私の元に訪ねてこなくなった。そして天満宮の前での事件は、噂話として京都の人々の間で広がっていった。殿下の残酷な振る舞い、そして天満宮に向かう道を血で汚したことに、人々の非難の声が上がっているようだった。また、ここ最近の京都で相次いでいる「辻斬り」も、殿下の仕業ではないかと噂されているようであった。座頭が死に際に予言したように、「殺生関白」のあだ名はまたたく間に広まっていった。
 関白殿下は公の場にもほとんど姿を現わさなくなったようであった。侍女たちの口は重かったが、殿下の様子を聞き出すと、殿下は昼間から女たちを侍らせ、酒色にひたっているようだという。またある時には、不義のために死罪になることが決まった妊婦を召し出し、生きたままその腹を裂き、胎児を取り出して眺めた、という話まで市中で噂されていると聞かされた。私にはとても、殿下がそのような残酷なことをなさるとは考えられなかったが、この城中にあっても殿下のことが人々の心から離れていく様子を目の当たりにして、心が痛く締め付けられた。それでも殿下は私の元にお越しになることはなく、やるせない気持ちだけが募った。

 そうして迎えた七月七日。その日は七夕を祝うために侍女たちに笹を切らせて部屋に飾らせ、五色の短冊を吊るした。そして夜には満点の星空に輝く織姫と彦星、そして天の河の様子を愛でた。夜も更けてきたので、侍女たちを自室に帰し、私も床に就くための準備を始めた。
 すると突然、関白殿下が部屋に訪ねて来られた。浴衣を着流した姿で、やや足元がおぼつかなく、障子を後ろ手に閉めようとした時につまずかれて体勢を崩されたので、私はあわててそのお身体を支えた。酒の臭いと、化粧の香りが鼻を突いた。
 殿下はそのまま私に身を預けてきたので、私はゆっくりとその身体を支えながら膝をかがめた。殿下は私の胸元に顔を埋めてきたので、私はそれを腕で包み込んだ。
 しばらくその姿勢で二人とも動かずにいた。私は、こうして殿下にお会いできたことに胸の高まりを感じていたが、一方で苛立ちに似た思いも沸き上がっていた。殿下の様子を見るにつけ、かなり酔っているようで、しかも他の女と情を交わした残り香をただよわせながら、私のところを訪ねてきたようである。今の殿下にとって私はそれほど粗末なあつかいを受ける身なのかと思うと、情けなくなってきた。
 しかし殿下はその後も、顔を私の胸に埋めながら動こうとされなかった。私は、そのまま殿下が私の身体をお求めになるものだとばかり思っていただけに、いささか拍子抜けする一方で、少し心配にもなってきた。
 ひざまづいた姿勢の殿下の膝に、私はそっと手を触れた。すると殿下は、びくんと少しだけ身体を震わせた。
 その時、私はすべてを悟ってしまった。
 私はそのまま殿下の腰の下に手をのばした。殿下は顔を上げた。その顔はこれまで以上にやつれており、泣き顔に無理矢理作り笑いを浮かべたような表情で、私に言った。
「笑うてくれ……今の私は、これほどまでに情けない身となったのだ」
 私の掌の中にあるものは、力なくしぼんだままであった。

 私は殿下の頭をもう一度強く抱きしめて、それを胸の中に包み込んだ。そして体勢を入れ替えながら、殿下の身体をゆっくりと床に横たえた。
 仰向けになった殿下に私は覆いかぶさり、口付けを交わした。そして私の唇と舌は、殿下の首筋から胸元にかけて移っていった。さらに私は殿下の帯を緩めて浴衣の合わせを開き、露わになった下腹部に顔を近付けるとともに、殿下の「おのこ」に手を添え、それを唇に寄せた。
 殿下の「おのこ」は、私の口の中にあっても以前のような力強さはなく、小さくうなだれたままであった。それでも私は舌と唇で愛撫し続けた。
「すまぬ……もう良いのだ……」
 殿下はそう言われたが、私はそのまま殿下の「おのこ」を慈しみ続けた。そうすると、少しづつではあるが、それはかつてのような活力を取り戻していった。
 私は襦袢の帯を解いて殿下の上にまたがると、その屹立した「おのこ」を受け入れた。私自身もすでに十分に潤っていたので、それは何の抵抗もなく、私の中に入っていった。
「殿下……何もおっしゃらなくても大丈夫です。私に身をおゆだねください」
 私は殿下にそう告げると、殿下の上で腰を動かし始めた。殿下の「おのこ」が自身の身体の中で擦れ合う感覚を感じつつ私は、殿下がかつて問わず語りに語った話を思い出していた。
「……元はと言えば私は百姓の生まれで、まさかこうして天下人になるとは思ってもいなかった。こういうことを言うのは無責任かも知れぬが、いつか百姓の身に戻って、貧しくとも晴耕雨読の生活を送ってみたいものだ」
 その時の私は、殿下の言葉に肯定も否定もせず、ただ微笑んで受け流すだけだったのだ。
 やがて殿下の「おのこ」が打ち震え、精が私の中を満たしていくのを感じた。しばらくその余韻に浸った後、私はゆっくりと身を離しつつ、中からその精がこぼれ出ないように心配った。
 殿下は少し放心された様子であったが、私はその「おのこ」の先端から少しこぼれている精を舌と唇できれいに拭い取った後、殿下にこう言った。
「ご安心ください。これから先、殿下がいかになさろうとも、私は殿下について参ります」
 これが生前の殿下と過ごした、最後の時となったのだ。

 関白殿下切腹の報が知らされて五日後の七月二十五日、再び治部様はこの聚楽第を訪ねられた。この時は前田玄以様もご一緒であった。前回も相当狼狽したご様子であったが、今回はさらに輪をかけて沈痛な面持ちであった。
「治部様、このたびの事ご苦労をおかけし、誠に申し訳なく思います。御用の向き、謹んでお受けいたします」
「……一の台様、お気遣い痛み入ります。これから私共が申し上げること、なにとぞ冷静にお聞きとどめください」
「はい、覚悟の上です」
 そこで治部様は一息置き、そしてこう告げた。
「関白殿下におかれましては、謀反を企てし事、判明いたしました。故に太閤殿下は関白殿下に切腹をお命じになり、去る七月十五日、高野山清巌寺にてご自害に至ったとの由にございます」
 治部様の説明は以下の通りであった。
 謀反の企てが露見した関白殿下は、七月十日に高野山清巌寺に入って謹慎し、沙汰を待った。そして七月十三日に太閤殿下により、関白殿下切腹の命が出され、その使者として福島左衛門大夫様、池田伊予様、福原右馬介様の三名が高野山に遣わされた。使者は十四日には高野山に入られ、殿下に下知を下した。翌十五日の午前に殿下はご自害され、その首は左衛門大夫様らによって伏見城に持ち帰られ、太閤殿下の検分に供されたという。
 そして最後に治部様は、私自身を含めた関白殿下の身内の者にも、後ほど沙汰が下ることになると伝えた。
 私はつとめて冷静に、治部様の話を最後まで聞いた。そして依然として沈痛な面持ちのままの治部様に向かって、こう尋ねた。
「お話、謹んで伺いました。これは太閤殿下の思し召しということで、よろしいですね」
 治部様は一瞬、表情を固まらせた。この時、私は悟ってしまった。
 この「筋書」を書かれたのが、他ならぬ治部様自身であることを。
 しかし私は、治部様に対して怒りの感情は湧いてこなかった。それは彼の顔を見て、この「筋書」が決して彼の望むところではなかったことが分かったからであった。
「……一の台様」
「治部様、あなたはあなたの為すべきことをしたまでです。これからも引き続き、この豊臣家を支えてください」
 治部様は深く頭を下げた。しばらく頭を下げ続けた後、身を起こして、これまで一言も言葉を発しなかった玄以様と共に部屋から退かれた。

 狼狽する侍女たちをなだめつつ、私はこのたびの事の成り行きについて思い返していた。
 心身を病み、まともに政務にあたることができなくなった関白殿下は、独断で聚楽第を出奔して高野山清巌寺に入り、剃髪の意を示された。それに驚いた太閤殿下は、ひとまず関白殿下を蟄居謹慎の処分とし、次の関白を任命するまでの時間を稼ぐことにされたようである。蟄居謹慎の命は七月十二日に出され、それは左衛門大夫様ら三名の使者によって十四日に関白殿下の元に届けられた。
 三名の使者は十四日の晩は高野山清巌寺に泊まり、殿下と共に過ごされたはずである。とりわけ左衛門大夫様は殿下とも年が近く、幼い時より太閤殿下や大政所様や北政所様のお近くで共にお育ちになったと聞くので、殿下も心安くお話になれたのではないかと思う。
 ところが翌日の午前、青天の霹靂のように殿下はご自害あそばされた。おそらく左衛門大夫様らも驚き、急いで伏見城に戻って太閤殿下に報告されたのだろう。
 太閤殿下、そして近臣の人々は、この予想外の出来事に大いに驚き、戸惑ったことは想像に難くない。在任中の関白が自死するというのは前代未聞の出来事である。そしてこのことが、出来上がったばかりの豊臣政権の威信を揺るがす、由々しき事態であることは間違いない。
 事態を収拾するために出された、やむを得ない策こそ「関白殿下謀反」の「筋書」であった。太閤殿下の命によって関白殿下が切腹された、という形をとることによって、少なくとも太閤殿下の体面を保つことが出来る。皮肉なことにこれは先年の千宗易様の事件を思い起こさせることで、太閤殿下が果断な処置をいとわない方であることを人々に印象付けることだろう。
 おそらく数日以内に、私をはじめ、この家中の者にも処分が下ることだろう。謀反人の家中の者が無事に生きられることはないだろう。私は自分の運命を静かに受け入れつつ、それでも巻き添えになって命を奪われることになる多くの者たちのことを思うと、涙をとどめることができなかった。

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 文禄四年八月二日早朝、京都の三条河原に鹿垣で囲った一画が設けられ、さらにそこには小さな塚が築かれた。その上に置かれたのは、謀反人の前関白、秀次の首であった。そして鹿垣の中に引き連れてこられたのは、秀次の幼い若君四名をはじめ、正室の一の台に続く側室たちや姫君たち、侍女や乳母らを合わせ、三十九名にも及んだ。
 年端もいかない者も多く、これから自分たちに降りかかる運命に恐怖し、その多くは泣き叫び、中には半狂乱になる者もいた。
 そんな中、正室の一の台は皆をなだめ、その身体に手を触れ、慈しむ表情を浮かべた。その様子はあたかも殉教者のようであったと伝えられている。
 彼らは次々と斬首され、その骸は、子らの上に母らが折り重なって打ち捨てられた。そのあまりの凄惨さに、集まった観衆からも罵詈雑言が発せられた。
 最後にそれらの遺体はまとめてひとつの穴の中に投げ込まれ、その穴は埋められて上に塚が築かれ、その頂上には秀次の首を納めた石櫃が置かれた。その首塚に建てられた石塔には「秀次悪逆」の文字が彫られ、生前の秀次の「殺生関白」と呼ばれた悪行から、人々はこれを「畜生塚」と呼んだ。
 その後、この首塚は鴨川の氾濫により流されてしまい、しばらく放置されていたが、慶長十六年、河川改修の工事に携わった角倉了以が石塔を発見して掘り起こした。了以は供養のために瑞泉寺を建立し、石塔は「悪逆」の文字が削られて供養塔として再建された。同寺には、秀次の眷属が処刑される様子を描いた絵巻『瑞泉寺縁起』が残されている。

【注釈】
・ 一の台(1562-1595)は豊臣秀次の正室。父は公家の菊亭晴季で、豊臣秀吉の関白就任にあたって朝廷内での調整を行った人物であり、秀吉の信任が厚かった。一の台は最初は公家の三条顕実に嫁ぎ、娘(おみや)をもうけるものの、すぐに顕実は亡くなり、彼女は娘を連れて実家に戻ったようである。その後、かねてよりの晴季と秀吉との親交から、一の台と秀次との縁組が進められたようである。
 なお娘のおみやも秀次の側室となり、そのことが「畜生にももとる」と秀吉の不興を買って秀次の切腹につながったという説があるが、実際にはおみやは早逝しており、まったく根拠のない俗説である。また秀吉が一の台を側室にしたがったが、彼女が拒んだために秀次の切腹につながったという説もあるが、これも根も葉もない俗説に過ぎない。

・ 豊臣秀次(1568-1595)は、豊臣秀吉の甥にして豊臣家第二代関白。文禄4年(1595)に謀反の疑いをかけられ、高野山清巌寺(現在の金剛峯寺)で自害。その首は京都の三条河原に晒され、その妻子や乳母・侍女ら39名も斬首された。
 秀次切腹の理由には諸説あるが、一般的な説によると、秀吉の側室の淀殿が男子(御拾、後の豊臣秀頼)を生み、実子に家督を継がせたいと考えた秀吉が秀次を取り除くためにでっち上げた事件である、というものである。
 しかしこれには不可解な点があると筆者は考える。秀吉は御拾の前に鶴松をもうけるが早くに亡くしており、秀次事件が起こる時点で御拾は数え年3歳(実年齢1歳)に過ぎず、無事に育って成人に至る可能性は確定的なものではなかったはずである。四年前となる天正19年(1591)には秀吉の弟である豊臣秀長が死去しており、秀吉の一門衆の人数は非常に少なかった。そのためあえて親族を粛清するというのは、豊臣家を弱体化させる愚挙であり、秀吉がそのような行動をとったとは考えにくいと筆者は考える。
 そうした中で、國學院大學教授の矢部健太郎氏が上梓した『関白秀次の切腹』(株式会社KADOKAWA、2016年)では極めて興味深い説が提示されており、本編のプロットにその説を取り込ませていただいた。その説によると、秀次による高野山への出奔と切腹は彼の独断で行われたものであり、豊臣政権は事態の収拾を図るために「秀次謀反」の筋書を後付けでこしらえた、というものである。
 なお矢部氏は同書の中で、いわゆる「殺生関白」をはじめとする秀次の悪行については後世の風説であることを示唆しているが、本編では秀次の精神的な弱さを示すエピソードとしてそのうちのいくつかを取り込んだ。

・ 聚楽第(聚楽城)は、豊臣秀吉が天正15年(1587)に京都に築いた城郭風の大邸宅である。現在の京都市上京区の西陣あたりにあり、四層の天守をはじめとして数多くの御殿が建ち並び、その様子は『聚楽第図屏風』に見ることができる。豊臣秀次は関白としてここに在住し、その任にあたったが、秀次事件の後、秀吉の手によって徹底的に破却され、現在では地中にごくわずかの遺構が残されているに過ぎない。

・ 石田治部少輔三成(1560-1600)は豊臣秀吉の近臣であり、後に「五奉行」の一人に数えられた。関ヶ原の戦い(1600)では西軍(豊臣方)の実質的な総大将となり、敗戦の後に六条河原で斬首された。
 秀次事件をめぐって三成は、文禄4年(1595)七月十二日付の文書で、増田長盛との連名で御拾(秀頼)に対する忠誠を誓う血判起請文をしたためているのに加え、七月十三日付の秀吉による秀次切腹の命令書に、前田玄以・長束正家・増田長盛・浅野長吉らと共に署名している。このことから、秀次事件の黒幕は三成であるとする説もある。
 しかし本編では前述の矢部説にならい、むしろ当初の三成は、秀次がおとなしく高野山で隠遁することによって、ゆるやかに事を収めることを目論んでいたとの説を採る。予想外の秀次自害という事態を受けて、後付けで秀次謀反の「筋書」を作り上げたのが三成であった、というのが本編の設定である。もちろん三成には秀次や一の台を陥れようという意思は毛頭なく、むしろ自身が立案した「筋書」に苦悩しているのである。ここに彼の、優れた実務担当者としての面と、人間としての感情の面の葛藤を見るのである。
 ちなみに三成の旗印に記されたのは「大一大万大吉」の文であった。これには「一人が皆のために、皆が一人のために尽くせば幸せになる」という意味が込められている。三成が西軍の総大将の役を担ったのも、彼の野心からではなく、豊臣家の体制を守りたいという彼の使命感によるものではないかと、筆者は考えている。

・ 石田三成が一の台に語った話が、本編の前半(七月二十日)と後半(七月二五日)で異なるのがポイントである。前者は秀次の自発的な自害を伝えたものであるのに対し、後者は秀次の謀反について伝えているという点については、前述の矢部説に準じたものである。やや細かいが、前者では「秀次謹慎」の命が七月十二日に出され、それを受けて左衛門大夫(福島正則)ら三人の使者が高野山に向かったということになっているが、後者では「秀次切腹」の命が七月十三日に出され、正則ら使者が高野山に向かったことになっている。しかし矢部氏が指摘するように、七月十三日に使者が伏見を出立し翌十四日中に高野山に入るのは、行程的に不可能に近い。こうしたことから後者が秀次謀反という「筋書」の辻褄を合わせるために後付けされた話であることが分かる。

・ 本編のタイトル「畜生塚」は、日本画家の甲斐荘楠音(1894-1978)の未完の大作「畜生塚」から採っている。この作品は言うまでもなく秀次事件に取材し、三条河原での処刑の様子を描いたものである。八曲一隻の屛風画であるにも関わらずヨーロッパの宗教画のような雰囲気をたずさえており、本編の着想のきっかけとなった。現在は京都国立近代美術館に所蔵されている。

 


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