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聚楽①


罪なき身を世の曇りにさへられて
共に冥土に赴くは
五常ののつみもはらいなんと
思ひてつみをきるみだのつるぎに
かかる身のなにかいつつさわりあるべき

 山口から京都に越して来て一年ほどが経つと、初めは新鮮に思えたこの地の様々な建築物や寺社仏閣も有名どころは全て訪れてしまって、週末には家で読書に耽る事が多くなっていた。妻は週末のどちらかは仕事で家におらず、この土曜日もまた同様で、家事洗濯を終えた後は、ソファに腰をかけて一人棚に積まれていた本を拾って読んでいた。そうこうしている内についうとうとと瞼が落ち始めて、軽い眠りについてしまい、起きるともう時刻は三時を過ぎた頃であった。
 大きく伸びと欠伸をした後、眠たげな眼を軽く擦って顔を洗い、妻が帰るまでの五時間ばかりをどうやり過ごそうかとぼんやりとした頭で考えていると、最近話題の映画が四条河原町の映画館にかかっている事を思い出し、身支度を調えると、バスに乗り込み目的地へと向かった。車窓から見える景色は仄かに咲き始めた桜に彩られ、春の陽気も相まってか、薄ぼんやりとしたモネかルノワールの絵画のようにも私の目には映った。日本の風景が仏蘭西の風景と重なって見えると云うのもおかしな話だけれども、暖かなバスの車中の空気が私にそう思わせたのかもしれない。自宅のある北山から四条河原町まで三十分程度で辿り着く。バスを降りてそのまま映画館へと入ると、お目当ての映画は既に満席のようで、この次の回は七時半からと掲示板に表示されていた。当てが外れた気分で、流石に其処まで待つのはと思い、軽く河原町を散歩して帰ろうかと思い、ぶらぶらと当て所なく街を歩き続けた。
 四月に入ったとは云え、やはり外を歩いていると肌寒い風が時折吹いてくる。ジャケット越しに身体に染みいってくる寒気に身を縮み込ませながら、三条商店街のアーケードを歩いて行く。河原町通りを超えて、暫く東の方角へと歩みを進めていくと、高瀬川が見えてきた。この川を見る度に森鴎外の『高瀬舟』を思い出す。桜の花びらが時折ひらひらと水面へ落ちて、そのまま静かな水流に乗って流れていく。その景色を見ていると、京都有数の繁華街にあって、この喧噪の直中に流れる川とは思えない、静けさが身を包むようである。暫く足を止めて川を見詰め、ふいに思い直したかのように振り返ると、目の前に小さなお寺が門を構えているのが私の視界に映った。初めて見る寺であった。周囲を多くの飲食店が囲む中佇むその姿は少し異様な空気を纏っていたが、私の足は気が付くと吸い込まれるかのようにその中へと進んでいた。門の前に置かれた看板には慈舟山瑞泉寺と書かれており、その対角に大きな石柱が建てられている。石柱には「豊臣秀次公之墓」と彫られている。豊臣秀次の名前は高校の頃散々歴史の授業で頭に叩き込んだ為に覚えてはいたが、このような場所に墓所があったのは知らなかった。そう云えば、本能寺の場所にせよ、寺田屋の場所にせよ、京の街には思わぬ場所に旧跡があり、此所が平安時代からの都であることを、そういったものを見かける折々に改めて思い起こされる。石柱を一頻り見詰めた後に、ゆっくりと奥へと進みそのまま門を潜ると忽ち周囲の喧噪が薄れ出し、森閑とした空間が広がりを見せた。大きな寺とは云えず、進んで直ぐの場所に本堂らしき建物が見えてくる。順路が書かれた張り紙があり、それに従い進んでいくと、直ぐに石柱に書かれていた豊臣秀次公の墓所が姿を現した。思っていた以上に小さな墓石である。中央に石櫃が置かれ、その前に置かれた台座の上に香が焚きしめられている。特に何の感慨が湧くこともなかったが、その場の静謐な空気に心押されてか、静かに墓前に手を合わせて拝んだ。瞳を開けると微かに外が薄暗くなっているように感じられる。ふと、秀次の墓の周りに他にも多くの墓石が並んでいることに気が付く。周囲に幾重にも重なるように置かれたその墓石は従者の物であろうかと逡巡していると、不意に記憶の奔流が起きたかの如く、昔勉強した秀次縁の話を思い出した。秀次は殺生関白と呼ばれる性格異端者であり、彼の所行や謀反の疑いを検知した豊臣秀吉が、一族郎党を三条河原で皆殺しにした、とそのような話を高校時代に散々勉強し、惨いことをするものだと教科書相手に憤っていたのである。しかし、その話の流れであるのならば、この秀次公を囲むかのように並ぶ無数の墓石というものは、その一族の墓石なのであろう。その数はざっと見ただけでも、二十から三十はあるように思える。処刑が行われた三条河原も此所からそうは離れていない。歩いてものの五分で辿り着ける距離にあるのである。普段はカップルが並ぶ鴨川の辺でそのような凄惨な事が行われ、此所の墓に眠る人々の数だけ処刑が行われたと云う事を思うと、不思議な時の流れを感じてしまう。そのような物思いに耽りながら、境内を軽く散策した。境内には様々な歴史的資料が並んでいる。それらに眼をやり、暫くの間その場に立ち尽くしていると、境内に一本の枝垂れ桜が咲いている事に思い当たる。満開とはまだ云えないが、美しい桜の花弁が時折ひらひらと砂利の上に舞い落ちている。その景色を暫く見詰めていると、後ろでふいに物音が聞こえてそれに釣られて振り返ると、袈裟を着た男が一人静かに秀次の墓石に手を合わせていた。その男の口元からであろうか、微かに念仏の響きが私の耳に流れ込んでくる。暫くその男の後ろ姿を眺めていると、見られている事に気付いたのであろうか、男は静かに振り返り私を視摘めた。年は五十近いだろうか、それとも六十近いであろうか、若々しいとは云えないが、その風貌は立派な僧侶のそれに思えた。この寺の住職であろうか、私が会釈をすると、男は頬を緩めて微笑んで見せた。この寺の住職様ですかと私が訪ねると、男は静かに首を振り、いいえ私はこの寺の住職ではござりませぬ、僧侶ではありますが、このような立派な寺が建てられていた事は知りませなんだと答えた。男が並ぶ墓石を視詰める横顔を視ていると、つうっと涙が頬を伝うのが薄暗くなった境内の中にいてもはっきりとわかった。何故泣いているのですかと私が訪ねると、これはいかんいかん、歳を取ると涙もろくなってしまいますな、と袈裟の袖口で静々とその瞳に浮かんだ涙を拭いた。その仕草があまりにも上品に思えたので、何か高貴な出の人なのかと私には思えた。秀次公の展墓に参られたのですかと私が訪ねると、男は首を静かに振って、それもありますが、秀次公だけではございりませぬ、此所に眠るお方がた尊き公たちや上臈かたの全てのお方の墓に祈りを捧げるために参りましたとそう云った。その喋る仕草や言葉が私が普段あまり聞き慣れないものばかりだったので、わかったようなわからないような曖昧に頷いてみせると、男は静かに私を視つめて、此所にたくさんの墓石があるでしょう、とそう云った。貴方がさきほどここでお参りをされていたのは私も遠目から視ておりましたから、貴方が秀次公の無念に対して参られたことは私にもわかりますが、私が本日ここに参ったのは秀次公の展墓だけではなく、ここにねむる三十九人の御霊に対してなのでござります。私がさきほど涙していたのも、三条河原での処刑ののちにここに作られた塚が斯様なまでに美しい寺へと生まれ変わったことに対して、それからここにねむる幾人かの上臈の無念と哀しみを思ってなのです。男はそう云いながら、境内に植えられた枝垂れ桜の側まで歩いて行くと、其処に腰掛けて私を手招きして見せた。私は少しばかり不審な思いを抱いていたけれど、特に予定もないことだし、男の誘いに応じて彼の隣に腰をかけた。時折はらりと桜の花弁が落ちる以外に何の音も聞こえてこない、男の静かな呼吸音だけが私の耳に届いた。ここがこの寺に生まれ変わる前、文禄四年の八月二日に三条河原で処刑があったのはご存じでしょう、と男が私に尋ね、ええ、此所から歩いて間もない場所であのような悲劇があったのは本当に信じられないことですと、私が答えると、何を仰います、この場所こそがあの地獄の饗宴が催された場所なのでござります、そうしてこの場所こそが、三十九人の上臈と公たちが斬首された刑場なのです、と静々で喉元から絞り出すような声で答えた。男は視線だけを秀次公の墓石へ注ぎ、あれをご覧なさい、中央に経つ石櫃が秀次公の御墓になりまするが、その周囲に幾つもの墓石が並んでいるでしょう。あれこそが上臈たちの墓石なのです。全部で四十九基置かれておりまするが、その中の三十四は上臈の方々、また残り十五基はそれぞれ秀次公のご子息の方々公たち五人、高野山で秀次公の後を追い自刃した重臣五名、そして京都嵯峨の摂津茨城大門寺で自刃した重臣五名がそれぞれまつられているのです。今はこのような場所に美しい菩提寺が建立されて、そうして立派な石碑が建てられている、この光景と云うものが公たちの無念をいかに和らいでくれたものであろうかと、それを考えるとまたそれが私の涙の源泉となってくるのです。と、云いますのもこのような寺が建つ前には此所はまさに何もない、悲劇に遭われた貴きお方がたの亡骸が堆く積まれた塵捨て場のような有様でした。この場所に大きな穴を掘り、ご遺体を捨てて、それを隠すかのように大土で埋めた土は畜生塚と呼ばれておりまして、その名前と由来と云うものも、秀次公が殺生関白と呼ばれていた名残からでしょうか、殺生の塚が変じて畜生の塚、いわゆる畜生塚に変わって云ったと云われておるのです。畜生塚と云うのはこの悲劇を命じた太閤さまの、その畜生にも劣らない鬼畜の行いを皮肉った言葉であるというのは私の考えではありますが、悪逆の限りを尽くした秀次公のその異常性癖とも云える行いがその名前の由来になっている、と云う意見がより強く世間様では流布されておるようです。その、殺生関白と云う悪戯に広められた言葉も、私には聞くだに馬鹿馬鹿しい言葉に思えるのであります。と、云いまするのも、いわゆるその殺生関白の根拠となる話は、何の信憑性もない、信じがたい噂話、秀次公を貶めるための根も葉もないほら話にしか聞こえないからです。いわく、身重の女人を捕まえては自ら腹をかっ捌き、中のお子を取り出したであるだとか、辻斬りに扮して町人を斬ってまわったであるだとか、罪人を刀の試し切りにし、自ら斬ったであるだとか、非道の限りを尽くしていたと噂されるのですが、そのような事実は城下に住んでいても耳にしたことがない。あれらの噂話というものは、やはり秀次公を陥れるための、石田三成や増田長盛が吹聴した諌言に過ぎぬと思われるのです。と、云いまするのも、秀次公は多くの上臈たちや家臣の信頼も篤く、武芸や文化にも嗜んだ理性的な人でありましたし、けっして血気盛んであるだとかいうこともない、大変に穏やかなな性格の方でござりました。そうして、その嫋やかな性格、常識人であった時の為政者の一族が郎党斬首されると云うこの悲劇が、私には如何ともし難く納得できず、許せないのであります。首を斬られた上臈たちにはまだ幼い若君、頑是無いお子たちが幾人もおり、それらも虫でも殺すかのように平然と残虐に斬り捨てている。三十九人の血で河原が赤く染め上げられ、夏の日差しを浴びた鴨川の水面が夕陽に照らされているかのごとく変じたあの光景、この世のものとは思えない臭気に満ちたあの暗黒世界を産み出すことを命じた太閤様こそが私には畜生には思えてならないのであります。あそこにおかれております数十におよぶ墓石の中に、私にとって特別な思いを与えるものがござります。今は春の日差しをうけて暖かそうに眠っておられるあの石櫃の中に眠るおひいさま、駒姫さまの墓所でござります。駒姫さまはまだ十五の頃に上洛しまして、秀次公にお会いになる前にこの場にて斬首の憂き目にあわれております。まだ幼いおひいさまの胸中にいかな痛苦が育まれていたかは想像することもできません。駒姫、と云うのはおひいさまの字名でござりまして、ほんとうの御名前は於伊万さま、最上義光殿の三女にございます。東国一の美女と名高く、お美しいその圓いお顔には、桜の花びらのような小さな唇に、蜜で潤んだかのような瞳、桃のように柔らかな頬がついておりまして、その器量は特別に神々しく、おひいさまを視た方全てが同様の思いを抱くほどでござりました。おひいさまは幼い頃より唄や琵琶などの音曲の才能がおありで、その小さな指で琵琶の弦を弄る様は、あどけない少女のものではございましたが、そこから紡ぎ出される音色の綺羅びやかな輝きは、聞く者全ての耳を無心に傾けさせる程でありました。おひいさまと初めてお会いしたのは、あれはおひいさまがまだ九つの頃、最上屋敷の庭先で、侍女と姉君であらせられる松尾姫さまとお遊びになられていた時のことでござります。あの頃、義光公の侍従として山形城の宿直の任を命じられていたのですが、公が山形城から最上屋敷へとお戻りになられる際に、一緒に戻ることになりまして、改めて最上屋敷の宿直の任を受けることになったのです。公が山形城にお戻りになられて三日後に、初めて私はおひいさまにお目通りかなったのでござります。母君の大崎夫人もまた煌びやかで﨟たけた美しさの持ち主でござりましたからそれも当然の事でござりましょうが、初めてお目にしたおひいさまのその愛らしさと云えば、まるで絵物語に描かれる桃源郷の天女のようでした。おひいさまは私と目が合うと、照れたように微笑み首を傾げまして、その微笑みは頑是無いものでもありましたが、同時に御仏のような美しさにも満ちておりました。御前はだあれ、とおひいさまが訪ねまして、はっと我に返り石川順慶と申しますと、静かに頭を垂れますと、まるで坊主みたいな御名前なのですねと、ころころろ弾むようなお声でお笑いになりまして、その声を聞いていると、胸の内にぼぉっと雪洞でも灯したかのような温かなものがこみ上げてきたのです。おひいさまは家臣である私に対しても物珍しいものを視るかのような視線を向けて、まだ着任後不案内な私に、自ら城内の案内を買って出て下さりまして、城内の至る所を自慢げに教えて下さいました。おひいさまは普段から姉君の松尾姫さまとよくご一緒に城内を歩き回れて、頑是無い子供の戯れや武家屋敷の礼儀作法を学ぶ日々を過ごしておりました。まだ鶏が鳴く早朝から起きてくると、裲襠に袖を通し、琵琶の稽古に精を出し、昼を過ぎる頃には侍女や松尾姫さま、ときには弟君の義親さまと遊びになられる。宿直として私は城内の警護の任を主とした日々を過ごしておりましたから、自然城内を駆け回るおひいさまとは親しくさせて頂いたのであります。

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