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はじめまして!

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森蘭丸は本当に戦国屈指のイケメンだったのか?

天正6年(1578)2月29日は信長が安土城で近江国内の相撲取り300人を集めて大相撲を催し観戦した日。上機嫌な信長は特に優れた23人の力士に扇を与えた。中でも日野長光に与えた扇は骨に金銀で彩色がされていた。信長が相撲を楽しむ頃、播磨では別所長治が反旗を翻す異変が勃発していた。

366日分「戦国時代の今日、何があった?」つぶやいてみた

永禄3年(1560)1月27日は遅れていた正親町天皇の即位式が行われた日。後奈良天皇の崩御に伴い践祚したが朝廷の財政は逼迫しており即位の礼が行えなかった。2年以上経過して毛利元就らの金銭援助によりようやく実現。その後は天下人の信長や秀吉が財政援助し天皇権威が彼らの後ろ盾となった。

天正9年(1581)2月28日は信長が御所東門外で諸将に馬揃を行わせ正親町天皇らが見物した日。南北8町にわたる馬場を新設した大パレードを挙行し天皇や公家衆さらにイエズス会の宣教師たちも見物した。馬揃の編成は丹羽長秀を先頭に10番組まで続いた。なかには公家衆や旧幕臣も含まれていた。

天文22年(1553)2月26日は今川義元が分国法の今川仮名目録追加21ヶ条を制定した日。父氏親が27年前に制定した今川仮名目録で対応できていない分野の補充を行った。21ヶ条のうち6ヶ条は家臣統制に費やされ寄親寄子制に関する規定が追加。一世代の間に生じた問題に対処するためだった。

慶長12年(1607)2月20日は出雲阿国が江戸城でかぶき踊りを披露した日。かぶき踊りとは戦国末期現れた奇抜な恰好で常軌を逸した行動する「かぶき者」たちの恰好や仕草を取り入れた踊り。ここから江戸時代を経て現在の歌舞伎へ形を変えていったことから2月20日は「歌舞伎の日」とされる。

慶長15年(1610)2月24日は安土桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯が72歳で死去した日。能登七尾城主畠山氏の家臣奥村宗道の子として生まれた。長谷川宗清の養子となり宗清や雪舟の弟子の等春から絵を学んだ。秀吉や千利休に重用され現在国宝に指定されている「松林図屏風」など残した。

天正9年(1581)2月23日はイエズス会巡察師ヴァリニャーノが信長に黒人奴隷を献上した日。肌を黒く塗っているのではと疑った信長は体を洗わせたという。気に入った信長は26~27歳の青年に弥助と名付け武士として側近にした。本能寺の変では二条新御所へ走り織田信忠のため戦い捕縛された。

旧暦に31日無し。文禄2年(1593)12月は家康が儒学者の藤原惺窩を江戸に招き「貞観政要」を講じさせた。のちに家康の政治ブレーンの一人となる林羅山は惺窩の弟子。「貞観政要」は唐2代皇帝の太宗と名臣の問答の中で政治倫理に関する部分をまとめた帝王学の教科書として古くから愛読された。

慶長4年(1599)1月5日は4ヵ月以上も伏せられていた秀吉の死が新年を迎えて公表された日。秀吉は前年8月に伏見城で死去したが内外への影響が大きく秘密にされてきた。朝鮮半島からの日本軍が撤退を完了したことと新年を待ち公表された。ただ死の当日には早くも噂として伝わっていたという。

慶長9年(1604)2月18日は毛利輝元が指月山に萩城の築城を許され開始した日。輝元は山陽山陰8ヶ国を有し安芸国の広島城を居城としていた。関ヶ原の戦いで西軍総大将を務めたため減封。隠居し家督を秀就に譲る形で周防・長門2ヶ国を安堵された。広島城に代わる居城を築く許可を幕府から得た。

天正12年(1584)1月3日は秀吉が大坂城の山里曲輪で茶室開きを行った日。千利休と津田宗及の二人の茶頭とともに茶室開きを行い要人を迎える場として使われた。このときはまだ天守も御殿も未完成であった。のちに大坂夏の陣で天守を逃れ秀頼と淀殿が自害したのが山里曲輪だったといわれる。

天文21年(1552)1月2日は南近江を治め幕府に影響力をもった六角定頼が亡くなった日。兄氏綱が病死すると禅僧だった定頼が還俗し家督を継いだ。幕府の中枢に関与して将軍足利義晴や義輝の擁立に貢献し管領代として後楯となる。定頼は六角氏の最盛期を築き畿内に進出してきた三好氏とも争った。

永禄8年(1565)1月1日はイエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラとルイス・フロイスが幕府に新年の挨拶をした日。しかし布教の後ろ盾として期待していた将軍・足利義輝が5月に永禄の変で三好三人衆や松永久通らに殺害される。一時的に京を追われるが上洛した信長に畿内での布教を許可される。

天文2年(1533)2月9日は薩摩で島津四兄弟の長男・島津義久が生まれた日。義久は義弘・歳久・家久という優秀な弟たちを統率し薩摩から九州統一を進めるも秀吉の九州征伐で降った。島津家は関ヶ原の戦いでは西軍として戦ったが戦後処理で義久の粘り強い講和交渉で改易を免れ本領安堵となった。

天正9年(1581)12月24日は武田勝頼が躑躅ヶ崎館から韮崎の新府城に本拠を移した日。しかし完成していたのは勝頼の居館や本丸門などの一部でしかなく他の曲輪の造成や矢倉や塀などの造作はほぼできていなかった。徐々に織田と徳川の包囲網が狭まると勝頼は翌年3月に城に火をかけ退去した。

旧暦に31日無し。慶長6年(1601)1月は家康が東海道各宿へ朱印状と定書を与え伝馬制度の整備にのりだした。公用の書状や荷物を宿場毎に人馬を交替で運ぶ制度。前年の関ケ原合戦勝利後に江戸を中心とした中央集権化を図り領国を越えて整備した。宿駅毎の馬の数や重量制限、移送範囲など定めた。

天正7年(1579)2月3日は北条氏直が家臣の垪和(はが)又太郎に「直」を与える一字書出が行われた日。元服のとき烏帽子親がその子の命名のため自分の諱の一字を与え、その一字を記して与えた文書。実際の親子に限らず主従の間でも文書の発給は行われ、より強い絆をあらわしたものとされている。

天正12年(1584)12月25日は越中富山城主・佐々成政が浜松城の家康を訪れ秀吉との戦いの継続を懇願した日。小牧長久手の戦い後に織田信雄と家康は秀吉と和睦。成政は命がけで冬の北アルプスを踏破し家康へ徹底抗戦を促すも失敗。このあと三河吉良で鷹狩り中の信雄を訪ねるも説得に失敗した。

天文6年(1537)2月6日は豊臣秀吉が尾張中村の百姓の家に生まれた日。幼少期は明確ではなく太閤記では幼名を日吉丸とするが創作と考えられている。実父が没し継父と折り合いが悪く各地を転々としたとも。木下藤吉郎と称し遠江国の松下之綱に仕えた後に尾張国に戻り信長に小者として仕えた。

慶長7年(1602)2月1日は徳川四天王の井伊直政が彦根城築城の途中に佐和山城で死去した日。遠江国井伊谷の出身で家康が遠江に進出してくると小姓として取り立てられた。武田の赤備えを支えた遺臣を配属され部隊軍装を引継ぎ直政は「井伊の赤鬼」と称されるが加えて外交手腕も高く評価された。

弘治4年(1558)2月5日は松平元康(家康)が初陣で今川氏から離反し織田氏に通じた三河・寺部城の鈴木重辰を攻めた日。このころ三河忩劇といわれる国衆による今川氏への大規模な反乱が起きていた。今川義元は元康を初陣させ寺部城を攻略を命じた。この戦功により元康は旧領の一部が返還された。

明応8年(1499)1月30日は畠山尚順が畠山義豊を河内十七箇所で破り自害させた日。尚順の父政長と義豊の父義就の家督争いは応仁の乱の原因の一つとも。義就の死後に将軍義材による義豊討伐の際に起きた明応の政変で政長が自害に追い込まれ尚順は紀州へ逃亡。反撃の末に義豊を死に追いやった。

天正10年(1582)1月28日はイエズス会巡察師ヴァリニャーノらに伴われた天正遣欧少年使節が長崎を出航した日。伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノという4人の少年使節は3年後にローマ教皇に謁見した。これによりヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになった。

慶長18年(1613)1月25日は姫路藩初代藩主で姫路城を現在の規模に拡張した池田輝政が死去した日。信長や秀吉に仕え長久手合戦で父恒興と兄元助が討死したため家督を継ぐ。亡くなった北条氏直の正室だった家康の次女督姫を秀吉の仲介で継室に迎えて関ヶ原合戦では東軍に属し姫路を与えられた。

永禄5年(1562)2月4日は松平元康(家康)が上ノ郷城を攻め鵜殿長照を討った日。長照は元康が大高城兵糧入れ時の城代。落城で長照の二子が捕らえられ元康の妻子と交換のため今川方へ送られた。城は元康の継父久松長家が有した。

天文23年(1554)1月24日は信長が初めて鉄砲を使用し今川方の村木砦を攻略した日。西三河から尾張へ勢力拡大を狙う今川氏が水野氏の緒川城攻略のため築いた砦。義父の斎藤道三から送られた安藤守就らを留守居部隊として信長は強風の中を熱田から渡海。緒川城を経由してこの日攻撃を開始した。

天正8年(1580)1月17日は羽柴秀吉が別所長治の籠る播磨の三木城を兵糧攻めで攻略した日。信長の中国攻略に協力した長治が天正6年2月に突如として毛利に内応して籠城。三木の干殺しと呼ばれる2年弱に及ぶ包囲戦は城兵の助命を条件に長治が自刃し終結。東播磨を抑えた秀吉は西へ進むことに。

天正9年(1581)1月16日は豊後国府内にイエズス会が聖職者育成のための神学校であるコレジヨ(コレジオ)を開校した日。府内はキリスト教の布教を庇護した大友宗麟の本拠地であった。後に島津氏に大友氏が攻められ島原や天草へ移転した。学校としてだけでなく活版印刷機での出版も行われた。

慶長16年(1611)1月21日は島津家の最大版図を築いた島津義久が79歳で死去した日。義弘・歳久・家久という有能な弟たちを取りまとめる島津四兄弟の長男で父貴久から家督を継ぐと大友宗麟や龍造寺隆信らと争った九州三国志を制すも秀吉に降る。西軍に属した関ヶ原合戦の危機も乗り越えた。

元亀3年(1572)12月6日は細川藤孝が前大納言の三条西実枝に誓書を提出して古今伝授を受けた日。古今和歌集の読み方や解釈は秘伝とされ故実を師弟間で1対1で教える方法で歌道の奥義として重視された。4年後に藤孝は実枝から証状を与えられ、のちに実枝の子公国や、その子実条に伝授した。

慶長4年(1599)1月10日は豊臣秀頼が秀吉の遺言に従い母・淀殿とともに大坂城へ移った日。5日前に秀吉の死が公表されていた。この移動により豊臣政権は秀吉の遺言で伏見城に残り政務を執る家康と大坂城に移った秀頼と傅役・前田利家の2つに分かれた。これまで政治の中心は伏見城だった。

弘治3年(1557)1月15日は松平元信(徳川家康)と今川一門の築山殿(瀬名)との婚儀が行われた日。同じ頃元信から元康に改名したという。築山殿は元康より年上とも同年ともいわれる。母は今川義元の妹とも伯母ともいわれ元康は今川一門に準じる扱いとなった。後に嫡男信康と亀姫が誕生する。

慶長11年(1606)11月11日は俵屋宗達が下絵を描き本阿弥光悦が古今和歌集の和歌を書いた「金銀泥下絵和歌巻」が成った日。宗達は「風神雷神図屏風」などで知られる絵師で金と銀を巧みに使い下絵を描いた。光悦は書家、陶芸家、蒔絵師などの顔を持つ芸術家で下絵に和歌を散らし書きにした。

天正2年(1574)1月12日は信長が尾張瀬戸の陶工・加藤市左衛門に瀬戸焼物窯の独占的免許を与えた日。瀬戸焼は瀬戸だけで焼いて良く他に窯を作ってはならないという天下布武の印が押された朱印状が残る。これより前に瀬戸の陶工が美濃などへ移って衰えを見せていたため信長が保護政策を行った。

天文19年(1550)11月21日は将軍足利義藤(義輝)が京で三好長慶と戦い近江堅田へ逃れた日。将軍家、細川氏、細川氏家臣の三好氏の三家の中で敵味方入れ替わり争っていた。義藤は父義晴と細川晴元に伴われ京を脱出し近江へ逃れていた。東山に城を築くなど京奪還を図ったが三好勢に敗れた。

永禄12年(1569)1月6日は将軍足利義昭の仮御所の本圀寺を囲んだ三好三人衆を撃退した日。前日から攻め寄せた敵を明智光秀らが防ぐと細川藤孝・池田勝正・荒木村重など畿内の諸将が駆け付け撃退した。岐阜の信長は大雪の中を僅かな供を連れ急ぎ出立すると到着したときには数人の凍死者が出た。

文禄3年(1594)1月4日は医師の曲直瀬道三(まなせどうさん)が88歳で死去した日。道三は正親町天皇・将軍足利義輝・織田信長や毛利元就など戦国大名の診療した医師。医学書「啓迪集」や「雲陣夜話」など数多くの著書を残した。また医学校「啓迪院」を創設し後進を育てることにも力を注いだ。

元亀3年(1572)10月20日は将軍足利義晴の侍医だった吉田宗桂が亡くなった日。1539年には明に渡り医術を学び、1547年に再び明に渡った際には皇帝世宗に薬を献じ明でも有名となった。長男は豪商として知られる角倉了以であり、医業を継いだ次男宗恂は豊臣秀次や徳川家康にも近仕した。

天文17年(1548)12月30日は長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぎ春日山城に入った日。黒田秀忠が春日山城へ攻め寄せる謀反を起こした。越後守護代の兄・晴景は病弱で越後の混乱を抑えられず国人たちは景虎を擁立。守護の上杉定実が調停することで景虎が晴景の養子となり家督移譲が実現した。

永禄9年(1566)12月29日は家康が松平から徳川に改姓した日。関白近衛前久に相談し先祖に三河守の前例のある藤原氏の系統があるとして朝廷に改姓を認めさせた。三河支配の正当性として従五位下三河守へ叙任されるためという。ここで徳川を名乗るのは家康一人で松平一族や家臣団を統制した。

天正19年(1591)12月28日は秀吉が関白を甥の豊臣秀次に譲り太閤を称した日。この年の秀吉は弟秀長と3歳の実子・鶴松を相次いで亡くしており秀次を後継者にした。秀次は関白として聚楽第で政務を執ることになった。しかし実権は秀吉が持ったままであり2年後に秀頼が生まれることになる。

文禄2年(1593)11月5日は秀吉が長崎の商人・原田孫七郎を派遣して高山国(台湾)へ朝貢を求めた日。秀吉は現在のフィリピンをはじめ海外の国々に朝貢を求めていた。その中で高山国という国が当時の台湾にあると考えられていた。しかし台湾に統一国家はなく交渉先を見つけられず失敗した。

天文11年(1542)12月26日は岡崎城主・松平広忠の嫡男として竹千代(家康)が生まれた日。母は刈谷城主・水野忠政の娘於大だったが跡を継いだ兄信元が今川方を離れ織田方についた。このため2年後に広忠と於大は離縁することに。竹千代は6歳から19歳まで織田と今川の人質として過ごした。

弘治元年(1555)閏10月29日は堺の町衆で茶人の武野紹鴎が亡くなった日。紹鴎は茶道において千利休の師匠として知られる人物。村田珠光が創始者とされる「わび茶」を珠光の弟子宗珠に学んだ。わび茶は紹鴎がさらに洗練させ弟子の利休、今井宗久、津田宗及らに継承され完成したといわれる。