発心

日本文化、美術が好きです。京都非在住ですが、京都の話題を中心に記事を書いていきたいと思…

発心

日本文化、美術が好きです。京都非在住ですが、京都の話題を中心に記事を書いていきたいと思います。

最近の記事

酒呑童子

酒呑童子伝説 酒呑童子については、様々な伝説がありますが、大まかなあらすじは以下の通りです。見出しの画像は酒呑童子(出所:ウィキペディア)。 鬼の酒呑童子は、丹波の国の大江山に住み、京に出ては、若い娘を襲ったり、誘拐したりを繰り返していました。一条天皇は、源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせました。頼光らは、山伏の格好で、酒呑童子の居城に着きました。うまく酒呑童子をだまし、夜酒を酌み交わします。そして、頼光らは、酒呑童子と家来に八幡大菩薩から与えられた「神変奇特酒」という毒酒を

    • 豊臣秀次の怨霊

      豊臣秀次 豊臣秀次は、御存知の通り、天下人豊臣秀吉の甥で、関白の職を譲られます。ところが、秀吉に実子秀頼が誕生しますと、秀次は強制的に出家させられます。そして、謀反の嫌疑をかけられた秀次は、高野山で切腹し、一族30余名が三条河原で打首となりました。遺体は、河原に埋められ、「秀次悪逆塚」と刻まれた石塔が建てられました。本当に痛ましい事件です。画像は豊臣秀次です(出所:ウィキペディア)。 『雨月物語』 『雨月物語』に、この秀次の怨霊が登場します。あれだけ惨い死を迎えたので、

      • 荼枳尼天2

        荼枳尼天と稲荷 前回に続き、荼枳尼天です。今回は、荼枳尼天と稲荷の関係についてお話します。見出し画像は、伏見稲荷大社(出所:伏見稲荷大社、http://inari.jp/)です。 荼枳尼天と稲荷とは、混同され、また同一視されることがあります。稲荷は、田の神である宇迦之御魂神(うかのみたま)が主祭神です。それが、どうして荼枳尼天と混同されるようになったのでしょうか。 一つは、狐を通じてだと言われます。狐は、稲荷神の使いとされます。なぜなら、穀物を食い荒らすネズミの天敵で、狐の

        • 荼枳尼天(だきにてん)

          荼枳尼天 荼枳尼天は、元々インドの夜叉で、人肉を食べるとされていました。それが、仏教に取り入れられ、改心して仏・菩薩の眷属となりました。日本では、真言密教を通じて伝えられ、胎蔵曼荼羅の外金剛院・南方に配せられています。その後、菩薩や神に昇格し、白狐にまたがる天女の姿で描かれるようになります。見出しの画像は、荼枳尼天です(出所:ウィキペディア)。 荼枳尼天による「荼枳尼天の法」は、願望をかなえてくれると言う素晴らしいものです。荼枳尼天の出自が出自なだけに、その効力は絶大なもの

        酒呑童子

          浦島太郎の弟

          陽成院に出没する浦島太郎の弟 見出しの画像は浦島太郎です(画像出所:ウィキペディア)。陽成天皇が帝を辞された後の邸宅が、陽成院です。現存しませんが、京都市中京区東夷川町辺りです。『源氏物語』は、この陽成院を二条院に想定していると言われており、興味をそそられる場所であります。 でも、ここには妖怪物語があります。『宇治拾遺物語』では、この場所に化け物が住んでいると記されています。あるときの真夜中、一人の老人が、警護の者に話しかけます。自分は、昔からここに千二百年住んでいる浦島太

          浦島太郎の弟

          火前坊(かぜんぼう)と焼身往生

          火前坊 火前坊は、京都鳥部山に現れる炎に包まれた僧の妖怪です。見出しの画像がその火前坊です(画像出所:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%89%8D%E5%9D%8A)。鳥部山で焼身往生を図った高僧が、この世に未練を残し、往生できず、妖怪になったとされています。江戸時代の鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』に登場します。 焼身供養は、奈良時代から始まります。『法華経』薬王菩薩本事品にみえる喜見菩薩の焼身供養の話

          火前坊(かぜんぼう)と焼身往生

          百鬼夜行

          今昔物語集 『今昔物語集』などの説話で、百鬼夜行について紹介されています。この百鬼夜行に会うと命を落とすと言われ、当時貴族を中心に恐れられていました。室町時代には、この百鬼夜行絵巻が作成され、その様子をうかがい知ることができます。見出しの画像は、百鬼夜行之図です。画像出所:岩瀬文庫 https://iwasebunko.jp/stock/collection/entry-198.html ただ、説話と絵巻には大きな違いがあります。説話では、鬼や幽霊が行列を成しますが、絵巻で

          百鬼夜行

          一条戻り橋

          一条戻り橋の伝説 京都の一条戻り橋は、数々の伝説と結びついています。見出しの画像は、現在の一条戻り橋です。画像出所:ウィキペディア 元々、都の死者を、この橋を通じて、都の内から外の埋葬地に送っていました。その意味では、この橋から、都の中と外が決められることになります。この世とあの世を結びつける橋と言うことができます。 平安時代、文章博士三善清行が亡くなり、葬儀の列がこの橋を渡ろうとしました。その時、清行の息子が現れ、父の棺にすがって泣きました。そして、お経を唱えると、な

          一条戻り橋

          安倍晴明

          陰陽道 仏教、神道だけでなく、平安時代、貴族社会で信仰を集めたのは、陰陽道です。中国からの天文学を基に道教、仏教、神道を吸収して日本独自の陰陽道が成立します。特に、怨霊への恐怖が高まった平安時代に、御霊信仰と結びつき、大きく発展します。この陰陽道のスーパースターは、ご存知の安倍晴明(921-1005)です。見出しの画像は安倍晴明像です。画像出所:晴明神社 https://www.seimeijinja.jp/guide/。 ただ、晴明が大活躍されるのは、意外と晩年です。天皇

          安倍晴明

          神猿(まさる)

          赤山禅院 見出しの画像は、京都赤山禅院の神猿(まさる)です。画像出所:宿坊研究会(https://shukuken.com/sekizanzenin-omamori)。赤山禅院は、御所から鬼門である東北に位置しているため、表鬼門を守護する方除けを担っています。そのため、表鬼門を守護する鬼門除けの猿の像が置かれています。申年は、鬼門とは反対の方角である西南西を指しますので、猿が邪気を払う力を持っているとされています。ただし、この猿は、檻に入れられています。かつて、夜に暴れてい

          神猿(まさる)

          鉄鼠(てっそ)

          見出しの画像は、ネズミの妖怪鉄鼠です(画像出所:ウィキペディア)。この妖怪の出現には、比叡山延暦寺と三井寺の抗争が関係しています。 延暦寺VS三井寺 上の画像は、延暦寺(画像出所:延暦寺)と三井寺(画像出所:三井寺)です。今回は、京都ではなく滋賀が中心です。平安時代中頃、比叡山では、円仁派と円珍派の対立が激化し、円珍派は三井寺に移ります。残った延暦寺(山門派)と出て行った三井寺(寺門派)は、その後永きにわたって、対立します。その対立は、思想的な対立から、政治的、武力的な対

          鉄鼠(てっそ)

          鵺(ぬえ)

          鵺大明神 京都では、妖怪が祀られている神社があります。その一つが、二条公園の北側にある鵺大明神です。鵺は、顔が猿、同体が狸、手足が虎、尾は蛇という妖怪です。鵺大明神がある場所は、この鵺が退治されたところです。祟りを恐れたのかもしれませんね。見出しの画像は、この鵺大明神です。画像出所:京都トラベル https://kyototravel.info/nuedaimyoujin 鵺退治 平安時代、近衛天皇が毎晩丑の刻(午前2時)に苦しまれます。その原因が、この鵺でした。鵺は、

          鵺(ぬえ)

          庚申信仰

          八坂庚申堂 見出しの画像は、庚申(こうしん)信仰の中心地で、昨今フォトジェニックスポットとして話題の八坂庚申堂です。画像出所:トラベルJP  https://www.travel.co.jp/guide/article/4578/。 八坂庚申堂では、庚申信仰オリジナルとされる青面金剛が本尊で、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿も祀られています。猿は、庚申の使いです。堂では、カラフルな布地で作られた「くくり猿」に願い事を書いてつるします。「くくり猿」は、猿が手足をくくられ

          庚申信仰

          鬼の子孫の里山八瀬

          八瀬童子 比叡山の西の麓に、八瀬と呼ばれる里山があります。ここの住人は、鬼の子孫、八瀬童子と呼ばれ、長い歴史の中で、天皇の輿丁(輿の担ぎ手)として奉仕してきました。そのため、天皇家と関係が深いです。葵祭でも、輿丁の扮装で参加します。見出しの画像は、大正天皇崩御の頃、輿を担ぐ練習をしている八瀬童子です。画像出所:ウィキペディア 八瀬童子は、最澄が使役した鬼の子孫であると伝えられています。また、延暦寺座主が、冥府を往来する際、輿を担いでお供したとも伝えられています。さらには、

          鬼の子孫の里山八瀬

          幽霊子育飴

          みなとや幽霊子育飴本舗 六波羅蜜寺や六道珍皇寺の近くに、450年続く、みなとや幽霊子育飴本舗という飴屋さんがあります(見出しの画像は、幽霊子育飴です。画像出所:みなとや幽霊子育飴本舗 https://kosodateame.com/sales.html)。この辺りは、埋葬の地であった鳥辺山(諸説ありますが、だいたい清水寺の周辺)近辺ですので、幽霊物語が多いです。下の画像は、このみなとや幽霊子育飴本舗です。画像出所:京都100年起業研究会 https://shinise.ky

          幽霊子育飴

          京都と狐

          妖狐 京都には妖狐の話が、たくさんあります。その中で、最も怖ろしい話が、九尾の狐です(見出しの画像は、三国妖狐図絵。出所:太田記念美術館https://otakinen-museum.note.jp/n/n9cebaaec4e7d)。 九尾の狐は、中国の殷王朝を崩壊に導いた後、インドに渡り、さらには、平安末期の日本に来たとされています。日本では、玉藻前として鳥羽上皇に寵愛されます。上皇の寵愛は日増しに深まっていきますが、それと同時に上皇は病に伏してしまいます。そこで、陰陽

          京都と狐