見出し画像

豊臣秀次の怨霊

豊臣秀次

豊臣秀次は、御存知の通り、天下人豊臣秀吉の甥で、関白の職を譲られます。ところが、秀吉に実子秀頼が誕生しますと、秀次は強制的に出家させられます。そして、謀反の嫌疑をかけられた秀次は、高野山で切腹し、一族30余名が三条河原で打首となりました。遺体は、河原に埋められ、「秀次悪逆塚」と刻まれた石塔が建てられました。本当に痛ましい事件です。画像は豊臣秀次です(出所:ウィキペディア)。

『雨月物語』

『雨月物語』に、この秀次の怨霊が登場します。あれだけ惨い死を迎えたので、怨霊に成って当然のように思われます。ある隠居した父と、その息子が高野山で秀次とその家来たちの怨霊に遭遇します。ただ、秀次の怨霊たちは、この父子と俳諧あそびをするのみです。なんとも怨霊らしくありません。怨霊たちは、修羅に戻ろうとするとき、秀次は、父子も連れて行こうとしますが、老臣たちに諫められます。父子は、気を失いますが、命拾いします。遭遇したのが、秀次さんの怨霊で良かったのかもしれません。

崇徳上皇との違い

『雨月物語』には、保元の乱で敗れた崇徳上皇の怨霊も登場しますが、こちらは、西行の説得のむなしく、この世に強い怨念を残しています(崇徳上皇の怨霊については別の機会にご紹介します)。崇徳上皇と豊臣秀次の違いは何だったのでしょうか。
これは、怨霊を生み出した人によるように思われます。崇徳上皇の場合は、ライバルである後白河天皇やその配下の貴族です。彼らは、崇徳上皇の恨みを恐れました。これは、他の大怨霊として恐れられている早良親王、菅原道真、平将門と類似しています。早良親王の怨霊を恐れたのは桓武天皇、菅原道真の怨霊を恐れたのは醍醐天皇と藤原氏、平将門の怨霊を恐れたのは朝廷です。つまり、皇室や貴族が怨霊を恐れたのです。一方、秀吉さんは、最も残酷なことをしたのにもかかわらず、秀次さんの祟りなどまったく気にかけなかったのでしょう。貴族と戦国武士の違いが、怨霊の違いに影響を与えていると考えられます。

崇徳上皇の怨霊(出所:ウィキペディア)

瑞泉寺

京都木屋町通に、瑞泉寺というお寺があります。このお寺は、秀次とその一族を弔っています。ただ、弔われるようになったのは、江戸時代に入ってからです。秀吉には、お寺をつくる気はなかったのでしょう。

瑞泉寺(出所:ウィキペディア)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?