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上越立ち止まりスポット27(名立区 江野神社)

暑い!天気予報では35度以上。名立公民館へ行った帰りにかねてから行ってみたかった江野神社に寄った。セミの声の中で坂を登っていく。木立に入ると少し温度が違う。江野神社は日本の歴史的事件にかかわる逸話がある。

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江野神社は、名立大町にある。延喜式(927年)に記載されている平安時代からの古社だ。延喜式では、この地に名立駅(駅馬五疋)が設置されたという。古代北陸道の要衝だった。大国主命(おおくにぬしのみこと)と素戔嗚命(すさのおのみこと、牛頭天王、ごずてんのう)が祀られてる。

祇園祭が古来行われている。300年からの伝統行事。7月7日の朝に神輿が白足袋とハッピ姿の若衆に担がれる。神輿にあわせて山車も出る。神輿の前部は、谷口集落の者がかつぐ。谷口にまつられていた牛頭天王(祇園社)が合祀されたからだ。夕日が沈む頃に「おたびしょ」に安置され、13日の深夜に社におくられる。

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谷口には牛頭天王社があり、室町時代には神田が給された。天王川原がその場所で、そこに天王滝があり、滝壺には御神馬が駆け上った蹄の跡があるという。13日深夜(日が過ぎてからだから正確には14日)、神輿が還御する際には御神馬が三の鳥居までお迎えに出たという伝説がある。今は江野神社に合祀された。

神社には江戸時代に作られたという木造の御神馬が神馬舎におかれている。長い間しまわれていたが、天皇即位を記念し令和元年に修復された。本物の馬のようだ。

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文禄4年(1595)、8月25日、右大臣菊亭晴季(きくていはるすけ)は、豊臣秀次事件に連座して、江野神社の神主武内家に配流となる。晴季は、名立野の峰にかかる明月を見て、 哀れげにさすらひ出し今宵かも 浮身名立の月をみるかも と詠じた。翌慶長元年(1596)、許されて帰洛する。

文禄4年の豊臣秀次事件とは、豊臣秀吉が淀君に子ども(秀頼)ができたことで関白職を譲った甥の秀次を追放し、謀反の疑いで切腹させた事件である。このとき、秀次の正室、子女、妻妾30余人が三条河原で斬首される。菊亭晴季の娘は、秀次の正室だった。そのため配流されたのだ。なんということだ。

江野神社には、ユニークな御神体がおいてある。平成5年、御神木の枝が台風で折れたとき、陰陽の形になったという。

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名立にはこの15年くらい、いろいろと関わらせてもらっている。まだまだ知らない名立の歴史をすこしずつ探っていきたい。

参考:花ケ前盛明、「上越市の史跡と人物」