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豊臣秀次の辞世 戦国百人一首52

「殺生関白」(摂政と関白という役職名にかけたあだ名である)と呼ばれるほど猟奇的で悪逆非道な人物だったと言われる豊臣秀次(1568-1595)。
しかし、現在の研究で彼の悪逆非道な行為は後世の創作であると考えられている。

豊臣秀次 52

  月花を 心のままに 見尽くしぬ なにか浮き世に 思ひ残さむ

月も花も思う存分見ることができた。浮世に思い残すことはもう、何もない

秀次の父は尾張犬山城主や清洲城主を務めた三好吉房(出自についての詳細不明)、母は豊臣秀吉の姉・とも、つまり秀吉の甥っ子だった。
跡継ぎのなかった秀吉の跡継ぎとして養子となり、関白となった男だ。
しかし、秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉の秀次に対する態度が変わった。
謀反を企んだとされて高野山へ追放となり出家させられた。
さらに出家しているにもかかわらず切腹を命じられたのだ。

秀次は、身に覚えのない「謀反」という罪を理由に切腹することとなった。
それでも、上記の辞世を読む限りでは健気に自分の死に向き合ったように思える。
意地になって「未練はない」と読み上げる、まだ28歳の秀次の心中はいかがなものだったか。

切腹したときの秀次は、自分の死後に一族まで皆殺しにされるなど考えもしなかったのではないだろうか。
だからこそ、無理をしてでも「思い残すことがない」などと言ってのけることが可能だったのではないのか。

秀次の辞世としてこの歌も伝わっている。

  磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦

海辺でただならぬ嵐にあったが、仲の良い千鳥たちの澄んだ鳴き声を聞くと心が穏やかになる

本当だろうか。
いくら教養人であっても、功ある武将でも、彼は本当に理不尽な死に対峙してこんなにも安らいで死を迎えただろうか。

謀反とは別に、秀次には「殺されても仕方ないほどの悪評」がつきまとう。

【秀次は狂的な「殺生関白」】
・力自慢の試し斬りをするために往来の人に辻斬りを行った
・鉄砲の稽古で農民を撃ち殺した
・手足を縛り付けた罪人に対して胴斬りをして楽しんだ
・妊婦の腹を切って胎児を引きずり出した
女人禁制の比叡山に女房らを連れて行き、遊宴をおこない、殺生が禁じられているにもかかわらず鹿や猿などの狩猟をした

後世の創作だと考えられているが、未だ秀次の印象から100%消えたわけではない。

しかし、秀次の実像には以下のような側面もあった。

【名君だった】
居城・八幡山城を築いた近江八幡では、上下水道の整備された計画的な町造りをおこない、領内では善政を布いていた。
豊臣秀次は若いながらも宿老に助けられながら、自分が領する町の繁栄に尽力したのである。

【文武両道の人だった】
『源氏物語』を書写させて所持し、古典の収集にも熱心だった。
また、茶の湯や連歌を嗜んでいた
16歳の時、小牧・長久手の戦いでの大きな敗戦を経験したが、その後は多くの武功を挙げており、「天下人」の豊臣秀吉の甥(養子)としての役割は十分果たしていた。

豊臣秀次は、武将として切腹したはずだったが、武将のプライドも与えられず三条河原に晒された。
彼の妻子も同じ河原で公開処刑され、関係者たちも粛清された。

自分の後継者・秀頼の存在を揺るぎないものにするために秀吉が実行させたこの秀次の事件。
豊臣家や豊臣家臣団に亀裂をもたらし、結果的に多くの武将を関ヶ原の戦いで徳川方へ就かせる要因の一つとなったのは皮肉である。