見出し画像

熊谷直之の辞世 戦国百人一首54

熊谷直之(くまがいなおゆき)(?-1595)も、豊臣秀次が謀反の疑いで豊臣秀吉に切腹を命じられたときに、連座して命を落とした多くの人々のうちの一人である。

熊谷直之 54

 あはれとも問ふひとならでとふべきか 嵯峨野ふみわけておくの古寺 

私を哀れだと思わなければ、ここを訪れる人もいないだろう、
嵯峨野を踏みわけてやってくるようなこんな奧の古寺なのだから

1595年7月、京都嵯峨野にある二尊院で自刃している。
彼が連座しなければならなかった理由は、豊臣秀次に謀反を勧めたからだと言われている。

『太閤記』には、すでに身辺整理を済ませた上で二尊院の和尚に自害をする場所を乞い、金と刀、脇差などの品々を差し出して粛々と自害の準備を進める熊谷直之の姿が描かれている。

熊谷直之は若狭国井崎城(大倉見城ともいう)城主を務め、若狭守護の武田氏家臣だった。
武田氏が織田信長に従属して1570年の朝倉攻めをする時には直之も参陣している。
本能寺の変で信長が亡くなると、豊臣秀吉の配下となり、関白になった秀次に仕えて家老となった。

それが運命の分かれ目となった。

豊臣秀吉の息子・鶴松が幼くして亡くなったために甥の秀次を養子とし、関白職を譲った秀吉だった。
しかし、1593年に秀吉の嫡子・秀頼が誕生。
すると秀吉は秀次への態度を変え、1595年6月、突然に秀次を高野山に追放したのである。
秀次が「鷹狩りを装って仲間と謀議を重ね、謀反を計画している」というのがその理由だった。

結局、豊臣秀次は7月15日に高野山の青巌寺・柳の間にて自害した。
熊谷直之が自決したのは、主君に先んじた7月13日である。
秀次の高野山蟄居の責任を取って京都嵯峨野の二尊院で亡くなった。

『戦国百人一首53』で紹介した秀次の側室・一の台は、
「秀次の妻だというだけで死ななければならなかった」
という口惜しさを辞世に表わした。

しかし、秀次の家臣・熊谷直之は
「秀次の家臣というだけで身に覚えのない罪で死ぬのか」
などとは言っていないし、もちろん言えない。

人里離れた寺で一人死んで行く身を寂しげに嘆くだけだ。

現代の誰もが知る有名武将というわけではないが、熊谷直之は秀次家臣として、主君の名に恥じぬよう一人武将らしく散って行ったのである。