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戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【7月12日~18日】


戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。


7月12日 足利義昭、岐阜への動座を通知

永禄11年(1568)7月12日(旧暦)、越前(現、福井県)朝倉(あさくら)家に滞在中の足利義昭(あしかがよしあき)が、越後(現、新潟県)の上杉輝虎(うえすぎかげとら、謙信〈けんしん〉)に通知。織田信長(おだのぶなが)の要請により、近日、美濃(現、岐阜県)の岐阜へ座を移すこと、またこの件について、朝倉義景(よしかげ)は悪しき感情を抱いていないことなどを伝えました。

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7月13日 福島正則没

寛永元年(1624)7月13日(旧暦)、福島正則(ふくしままさのり)が没。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の親戚で、賤ヶ岳(しずがたけ)合戦をはじめ数々の武功を上げた猛将です。関ヶ原(せきがはら)では東軍の中心として活躍。安芸(現、広島県西部)広島48万9000石を得ました。しかし、城の無断修繕を咎(とが)められて改易(かいえき)に。信州(現、長野県)高井野(たかいの)で病没しました。

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7月14日 中尾城の戦いで鉄砲が使用される

天文19年(1550)7月14日(旧暦)、三好長慶(みよしながよし)配下の三好長逸(ながやす)、十河一存(そごうかずまさ)らが入京し、細川晴元(はるもと)軍と東山で衝突。中尾(なかお)城の戦いです。この戦闘で細川軍の銃撃により、三好長逸の息子・久介(きゅうすけ)の家来が討死しました。一説に、鉄砲の実戦使用の初見記録とされます。

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7月15日 豊臣秀次切腹

文禄4年(1595)7月15日(旧暦)、豊臣秀次(ひでつぐ)切腹。豊臣秀吉の甥(おい)で養嗣子(ようしし)となり、関白(かんぱく)職も譲られますが、秀吉に実子・秀頼(ひでより)が誕生すると関係は微妙に。やがて謀叛の噂が流れ、秀次は高野山に蟄居(ちっきょ)を命じられた後に、金剛峯寺(こんごうぶじ)で自刃(じじん)。死は秀吉の命令ではなく、秀次が自ら身の潔白(けっぱく)を訴えたとする説もあります。

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7月16日 佐竹義宣誕生

元亀元年(1570)7月16日(旧暦)、佐竹義宣(さたけよしのぶ)誕生。常陸(現、茨城県)の「鬼義重(おによししげ)」こと佐竹義重の嫡男(ちゃくなん)で、家督相続後、豊臣秀吉に臣従。石田三成(いしだみつなり)や上杉景勝(かげかつ)と親交を結びます。関ヶ原合戦時は家中の意見が割れ、東西いずれにも積極的に与(くみ)せず。結果、秋田へ転封(てんぽう)となりました。

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7月17日 細川ガラシャ没

慶長5年(1600)7月17日(旧暦)、細川(ほそかわ)ガラシャ没。明智光秀(あけちみつひで)の娘で、細川忠興(ただおき)の正室です。ガラシャは洗礼名で、通称は玉(たま)。挙兵した石田三成ら西軍は、大坂にいる諸将の妻子を人質にしようとしますが、ガラシャは拒否。キリシタンゆえ自害はせず、家臣の手にかかり、細川屋敷は炎上しました。

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7月18日 足利義昭降伏退去

元亀4年(1573)7月18日(旧暦)、織田信長が山城国(現、京都府)槇島(まきしま)城を攻略将軍足利義昭は降伏し、息子・義尋(ぎじん)を人質に出して退去しました。信長は河内(現、大阪府)若江(わかえ)城までの警固役を羽柴秀吉に命じ、義昭をあえて民衆の前にさらすと、人々は自業自滅(じごうじめつ)と嘲(あざけ)ったといいます。

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【7月の戦国武将生没日】

7月3日・尼子勝久没
7月4日・三好長慶没
7月5日・甲斐宗運没
7月6日・三淵藤英没
7月10日・島津歳久誕生
7月11日・三浦義同(道寸)没
7月11日・三浦義意(荒次郎)没
7月11日・北条氏政没
7月11日・北条氏照没
7月13日・福島正則没
7月14日・藤田信吉没
7月15日・豊臣秀次没
7月16日・佐竹義宣誕生
7月16日・篠原長房没
7月17日・島津忠長誕生
7月17日・山中鹿介没
7月17日・中村一氏没
7月18日・島津歳久没
7月19日・北条氏綱没
7月19日・大道寺政繁没
7月19日・立花直次没
7月20日・結城晴朝没
7月21日・島津義弘没
7月21日・諏訪頼重没
7月23日・島津義弘誕生
7月24日・真田大助誕生
7月26日・太田道灌没
7月27日・高橋紹運没

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