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一の台(豊臣秀次室)の辞世 戦国百人一首53

豊臣秀吉の甥で、彼の養子になった豊臣秀次の側室(もしくは正室とも考えられている)が「一の台」(1562-1595)である。
公卿・菊亭晴季(きくていはるすえ)の娘だ。
夫の豊臣秀次が謀反の疑いで切腹した後、一の台も多くの者と共に斬首された。
そして、その時の心境がそのまま彼女の辞世の歌となった。

一の台 露草 決定

 つまゆへに くもらぬ空に 雨ふりて 白川くさの 露ときえけり

妻であるがゆえに、雲やぬ空から雨が降ってきたような、突然思いがけないこととなり、白川の草の露がすぐに消えてしまうように、私も死んでしまうのです

『戦国百人一首 52』で紹介した秀次の歌と比べると、理不尽な理由で死ななければならなかった彼女の当惑、混乱、悲しみがもっと直接的に訴えられている。

秀吉が秀次に切腹させたあと、実に多くの秀次の家老、家臣たちが切腹、打ち首、殉死、流罪などで粛清された。
さらに、秀次の妻や妾、そして子供たちを含む40名弱の人々が、秀次の妻であり、子であっただけの理由で斬首された。
一の台は、その中の一人である。享年34。

もともと、一の台の父・公家の菊亭晴季(きくていはるすえ)は、征夷大将軍になることに失敗した羽柴秀吉のために、朝廷に働きかけて彼の1584年の関白任官を成功させた功労者である。
その晴季の気品のある大層美しい娘が公卿の三条顕実の未亡人・一の台だった。
彼女は秀次に見初められ、側室ながらも正室のように扱われた(正室だったという説もあり)のだった。

一の台が秀次の妻となる経緯において「一の台が病気を理由に秀吉の側室になるのを拒んだ」という話がある。
秀吉には、彼を断りながら秀次の妻となった一の台への怒りがあったのかもしれない。
秀吉は妻の北政所(きたのまんどころ)による助命嘆願さえも聞き入れなかった。

三条河原での処刑のあと、一の台を含めた眷属たちの遺骸は墓を作られるわけでもなく、穴を掘って埋められたという。

さらに秀吉から譲られていた秀次の邸宅である聚楽第は、粛清後に秀吉によって破却されてしまった。
伏見城の造営に再利用された部分もあるが、建築されてから破却されるまでの聚楽第の寿命はたった8年である。
どれほど秀吉が秀次の痕跡を消し去りたかったのか、その執念がわかるようである。

秀吉の死後、秀次の母・とも(瑞龍院日秀)により、秀次一門の菩提寺として妙慧山善正寺が建立された。
ここには秀次の首塚や一門の供養塔などがある。