近江八幡:豊臣秀次の城下町と水郷は近江商人発祥の地へ

画像1 八幡堀の風景でも有名な近江八幡は、のちに関白となる豊臣秀次(秀吉の甥)が築いた八幡山城の城下町として整備されたのが発展のきっかけ
画像2 織田信長が本能寺に倒れて安土城も灰燼に帰してから3年が経過したころで、安土城下の楽市楽座令がこの八幡城下にも踏襲され、安土に集められていた商人たちもこの八幡に移ってきました(写真は八幡山ロープウェイ頂上から見下ろした近江八幡市街)
画像3 八幡堀は八幡山城の防衛上の堀としての役割もありますが、琵琶湖と城下町をつなぐ水運という目的がありました
画像4 楽市楽座令では周辺の街道沿いを通過する商人を強制的に城下に立ち寄らせるだけでなく、琵琶湖を利用する商船もこの八幡堀を経由して城下町に停泊することが義務付けられ、町はにぎわい発展
画像5 ところがそのわずか8年後の1593年に秀次は高野山で自害に追い込まれ、八幡山城は破却され、江戸時代に入り八幡の地は天領となったため、商人たちは最大顧客である武士がいなくなるという危機に瀕しました
画像6 そこで商人たちは当時人口も増えて目覚ましい発展を遂げていた江戸やその他の地に活路を求めて進出、地元名産である畳表や蚊帳などを全国で生産するモデルを構築し、そこからの資本を元手に大規模な店舗を江戸などに出店していきました(写真は町並み保存地区の新町通り)
画像7 その際に八幡の商家町としての発展と全国における近江八幡商人の活躍の原動力ともなったのが、八幡山城破却後もそもまま残された八幡堀の水運
画像8 八幡堀はロケ地としてもよく使われますが、こちらが2015年の朝ドラ「あさが来た」ではつの嫁入りシーンで使われた場所です
画像9 こちらは八幡堀と同様、文化庁の重要伝統的建造物保存地区にも指定されている新町通りの町並みです。後ろに隠れているのが八幡山でロープウェイで上ることができます
画像10 上記新町通りにある朝専門店「麻香」さんです
画像11 こちらも保存地区のひとつである永原通り。手前を横切るのが朝鮮人街道で、江戸時代12回近くにわたって来日して江戸幕府に謁見した朝鮮通信使が通った道です。近江八幡では街道沿いの商家などで昼食休憩を取るのが慣例でした
画像12 近江八幡市立資料館は新町通りと朝鮮人街道が交差する角にあります。JR駅に続く小幡通りも近く、ここまでバスで来てから散策をスタートするのがおすすめです。
画像13 市立資料館の向かいにある旧伴家住宅。江戸初期の初代による東京日本橋への出店に始まり、明治初期まで繁栄した商家です
画像14 西川甚五郎邸(西川甚五郎本店資料館)。1566年に初代が19歳で蚊帳・生活用品販売業を開業、蚊帳や弓を主力に6代で江戸と京都に出店、経営刷新を繰り返しながら明治に入って「布団の西川」を確立して現在に至ります
画像15 日牟禮八幡宮は2世紀に起源があると伝わり、7世紀末には藤原不比等も参拝しました。10世紀末に八幡山に社を造営したあと山麓に遥拝所として造営したのが現在の日牟禮八幡宮。鳥居の向こう(外側)にあるのは白雲館観光案内所で、もともと近江商人たちが教育のために建てた八幡東学校でした
画像16 近江八幡は明治後半に24歳で英語教師として来日し、キリスト教伝道、医薬品販売、全国1600の建築・設計などに携わったウィリアム・メレル・ヴォーリズが83歳で亡くなるまで過ごした地でもあります。写真はヴォーリズ建築のひとつである旧八幡郵便局
画像17 ラコリーナ近江八幡はJR駅からは少し遠いですが、八幡堀あたりからは歩いても行ける距離。http://taneya.jp/la_collina/about.html
画像18 近江八幡の悠久の歴史に浸ったあとは特に新鮮な感じがします
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画像20 近江八幡についてはこちらにもう少し詳しく書きました https://trip-catalog.com/ja/introduce/ohmi-hachiman/

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