表現と秘密と父と母のおはなし
遠くから、「声」が、聞こえて来る。
どこかで聞いたような、優しげな、温かそうな、懐かしい「声」。
何かの「うた」を、歌っている。
「誰?」
ーーおとうさん?
答えは、無い。
わたしは、「声」がして来るほうに、少しだけ、歩いてみた。
ぼんやりとした「影」が、「歌っている」のが、見えてきた。
ーーなんの「うた」だろうか。。
♪ケ・セラ・セラ
♪なるようになる、先のことなど、わからない。
せつなくて、ヴィヴラートのかかった、甘いうたごえだ。。
ーーおとうさん!
わたしは、「影」に向かって、夢中で、走り出していた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
と、そこで、やっぱり、目が覚める。
お決まりだ。
いったい、何度、同じ夢を見ることだろう。。
大好きだった父とは、哀しい別れかたをしてしまった。わたしは、「お葬式」に参列することすら、適わなかったのだ。
だから、まだ、父が亡くなったような気がしない。
まだ、すぐにでも、会えそうな気がしてしまうのだ。
わたしは、「祝子」だから、「お葬式」には、最も「不釣り合い」な名前なのだけれど、それでも、「最後のお別れ」くらいは、したかったなぁ、と、やっぱり、思ってしまうから、どうにも、心残りがあって、「夢」を見せられてしまうのかも、しれない。
父だって、きっと、最後くらいは、わたしに会いたかったはずだ、と、どうしても、思ってしまう。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
父が亡くなってから、もう、丸二年も、過ぎてしまった。
今となっては、想い出になってしまった、父が歌う「ケ・セラ・セラ」の「うたごえ」を、また、なんとなく、思い出していたある日のこと、或る考えが、ふと、わたしのこころを、よぎった。
それは、
ーーもしかしたら、父は、ほんとうは、「うたを歌うひと」になりたかったのではなかったのか。。
と、いうものだった。
わたしは、父が若いころのことは、そんなに、知らないのだけれど、父は、ほんとうに、「音楽」が好きなひとだった。
戦後まもなくの、まだ、公務員になる前の父は、食料不足のなか、家族を養うために、「進駐軍」の「食堂」で、アルバイトをしながら、夜学に通っていた。
父の父親は、「警察官」だったのだけれど、父が三才のときに、病気で亡くなってしまったので、父の家庭は、母子家庭だったのだ。
母親と弟を食べさせ、さらに、夜学に通うため、父は、給料の良い「進駐軍」を、アルバイト先に、と選んだらしい。
それに、「進駐軍」の「食堂」では、毎日、たくさんの「残飯」が出るので、それを貰って来ては、
「ご馳走を食べていたのさ。」
と、よく、笑いながら話していた。
でも、父にとって、アルバイト先での、ほんとうの興味は、実は、そこで聴くことが出来る「音楽」だったのだ。
「最初に聴いたときは、ほんとに、たまげた(びっくりした)さ。」
「テンポが良くてな。」
「外人さんは、上手く踊るしさ。」
お酒が入ると、普段は無口な父も、上機嫌になって、そんなはなしを、よく、してくれた。
父は、興味に任せて、たくさんの、ジャズのレコードを聴いたらしい。
もともと、「うた」が得意だった父は、「進駐軍」から受けた刺激によって、ますます「うた」が上手になっていったようだ。
地元のお祭りなどでも、唄ったし、知り合いの結婚式などにも、よく、頼まれては、唄いに行った。
結婚式で、頼まれて唄う「うた」は、「長持唄」か「さんさしぐれ」と決まっていた。
普段は、「大漁唄い込み」や「南部牛追い唄」なども、よく唄ってくれた。
この民謡を歌う父の様子は、わたしも、憶えている。わたしが幼稚園くらいの頃も、何かの集まりがあると、必ず、父は、前に出るように促され、
「やっぱり、歌ってもらわねとなぁ。」と、みんなに乞われて、
「いやぁ。んではまんず。。」
と、照れて、頭をかきながらも、父は、歌い出すのだった。
ひとたび歌い出すと、声量が凄くて、艶があって、せつなくて、もう、みんなが、聞き惚れてしまう。
懐かしい。。
若いころの父は、今なら、元SMAPの「中居くん」みたいな、ちょっぴり、茶目っ気のある、お目々パッチリの、可愛いひとだった。
小さな田舎町で、ちょっとは知られた「アイドル」だったのだ。
だから、通勤のときに、後ろからモジモジと付いて来る、女の子たちの「追っかけ」まで、居たのだろう。
父は、ほんとうに、「本音」を言わないひとだったから、わからないけれど、もしもチャンスがあったなら、「歌うひと」になりたかったのかも、しれない。
戦後まもなくのことだから、「生活」することに精一杯で、きっと、「夢」なんて、見ている暇もなかったのだろう。
「ね。ほんとうは、歌手になりたかったの?」
もしも、また、会えたなら、父には、ぜひ、「本音」を言わせてみたいと、わたしは思っている。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
父のおはなしは、懐かしく、優しげなものばかりで、甘く、せつない想い出として語れるのだけれど、母のおはなしは、少し、残酷で、衝撃的だ。
母が亡くなったのは、ニ〇一六年だったから、もう、丸七年にもなる。
母とわたしは、どちらも、とてもとても気が強くて、気質的には、良く似ている。お互いに気が強すぎて、譲らないために、きっと、衝突も、激しかったのだ。
でも、母が、あまりにも直情的で、ヒステリックだったために、
ーーあんな大人になってはいけない。
と、幼いころから、日々、自分に言い聞かせながら暮して来たこともあって、わたしは、母とは真逆の、むしろ冷静な風な人間に成長してしまったのだと思う。わたしは、いつだって、滅多なことで、感情的にはなれないのだ。
そんな母には、実は、誰にも知られたくない「秘密」が、あった。。
なんと、母は、女学校を卒業したてのころ、「女優」になって、北海道の劇団に入るはずだった、というのだ。
戦後まもなくの、あの時代に、おどろくばかり、だ。
このおはなしを聞いたのは、あとにも先にも、たった一度だけである。
でも、それが、いつのことだったのか、全く思い出せない。わたしが高校生か大学生か、そのあたりだったかな、とも思う。
母のいとこの、仲良しのおばさんが、遊びに来て、どんな流れからか、全然憶えていないのだけれど、そんなおはなしをし始めたことがあったのだ。
「でも、ねぇ、あんた、あんとき、北海道に行かなくて、ほんとに、良かったよねぇ。」
おばさんは、いきなり、そんなことを、言い出したのだ。
「北海道?」
びっくりしたわたしが、思わず、口を挟むと、おばさんは、
「あれ、知らなかった? あんたのおかあさんはさ、スカウトされて、北海道の劇団に入るはずだったんだよ。美人さんだったからさぁ。」
「ほんとに?」
信じられなくて、わたしは、思わず、おばさんに聞き返し、母の顔を盗み見た。
母は、なんだか、とても、気まずそうにしていた。
だって、母は、わたしが、「演劇」をすることにも、いい顔はしなかったし、いつも、批判的で、
「なんのために、演劇なんかするの?」
なんて、言っていたからだ。
そんな母が、「女優」になるところだったなんて。。
とてもとても、わたしには、信じられなかった。
「あの頃はさ、ほんとに、いろんなことがあったよねぇ。」
おばさんは、さらに、続けた。
「もう、すんでのところで、北海道に行くってときに、おばちゃんが病気になってさ、行けなくなったんだもんねー。」
「おばちゃんって、わたしのおばあちゃんのこと?」
「そうだよ、祝子ちゃんのおばあちゃん。」
「あのタイミングで、病気になるなんて、よっぽど、行ってほしくなかったんだよね、きっと。」
おばさんは、そう、言った。
母は、黙っていた。
「しかもさ、あのころ、おかあさんはモテモテでさ、告白しておかあさんに振られた男のひと、死んでしまったんだよ。」
と、そこまで言ったところで、
「そのはなしは、嘘だから! 止めて!」
と、母は、血相を変えて、はなしを否定したのだ。
あまりの剣幕に、今度は、おばさんのほうが、黙り込んだ。
母は、「女優になるはずだったひと」で、しかも、あの時代に、「浮き名」まで流していたとは。。。
三人とも、黙り込んでしまって、気まずい空気だけが、流れた。
「さ、わたしは、そろそろ、帰るね。ご飯の支度だ。また、来っからさ。」
そう言うと、おばさんは、身支度をして、そそくさと帰って行ってしまった。
あとに残されたわたしと母は、さらに気まずくなって、もう、何も話せなくなった。
直情的な母には、「導火線のスィッチ」があるので、そこに触れたら大変なことになるのは、わかっているから、もう、触れることは出来ないのだった。
だから、そのおはなしは、その後、一度も、したことが無い。。
そうして、結局、真相はあきらかにならないまま、母は、亡くなってしまった。
父と母が交際する以前のことだから、父も、知らないことなのかもしれない。
もし、仮に、何か知っていたとしても、母が隠しているようなことを、無口な、本音を語らない父が、話してくれるはずもないから、わたしは、父が亡くなるまで、聞くことさえ、しなかったのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
二人とも、もう、亡くなってしまったから、もはや、真相は、何ひとつ分からずじまいだ。。
それでも、わたしは、実は、父も母も、決して、「表現」と「無縁」のひとたちでは無かったのだということに、改めて思い当たって、なんだか、ひどく遠回りをして、「家」に帰ったような、そんな心持ちになってしまった。
父は、「音楽」が好きで、自分の「うた」を、楽しんでいたし、よく歌ってくれて、自分のまわりのひとたちを喜ばせていたので、職業は公務員でも、ちゃんと、「自分の表現」を愛せていたひとだったと思う。
でも、問題は、母だ。
スカウトされて、「北海道」に渡り、「女優」になるはずだったのに、そのことは、母の人生のなかでは、「なかったこと」になっていた。誰にも「秘密」にして、そういう設定のまま、その後の人生を歩いたのだ。最後まで。。
つまり、母は、「女優になるはずだった自分」を、「封印」してしまったのだ。
それは、おそろしいほど、いつかのわたしと、そっくりではないか。。
ずうっと忘れていたあのときの親戚のおばさんとの、一度だけの会話を、ふと思い出したことから、わたしは、もしかしたら、母のことを、なんにも知らないのかもしれないと、今さらながらに気づいて、なんだか、困惑した気持ちになった。
ーーほんとうは、母は、どんなひとだったのだろう。。
わたしは、母のことを、「社会規範と常識の鬼」のようなひとだと、ずうっと、思っていた。
その「枠」から少しでも外れている様子を見かけると、一刀両断にぶった斬って、口撃して来るようなひとだったからだ。
でも、もしかすると、それは、自分を見透かされないための「防壁」だったのかもしれない。
それに、「演劇、演劇って、いったい、なんのために演劇なんてやってるの?」とか、「小説ばっかり読んでないで、もっとちゃんと勉強しなさい。」とか、「映画を観に行くのは、もう、いい加減にしなさいよ。」とか、母は、わたしが、「表現」に関わることを嫌って、止めさせようとばかりしたことが、急に、無性に、不自然に思えて来たのだ。
わたしは、自分が、「こころの底から欲するもの」を否定されることが苦しくて、母との会話は、成長するにつれてしだいに、適当に、受け流すようになって行った。
だから、母と、「人生」について、しみじみと語り合ったりしたことは、一度も無いのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
娘たちが「引きこもり」を始めたころに、六才だった次女が、わたしに向かって言い放った、
「おかあさんて、顔が変なんだよね。おかあさんは、なんだか、何枚も何枚も、お面を被っているような感じで、本当の顔がわからないんだよね。」
という言葉が、ふと、わたしのこころをよぎった。
それに加えて、
「わたしはね、おかあさん、おかあさんが捨ててきた世界から生まれて来たんだよ。だから、おかあさんは、わたしのこと、嫌いでしょ?」
と、言いながら、泣きじゃくってばかりいた、九才だった長女の姿も、思い出された。
ほんとうは、その言葉たちは、きっと、わたしが、わたしの母に向かって、投げかけるはずの言葉だったのだ。
感情的な母の、逆鱗に触れることを怖れ、自分の身を守ることに終始して、母の人生と向き合うことを、避け続けてしまったために、その問題は、次の代まで、先送りされてしまったのだということに、ごく最近に、わたしは気づいて、愕然と、した。
向き合わなかった問題は、解決するはずもない。だから、わたしは、母と全く同じことをしてしまったのかもしれない。
「人生をかけても良い」と思っていたくらい、大好きだった「演じること」を、ほんのちょっぴりかじったくらいで、自分の「衝動」の激しさに怖気づき、大切だった先輩を裏切ってまで、「表現したい自分」を、わたしは、「封印」してしまったのだから。。
母は、最後まで、「秘密」と「嘘」を貫き通し、そうして、わたしの「表現衝動」を忌み嫌う態度を崩さないまま、この世を去った。
母は、おそらくは、自分の「表現衝動」をさえ、認めたくなかったのだ。
それでも、母は、不思議な言葉を残した。
「祝子は、ほんとうは、小説家になるはずだったから、お宅の息子と結婚している暇なんかなかったのに、結婚してしまった。」
これは、生前の母が、夫の母に電話をして、話した言葉らしいのだけれど、わたしは、母が亡くなって、しばらくして、夫から、聞いた。
母は、亡くなる直前まで、わたしを母から奪い去った夫のことを恨んでいて、夫の母にまで、電話をしては、つらく当たっていたのだ。
でも、わたしが「小説ばっかり読むこと」を嫌っていたはずの母が、わたしが「小説家になるはずだった」などと、言うなんて、ほんとうは、おかしい。
もしかしたら、母のこころの奥底に眠る「表現衝動」が、こらえきれずに、母に言わせた言葉、なのかもしれない。
或いは、母も、ほんとうは、こころのどこかでは、自分の「表現衝動」との「和解」を、望んでいたのかもしれない。
また、いつか、母と会うことが出来たなら、 父に問いかけるのと同じように、
「ね。おかあさんは、ほんとうは、女優さんになりたかったんでしょ?」
と、「本音」を探ってみたいと思う。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
母のおはなしは、どこを取っても、笑えない。ざわざわするばかりだ。
わたしのなかに「置き去り」にされてしまっていた「表現衝動」だって、実は、わたしが、「母から受け継いだもの」だったのだろう。
わたしが、「生き直し」をして、「表現衝動」と「和解」出来たことで、代々続いていた「表現へのおもい」は、ようやく白日の下に晒され、その「正体」を、顕わすことが出来た、と、言えるのかもしれない。
そうして、「表現へのおもい」は、ひねくれの無い、きれいな形に「浄化」されて、今度は、わたしの娘たちに、引き継がれてゆくことになったのだ。
「下北沢」という、「表現」を「象徴」する街で、「表現へのおもい」を見つめ直し、「生き直し」が出来たことは、何ものにも代え難い。
まるで「神さまのいたずら」のように「声の魔法」をかけてくれた「彼」に、こころからの感謝をしたいと、わたしは、いつも、思っている。
「彼」の「うたごえ」は、どこかしら「父」の「うたごえ」をも、思い出させる。
特徴が、よく似ているのだ。
幼いころから、「父」の「うた」ばかりを聴いて育ったわたしが、ハマってしまうのは、当然だったのだ、と今さらながら、納得してしまう。
「父」は、「ロック」なんか歌わないから、リアルタイムで聴いていたときには、全く、気づくこともなかったのだけれども。。
そう考えると、「声の魔法」は、らせんを描いて、二重に、わたしにかけられて、わたしの「生き直し」を支えてくれていたのかもしれない。
今、わたしは、職業作家ではないけれど、毎日、こうやって、飽かずに文章を書いている。
ずうっと我慢してきた「表現衝動」は「文章を書くこと」に集約されて、晩年のわたしを彩ってくれているのだ。
もう、わたしは、「本音」は隠さないし、「愛されるための嘘」も付かない。
母の「口撃」のことも、赦せるような気がしている。
自分のことだって、「情けなさ」も「くだらなさ」もひっくるめて、愛せるようになったのだ。
「父」も「母」も、「本音」は隠し続け、「母」に至っては「秘密」と「嘘」を貫き通したけれど、それでも、「表現へのおもい」は、「孫」にまで、受け継がれている。。
「表現へのおもい」は、きっと、根深くて、とても強いものなのだろう。
「封印」など、しても、どこからでも、甦って来る、「最強なおもい」なのかもしれない。
さて、明日は、何を、書こうかな。
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