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【翻訳】中野剛志・博士論文第3章「プレ古典派経済学としての経済ナショナリズム」(2/2)

前半はこちらの記事で。

かくして、経済自由主義の前身、あるいは古典派経済学の先駆けといった従来のヒューム観は棄却され、経済ナショナリズムの理論的基礎を確定・検討するための契機が準備されることになる。

以下、訳文について。

  • 原注は【】によって文中に示し、当該パラグラフの下部にその内容を載せた。

  • []は訳注、あるいは訳者による補足。


第3章 プレ古典派経済学としての経済ナショナリズム

3. 経済発展に対するヒュームの懐疑論

多くの論者は、経済発展に関するヒュームの楽観論を強調している。例えば、フォーブズは『技芸における洗練について』の分析を通じて、次のように結論づける。「ヒュームの社会・政治理論の疑う余地のない前提とは、良き生活が経済的進歩に依存することである」、そして「これはヒュームが最も懐疑的でなかった点である。アダム・スミスをはじめとするスコットランド啓蒙の思想家たちが商業文明のあらゆる恩恵に対して抱いていた疑念や不安は、ヒュームにはまったくなかった」(Forbes 1975: 87-8)。

しかし、ヒュームがその社会・政治理論においてこうした疑念や不安を持っていなかったと主張するのは、少々誇張があるように思われる。ヒュームの商業文明に対する懐疑論は3つの側面を持つ。第一は政治的な側面である。君主制と共和制を比較しながら、ヒュームはその長所と短所を次のように検討している。

生まれが重んじられるところでは、不活発で気力のない精神[の持ち主]は高慢なる怠惰にとどまり、血統や系図ばかりを夢見るが、他方で気前のよい野心家は名誉・権威・評判・寵愛を求める。 財産が主な崇拝対象であるところでは、腐敗と汚職と横領が蔓延するが、他方で芸術・製造業・商業・農業が栄える。 前者の見方[prejudice]は武徳に有利であるため、君主制に適している。後者の見方は産業に対する最大の刺激となるため、共和制に適している。したがって、これらの政治形態はそれぞれその習慣の有効性を変化させながら、一般的に人間の感情に相応の影響を与えることがわかる。(EPM 249)

ヒュームは、共和制の方が経済発展には有利だと主張し、その利点を認めているにもかかわらず、イギリスの君主制の国制[原文は the constitution。憲法ではなくバークやバジョットが擁護したような国家の原理的秩序を指す]を支持している。ヒュームが君主制の政治形態を擁護するのは、彼の政治理論であるナショナリズムに由来する。第5章で詳述するように、ヒュームは、国制の継続性[共和制への移行によって断絶するもの]によって生じるその権威が、大規模な国家を統合する役割を果たすと考えていた。確かに共和制の政治形態は経済発展には適しているが、イギリスのような大規模な国家の統一と秩序の維持には適していない[この当時、共和制を採用したのはイタリア半島の小国や神聖ローマ帝国内の帝国自由都市、あとはオランダくらいである。のちに強大な共和制国家として君臨するアメリカの独立宣言の年にヒュームは没している]。経済的繁栄を称揚することで名高いヒュームは、国家の統一を脅かすのであれば経済発展に反対することだろう。彼は経済発展よりも政治秩序と国家の統一を優先するのである。

経済的繁栄に対する懐疑論の第二の側面は、『芸術および学問の生成と進展について』に見られるように、文化的なものである。すなわち、

これらの高貴な苗木にふさわしい唯一の苗床は自由な国家であるにもかかわらず、その苗木はどのような政府にも移植できる。共和制は科学の成長にとって最も望ましく、文明の発達した君主制は洗練された芸術の成長にとって最も望ましい。(RPAS 67)

科学、技術、産業は、伝統と権威を打ち破ることによって発展する。したがって、伝統と権威に基づいて統治される君主制の政治は、急進的な革新をある程度妨げるが、礼節ある慣習を保守するには適している。ヒュームは産業や革新が常に礼節に優先するべきだとは考えておらず、彼は商人の文明と貴族の文明[commercial and noble civilisation]のバランスに関心を持った。

第三に、ヒュームは科学技術の発展における創造的破壊の持続可能性に懐疑的である。彼は科学の進歩の未来について、明らかに悲観的な見解を示していた。

どこかの国で芸術や科学が完成の域に達すると、それらはその瞬間から自然に、いやむしろ必然的に衰退し、かつて栄えたその国においては、それらが滅多に、あるいは決して蘇ることはない。(RPAS 75)

芸術や科学が衰退するというヒュームの見解は、同時代の人たちが共有していたような、市民の美徳が衰退し文明が堕落するというシヴィック・ヒューマニズム[ルネサンス期にギリシア・ローマの思想家に刺激されて発展した共和主義の一種]とは異なる(Pocock 1975: chapt.13 and chapt.14参照)。むしろヒュームは、芸術や科学そのものが十分に発展して進歩を止めるだろうと主張している。その見解は制度的・動学的アプローチに由来しており【4】、イノベーションの動態的なプロセスは文化的・社会的要因によって駆動されるとヒュームは考える。第一に、イノベーションは積極的かつ頻繁な試行錯誤と模倣[trials and emulation]の後に達成される。しかし、成功の実績は「憧憬と謙遜」['admiration and modesty']をもたらし、「このような模倣は自然に消滅する」(RPAS: 76)。[他方で]芸術の才能[Invention of the arts]は試行錯誤と模倣によって生み出されるが、芸術とは逆説的に憧憬と謙遜の対象であり、それがさらなる試行錯誤と模倣を妨げるのである[華々しい実績や才能は人々の羨望の的となるが、同時に人々に自分などは到底及ばないという謙遜を抱かせ、芸術や科学の発展に必要な試行錯誤と模倣を抑制してしまうということ]。第二に、技術革新は賞賛と栄光によって動機づけられるが、科学技術が進歩すればするほどその進歩の限界効用は小さくなり、社会的評価は低くなる。「栄誉ある地位がすべて占められたとき、彼の最初の試みは大衆に冷たく受け止められるだけである」(RPAS 76)。技術革新の社会的なモチベーションが停止してしまうのだ[第n番目の発明より第n+1番目の発明の方が発明者の得る効用が低いという意味]。ヒュームは、イノベーションに関する彼の制度的見解を次のように要約する。

要するに、芸術や科学は、ある種の植物と同じように新鮮な土壌を必要とする。いかに肥沃な土地[the land]であろうとも、いかに技巧や手入れによってその土地を改良[recruit it by art or care]できようとも、一度枯渇してしまえば、そのような類の完璧で完成されたものを生み出すことは二度とできなくなるのである。(RPAS 77)

【4】「動学的アプローチ」[dynamic approach]とは、経済分析において時間を考慮することである(第2章参照)。時間を考慮すると、ヒュームはイノベーティブな活動の動態が停止することを示唆している。

ヒュームは実際のところ、歴史家が考えているよりも経済の進歩について楽観的ではなかった。彼の資本主義に対する懐疑的な態度は、シヴィック・ヒューマニズムとは別の見解に由来する。すなわち、ナショナリズムの政治理論や、経済ナショナリズムの理論の主要な構成要素である政治経済学に関する文化的・制度的・動態的な観点である。

4. ヒュームに関する3つの解釈

18世紀イギリスにおけるダイナミックな経済への転換は、新しい思考方法の発展を促した。特に、スコットランド啓蒙、なかんずくヒュームとスミスについての最近の研究では、古代ギリシャ・ローマの政治哲学とマキャベリの思想に端を発するシヴィック・ヒューマニズムや古典的共和主義の伝統に対して、社会科学が有効な代替案として発展したことを示す歴史家もいる(Phillipson 1976, 1983; Moore 1977; Winch 1978; Pocock 1983; Robertson 1983)。古典的共和主義とは、「個人の自己実現に向けた成熟は、個人が市民として、つまり自律的な意思決定を行う政治的共同体であるポリスや共和国の意識的かつ自律的な参加者として行動するときにのみ可能である」(Pocock 1985: 85)という主張であり、この伝統に属する知識人たちは、経済発展を道徳的腐敗や政治的不安定の原因とみなしていたようである。「実験的方法」によって現実の経済と社会を観察・分析したヒューム、スミス、そしてスコットランド啓蒙における彼らの信奉者たちは、静態経済という土地均分論者の共和主義的な理想[the republican ideal of an agrarian, static economy]を、動態経済についての科学的理解[the scientific understanding of a dynamic one]で置き換えようとした。このパラダイムシフトを主導したのはヒュームである。ドナルド・ウィンチが言うように、「経済的進歩の強調によって、現代の政治理論の多くに見られるような後ろ向きの姿勢[the backward-looking cast]に反対するヒュームのキャンペーンの本質的な部分が形づくられる」(Winch 1978: 74)[ヒュームが現代に蘇ればさぞかし昨今の脱成長論とは相性が悪かろう]。

[ここから本章冒頭で提起されたテーマに立ち返る]しかし、ヒュームの政治経済学を古典的共和主義に代わるものとして解釈することについては論争が絶えない。社会科学者、特に経済学者の間では、ヒュームの政治経済学は経済自由主義の前身、または主流派経済学の先駆け[a premature form]であるという解釈が支配的である。【5】例えば、ジョン・メイナード・ケインズは『自由放任の終焉』というエッセイの中で、アダム・スミスの思想とともにヒュームの思想を、個人主義と自由放任主義に集約される古典派政治経済学に分類した上で批判を展開している(Keynes[1926] 1972)。ケインズとは対極的なフリードリヒ・A・ハイエクも同様に、ヒューム、スミス、そして自分自身を「真の個人主義者」に分類しつつ、彼らを支持している(Hayek 1980)。ジョセフ・A・シュンペーターは、ライフワークである『経済分析の歴史』の中で、主流派経済学のルーツを神学、自然法、スコラ哲学に求めている。シュンペーターは18世紀の啓蒙主義が神学を人間本性の科学[the science of human nature]へと変貌させたと主張し、ヒュームと結びつける[言うまでもなくヒュームの主著は『人間本性論』である]。シュンペーターはヒュームを功利主義者、合理主義者あるいは形式主義者と表現し、ヒュームの科学こそが、シュンペーターの批判するところ(というのも、ヒュームは社会を功利主義的な快楽と苦痛の計算に還元し、それが現在でも主流派経済学の基礎となっている。また、経済活動の社会的な側面を無視していて経済史のダイナミックなプロセスを説明できていない)の起源であると考えた。シュンペーターは、ヒュームが『イングランド史』の著者でもあると認識しているが、『イングランド史』については「少なくとも彼が功利主義の奴隷ではなかったことを示している」と評している(Schumpeter 1954: 134)。彼は、歴史家としてのヒュームは経済学者としてのヒュームとは相容れないと考えていた。

【5】この解釈の最近の例としては、Fitzgibbons(1995)がある。

別の視点から、アルバート・ハーシュマンもヒュームの合理主義的・形式主義的な解釈を提示している。ハーシュマンは、人間科学が情念[passions]の理論から利益[interests]の理論へと発展したことを説明している。近代社会科学の原点は、神に依拠することなく、社会秩序[維持]のために情念を制御することを目的として社会の原理を見出すことであった。まず、社会秩序を実現する方法についての支配的な見方は、ある情念が他の情念と衝突し、それを相殺していくという考え方である。その後、利益が情念に対抗するという機械論的な考え方に発展し、最終的にこれは利益の均衡[equilibrium]というパラダイムへと変化することで、経済発展が支配者の恣意的な権力を排除すると期待された。ハーシュマンはこの文脈で、「理性は情念の奴隷であり、情念の奴隷であるべきである」というヒュームの主張を分析し、ヒュームが社会を情念の闘技場[arena]とみなしていると結論づけた。さらに、ある情念が別の情念に対抗するという見方から、利益によって情念に対抗するという見方への転換点にヒュームを位置づける。情念を相殺することは難しい問題であるが、ハーシュマンは、「利欲」[love of gain の慣例的な訳語]を用いた情念の制御方法を発見することでこの問題を解決した名誉ある地位をヒュームに与えている(Hirschman 1977)。

経済学者のなかでも制度経済学を確立したジョン・R・コモンズは、ヒュームの経済自由主義の解釈の陥穽から逃れることができたほぼ唯一の存在である。コモンズは、ヒュームが社会的行為に関心を寄せ、法、慣習、倫理を考慮する際に全体論的[holistic]かつ実質的なアプローチをとったことに注目している。「制度経済学はヒュームに遡る」(Commons [1934] 1959: 71)。コモンズは、コモン・ローの伝統とジョン・デューイのプラグマティズムあるいは社会心理学の影響を受け、また彼自身の豊富な実務経験をもとに、人間は互いに協力し合わなければならない相互依存的な動物であると確信している(Mitchell 1935)。彼は、個人主義と快楽主義[限界効用の概念に基づいたアプローチを指している]に特徴づけられた古典派経済学を、集団行動、あるいは個人間の「取引(=相互行為)」['trans-action']の科学としての制度経済学に置き換え、制度を「個人行動を統制する集団行動」と定義する(Commons [1934] 1959: 69)。その分析方法としては、マックス・ウェーバーを参照しつつ、経済変動のダイナミックで複雑なプロセスを把握する必要があることから古典派経済学の数学的形式主義ではなく解釈[interpretation]を提案している(Commons [1934] 1959: 99-101)。相互作用論[Interactionism]を経済分析に応用すると制度経済学が生まれる。次の章では、ヒュームの社会思想が相互作用論と多くの共通点を持ち、そのアプローチが解釈的[interpretive]であることを示す[社会学や心理学などにおける解釈的アプローチを指している]。第5章では、ヒュームがコモン・ローの伝統から大きな影響を受けていることも指摘する。かくして、哲学とアプローチについてヒュームとコモンズの親和性が明らかになる。コモンズ自身は残念ながらヒュームの心理学を個人主義的なものと誤解しているが(Commons [1934] 1959: 90)、ヒュームの経済思想は、コモンズのいうところの徹底した制度的なものであると著者は主張したい。

経済学者とは異なり、歴史家たちはヒュームの経済思想が歴史的、動態的であると同時に制度的なものであることに気づかなかったわけではない。コンスタント・N・ストックトンは、ヒュームについて「経済史の冒頭の歴史において名誉ある地位を占めるに値する」とコメントしている(Stockton 1976: 317)。アンドリュー・スキナーは、ヒュームが経済に関する著作の中で経済変化の過程に関心を持ち、歴史を活用していることを強調する。スキナーは経済発展の理論に対するヒュームの方法を「歴史動態学」['historical dynamics']と呼んだ(Skinner 1993: 231)。ストックトンとスキナーが的確に指摘しているように、経済の歴史動態学に関するヒュームの主な関心事は、商工業の発展と政治的・社会的条件、とりわけ自由との関係である。これはアダム・スミス、ウィリアム・ロバートソン、ジョン・ミラーといったスコットランド啓蒙の伝統に連なる政治経済学者や歴史家にとって重要なテーマであった(Pocock 1960)。スコットランド啓蒙の主要な思想家たちは急速な経済発展に加えて、後進的なハイランド地方と先進的なローランド地方の経済的な生活形態の対比によっても経済的な進歩の発想を刺激されたが、ヒュームは他の思想家たち以上に典型的なローランド地方の見解を示した(Forbes 1975: 87)。

しかし、経済発展のメカニズムに関するヒュームの見解については、2つの異なる解釈がある。ストックトンは、ヒュームが『芸術および学問の生成と進展について』や『技芸における洗練について』などの著作において、マルクス主義者が観念論的分析と呼ぶようなものを展開しているのに対し、『イングランド史』ではより唯物論的な分析を行っていると論じている。ヒュームは前者において政治的構造が経済、社会、文化の発展を決定すると考え、対照的に、後者では社会行動、慣習、政治的構造の変容を引き起こすのは経済の変動であると説明している。ストックトンは後者に注目し、マルクス自身がヒュームの政治経済学を徹底的に研究したことを指摘している(Stockton 1976: 313-5)。J. G. A. ポーコックは、ヒュームの立場は後者であると主張する。すなわち、商工業の成長は、風俗、文化、文明の成長を引き起こす。[この意味において]経済発展とは原因であり、文明とは結果である。そしてポーコックは、慣習[manners]が原因であり、経済発展が結果であると断言するエドマンド・バークをヒュームと対置させる(Pocock 1960)。それでは、ヒュームは観念論者なのだろうか、それとも唯物論者なのだろうか。

この2つの解釈を評価する前に、ヒュームの社会科学と歴史学の方法論の相違点を検討する必要がある。ヒュームは、特定の事実を研究する方法と一般的な原理を研究する方法とを区別しており、歴史学は前者に属し、政治経済学は後者に属する。社会科学者は一般化を目指すが、歴史家はそうではない。したがって、『イングランド史』はヒュームの経済発展論を理解するための根拠としては、いささか誤解を招きやすい。彼にとって歴史研究の目的とは、一般理論を構築することではなく特定の事象を扱うことである。【6】そのため、彼の経済発展に関する一般的な理論を理解するためには、歴史学の著作よりもむしろ彼の社会、経済、政治に関する著作を参照するべきだろう[ヒュームは大学のポストを望んでいたが生涯その夢は叶わず、文筆業などで稼いだ。彼の残した数々の著作は生活の糧である]。ポーコックが指摘するように、ヒュームが、経済発展によって風俗が改良され、文化が発展し、自由と市民秩序に寄与する(すなわち、原因としての経済発展と、結果としての文明)と主張することがあるのは事実である。しかしながら、ヒュームは『人間本性論』[the Treatise]第三巻で、財産、約束、交換、貨幣、協力には慣習[conventions]が必要であると明確に主張している(T 490)[ヒューム研究ではよく「黙約」と訳されるこの conventions は、社会契約の根本的な不可能性の根拠としても引用される。人間が契約する営み自体が黙約を前提とした社会的実践であるからである]。この論考は歴史としてではなく一般理論として書かれており、また、『芸術および学問の生成と進展について』や『技芸における洗練について』も、歴史ではなく科学的探究である。一般化を目指したこれらの著作を参照することで、ヒュームの見解がバークのそれと変わらないことを示すことができる。つまり、両者にとって慣習[conventions]は経済発展の基礎なのである(第6章参照)。しかし[慣習を原因とし、経済発展を結果としているからといって]、ヒューム(およびバーク)を観念論者と呼ぶのは不適切である。なぜなら、彼の制度経済学は政治的構造と経済的構造を峻別していないからである。別の言い方をすれば、ヒュームにとっては、政治的構造も経済的構造も社会的行為と制度のパターンから構成されるものであるため、観念論と唯物論はカテゴリー錯誤[category-mistake]を犯しているのである。[つまり、ストックトンはヒュームの著作について、政治的構造が経済発展を決定する観念論と、経済的構造が慣習や政治的構造の変容を引き起こす唯物論の両方があるとし、ポーコックはヒュームを唯物論者として捉えている。しかし、中野によれば、観念論者か唯物論者かという問題設定自体が「錯誤」だという。そもそも政治的構造と経済的構造はヒュームにとって不可分のものであり、政治的・経済的構造の両方が、コモンズの制度主義的な解釈を採用することで「社会的行為と制度のパターン」に還元可能だからである]

【6】ヒュームの方法論の詳細については、第4章を参照。

5.政治経済学の近世史の再構築

これまで見てきたように、ヒュームの政治経済学は、経済ナショナリズムの理論的基礎を提供するものとして最もよく理解できる。ヒュームが商業と自由貿易の望ましさを強調したからといって、彼が経済自由主義者であるとは限らない。経済自由主義者とは異なり、ヒュームは市場による資源配分ではなく経済発展のダイナミックな過程とその源泉に焦点を当てている。ヒュームの政治経済学は交換の理論ではなく、生産力の理論なのである。さらに彼は豊かさと力[権力]、特に軍事力との関係を認識している。リストと同様に、彼のパースペクティブは文化的、歴史的、制度的、政治的、動態的、地理的なものである。彼の時代には産業資本主義はまだ揺籃期にすぎなかったが、彼は「政治経済に関する国の仕組み」['national systems of political economies']と近代経済のダイナミクスの本質を見抜けなかったわけではない。さらに彼は、国家の政治形態と文化との間、また、政治形態と経済発展との間に正の関係だけでなく負の関係もあることに気づき、後者よりも前者を優先している。このように、ヒュームの政治経済学は経済ナショナリズムのためのものなのである。

このヒュームの再解釈によって、ヒュームの政治経済学、より一般的にはスコットランド啓蒙の思想史における位置づけを再考することができる。政治経済学の近世史の新たな輪郭を簡易化して描いてみよう。

これまで見てきたように、近代的な政治経済学の形態が確立されるにあたって、スコットランド啓蒙は共和主義の伝統に異議を唱えていた。しかしながら、18世紀スコットランドにおける近代政治経済学の誕生は、経済自由主義によるものではなかった(Winch 1978, 1983, 1985a and 1992)。スコットランド啓蒙の中に方法論的個人主義といった経済自由主義の特徴や、市場経済を自己調整領域とみなす考え方を見出すことは困難である。

ヤコブ・ヴィナーによれば、利己的な個人と自由放任主義[laissez-faire]の考え方は、むしろ重商主義の主張の中に見出されるものである(Viner 1960)。重商主義は、政府の干渉と貿易保護によって国家の富と権力を増大させようとするものであり、一見、経済自由主義の個人主義と自由放任主義に反するものである。しかし、実際には、重商主義者は経済自由主義者の次の考えに同意するだろう。すなわち、国家が介入することによって公益[the public good]が最もよく実現される場合を除き、国家が私的領域に干渉するべきではないという考えである。ヴィナーの指摘によれば、「次の点だけが、極端な重商主義者から極端なレッセフェールの支持者までが自認する一般的な原理の違いだろう。すなわち、重商主義者は、例外的に、物事を放置する正当な理由が存在しない限り、介入の義務を強調する。他方、自由放任主義者は、介入すべき特別な理由が例外的に存在しない限り、政府は物事を放置するべきだと主張する」(Viner 1960: 56)。確かに、重商主義と経済自由主義の間には、具体的な問題に関していくつかの論争がある。しかし、重商主義と経済自由主義は方法論的個人主義を共有しており、ヒューム、スミス、そしてスコットランド啓蒙はこれを拒絶している。[重商主義と経済自由主義とは]対照的に、スコットランド啓蒙の思想家たちは人間を社会的動物とみなし、社会の他の側面から切り離された市場経済の自動的なメカニズムを決して信じていない。【7】

【7】アダム・スミスについてはここでは詳しく論じない。著者のスミスに関する理解は、経済自由主義的なスミス解釈を決定的に覆したドナルド・ウィンチ(Winch 1978, 1983, 1992)に負うところが大きい。

また、リストは重商主義と方法論的個人主義の論敵でもあり、この点で重商主義と経済ナショナリズムを結びつけるのは誤りである。社会科学の哲学からすれば、経済ナショナリズムはむしろ重商主義のラディカルなアンチテーゼとなり、対照的に、経済自由主義は方法論的個人主義と自由放任主義を共有しているという点で重商主義に遥かに近い。自由放任主義を提唱した重農主義者[Physiocratsの慣例的な訳語だが、誤解を招きやすい]の著作には、経済自由主義とのより際立った共通点が見られる。重商主義とフランスの合理主義の伝統の影響を受けた重農主義者は、方法論的個人主義のみならず、自己調整的な経済社会あるいは社会秩序の予定調和[the pre-established harmony]に対する合理主義的な見解も経済自由主義者と共有している(Viner 1960: 59)[このような社会観の背景にあるのは、社会を神の設計した「自然」の秩序とする啓蒙時代の思潮であり、重農主義者のケネーに限らずこの時代の知識人が広く共有していた。ここでいう「自然」とは、自然法や自然権で用いられるあの意味である]。ヒューム、スミス、リストが鋭く批判しているのは、彼らの信念の背後にある合理主義とユートピア主義である。合理主義や形式主義、そして経済自由主義の専門化[the disciplinary specialisation](倫理学、政治学、歴史学といった他の分野から切り離された経済学の独立的な地位)は、スコットランド啓蒙の知的営為[the intellectual project]とは全面的に相容れない。ヒューム、スミス、そしてその追随者たちのアプローチは、総体的かつ学際的[holist and trans-disciplinary]である(Dow 1990)[holistはholism(全体論)の関連語であり、方法論的個人主義や要素還元主義的なアプローチに対する批判的な意味合いが込められている。全体論とは、エタノールの性質を水素・酸素・炭素の性質から演繹することが困難であるように、全体は諸部分の単なる総和ではなく独自の原理や性質を有するという立場。ミクロの要素に分解してマクロの挙動を説明することが不可能なケースは様々な分野で見られる]。専門的で形式的な理論としての経済学は、ヒュームやスミスによってではなく、デイヴィッド・リカード、J. B. セイ、J. S. ミルによって発明された。ドナルド・ウィンチが嘆いているように、「スミスの立法者の科学[science of the legislator]の多くは、彼とともに滅びた」のである(Winch 1983)[立法者の科学はスミス研究でしばしば取り上げられるテーマである。『国富論』第4編「政治経済学の体系について」の冒頭において、政治経済学は政治家または立法者の科学の一部門と位置づけられており、その目的は人民と国家(共同社会)の双方を富ますこととされている。端的に言えば、スミスは政治経済学を「専門的で形式的な理論」体系ではなく、様々な分野を横断せざるを得ない政治的実践を前提とする、実務のための政策科学と位置づけていたということである]。18世紀のスコットランドには、経済自由主義や、専門的な学問としての「経済学」というものは存在しなかったと言える。要するに、スコットランド啓蒙の社会科学、とりわけヒュームの社会科学の特徴は、自由主義的な経済理論よりも経済ナショナリズムの理論の方が合致するのである。

[以上、第3章後半の第3節~第5節の翻訳。
※第4章の翻訳を始めました(2023/12/6)
【翻訳】中野剛志・博士論文第4章「我らの科学を人間的に」(1/3)]


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