【翻訳】中野剛志・博士論文第3章「プレ古典派経済学としての経済ナショナリズム」(1/2)
この夏、ヒュームがアツい。ということで、中野剛志の博論のヒュームのパートを訳し始めたが、投稿する頃には秋になってしまった。
訳者まえがき
一時期、旧Twitterのタイムラインでヒュームの名前を頻繁に目にすることがあった。デイヴィッド・ヒューム(1711~1776)といえば、中野剛志が、まさにヒュームの学んだエディンバラ大学でヒュームを研究していたのを思い出した。彼の博士論文「The power of nations: theoretical foundations for economic nationalism(国力論:経済ナショナリズムの理論的基礎)」は全4部で構成され、第3章~第5章からなる第2部が丸ごとヒュームのパートになっている。この第2部のタイトルは「A New Science for a New World: Hume」であり、内容を考慮して改めてタイトルをつけるならば「新時代の政治経済学:ヒューム」あたりが適当かもしれない。(追記:後述の博論を元にした日本語の著作ではトクヴィルの文言が引用されており、 "A new political science is needed for a world entirely new." を意識した可能性が高い)
一応、この博論を元にした日本語の書籍『国力論 経済ナショナリズムの系譜』(以文社)が2008年に刊行されているが、そこでは元の博論に存在するはずの章が欠如していたり、逆に元の博論の目次には存在しない別の論文やトピックが追加されていたりするなど、全体の構成が根本的に覆るほどの大幅な加筆修正がなされている。書籍が元の論文と核心を共有しているのは確かだが、これではほとんど別の著作といっていい。
博論を「別物」として出版することになった事情としては、日本語で刊行するに際して幅広い読者を獲得するための便宜が図られたことは当然考えられる。あるいは、一般書という名目であれば査読のプロセスを経ないのをいいことに、著者が主張したいと望むところをほしいままにしている可能性も高い(もっとも、その際は典拠を示すだろうが)。また、博論を書くにあたって膨大な文献を渉猟しながら内容を絞るうちに、書き損ねてしまった部分を改めて吟味して盛り込んだこともあり得るし、むしろ博士論文に収録されなかった論文の方こそ日本語で一般に読まれる価値を見出して新たに挿入したという計らいも想定できる。
しかし、このような書籍では、せっかく日本語の文章に目を通して元の論文を引用しようとしても、それに対応する箇所が存在しないような不都合が必然的に発生する。要するに、「博論を元にした日本語の著書」としては、かなり使い勝手が悪いタイプのものとなっている。さらに、現在は絶版の状態が続いており、再版は絶望的といっていいだろう。
というわけで、いっそのこと中野の博論を、日本語で気軽に読める形でネット上に存在させることにした。どうせ中古で入手したとしても、積み本にするのが関の山である。時代は令和。多くの人に読んでもらいたい文章は、紙の本よりもブラウザのページで閲覧できる方がいい。
本記事は次の論文の第3章にあたる 3. Economic Nationalism as Pre-Classical Economics を翻訳したものである。
Nakano, Takeshi. (2004) 'The power of nations: theoretical foundations for economic nationalism', Unpublished PhD thesis, University of Edinburgh.
The power of nations: theoretical foundations for economic nationalism (ed.ac.uk)
今回翻訳した「第3章」は、検索したところ、どこかに掲載された形跡は見当たらず、博士論文としての全体のまとまりを整えるために加えた「書き下ろし」だと思われる。ただし、内容に関しては、これに続く第4章、第5章の前置きとしてヒュームの背景知識を整理したものとなっており、言うなれば「ヒューム政治経済学入門」に相当する章である。国内において、哲学以外の面でヒュームをまとめた書籍は多くない。仮に哲学を含めたとしても、同時代を生きた友人のアダム・スミスについてはこれだけ豊富に入門書が用意されていることとは対照的に、現状、ヒュームは新書が一冊も出ていない冷遇ぶりである(強いて言えば清水書房「人と思想」から泉谷周三郎による入門書は出ているが、新書のレーベルといえるかは微妙なところだ。サイズも一般的な新書より2cm弱大きい)。その意味でもこの文章を日本語でネット上に存在させる価値は十分認められるだろう。
以下、訳文について。
原注は【】によって文中に示し、当該パラグラフの下部にその内容を載せた。
[]は訳注、あるいは訳者による補足。
ページの下にまとめても、逐一スクロールして確認するのは面倒だろうから、この方がいいと判断した。noteの註釈機能の実装が待ち望まれる。
最後になるが、訳者は翻訳の作法については一切心得がない。アマチュア翻訳として何卒ご容赦賜りたい。
第2部 新時代の政治経済学 ヒューム
第3章 プレ古典派経済学としての経済ナショナリズム
経済学者の間では、ヒュームの政治経済学[原文は political economy であり、economics という単語が生まれる前の広義の経済学の名称]に関して、次のような見方が支配的である。すなわち、経済自由主義の前身、あるいは主流派経済学(古典派および後の新古典派)の先駆けといったものだ。経済自由主義も主流派経済学も経済ナショナリズムとは対立する[この博士論文の目的は経済ナショナリズムに理論的な基礎を構築することである]が、本章では、ヒュームの経済の著作に関するこのような従来の解釈に根底から異を唱える。ヒュームの経済思想は自由主義的な経済理論よりも経済ナショナリズムの理論に近いものだ。【1】フリードリヒ・リストと同様、ヒュームの主要な関心は資源配分の効率性よりもむしろ国力の増強であり、彼の経済思想の方法論的特徴はリストと多くの点で共通している。
【1】[いきなりで恐縮だが、読み飛ばして構わない原注である。著者が数多くのヒュームの著作から引用するための便宜に過ぎない]ヒュームの著書の略称は以下の通り。T (A Treatise of Human Nature, Hume([1739-40] 1978))[人間本性論]、EHU (An Enquiry Concerning Human Understanding, Hume ([1748] 1975a))[人間知性研究]、EPM (An Enquiry Concerning the Principles of Morals, Hume ([1751] 1975b))[道徳原理研究]。Hume(1985)に収録されている個々のエッセイの略称は以下の通り。OSH ('Of the Study of History')[歴史の研究について]。PAN('Of the Populousness of Ancient Nations')[古代人口論]。Hume(1994)に収録されている個々のエッセイの略称は以下の通りである。PMRS ('That Politics May Be Reduced to a Science')[政治を科学に高めるために]、FPG ('Of the First Principles of Government')[政府の第一原理について]、OG ('Of the Origin of Government')[政治的支配の起源について]、SE ('Of superstition and enthusiasm')[迷信と熱狂について]、CL ('Of Civil Liberty')[市民的自由について]、RPAS ('Of the Rise and Progress of the Arts and Sciences')[芸術および学問の生成と進展について]、NC ('Of National Characters')[国民性について]、OC('Of Commerce')[商業について]、RA ('Of Refinement in the Arts')[技芸における洗練について]、OM ('Of Money')[貨幣について]、BT ('Of the Balance of Trade')[貿易収支について]、JT ('Of the Jealousy of Trade')[貿易をめぐる猜疑心について]、BP ('Of the Balance of Power')[勢力均衡について]、SRC (Of Some Remarkable Customs)[若干の注目に値する法慣習について]、OOC ('Of Original Contract')[原始契約について]、PO ('Of Passive Obedience')[絶対服従について]、PS('Of the Protestant Succession')[新教徒による王位継承について]、IPC ('Idea of a Perfect Commonwealth')[理想共和国についての一案]。[以上、エッセイのタイトルは小松茂夫訳『市民の国について』(岩波文庫)、田中敏弘訳『道徳・政治・文学論集[完訳版]』(名古屋大学出版会)に基づいた]
リストとは異なり、ヒュームは政治経済学の体系的な理論を確立しようとはしなかった。彼は具体的な経済問題について個別に論考を著したのである。とはいえ、ヒュームの経済思想は彼の哲学体系に根ざしており、経済ナショナリズムを目的としてヒュームの理論を説明することには、この点で大いに意義があるといえる。換言すれば、ヒュームの政治経済学を経済ナショナリズムの理論として特徴づけることができれば、それは経済ナショナリズムの哲学的基礎を確定し、なおかつそれを検討するための契機になるということだ。第4章では、彼の社会科学に関する哲学について考察する。これによって、ヒュームの経済ナショナリズムの哲学的基礎を明らかにし、その上で、第5章ではその政治的側面、すなわちナショナリズムの政治理論に焦点を当てる。
本章の第1節では、ヒュームの著作の歴史的背景について考察する。第2節では、ヒュームの政治・経済に関する文献を検討し、ヒュームの政治経済学が、実際にはリストと同様に文化的、歴史的、制度的、政治的、動態的、地理的なもの[これは第2章で説明される「方法論的ナショナリズム」の特徴]であることを示す。第3節では、経済発展の限界に関するヒュームの考え方を考察する。経済発展に対するヒュームの懐疑的見解はほとんど無視されてきたが、彼の政治経済学を理解するのに不可欠である。特に、経済発展に対する懐疑的な態度が、部分的には彼のナショナリズムの政治理論に由来する点には注意する必要がある。ただし、これについては第5章で詳述する。第4節では、ヒュームの立場に対する3つの異なる解釈、すなわち経済自由主義、観念論、唯物論を批判する。最後に、ヒュームの政治経済学は経済ナショナリズムの理論として位置づけられると結論し、政治経済学の近世史に対する新たな視点を提案する。
1. 18世紀イギリスの経済
本論を始める前に、ヒュームの著作の歴史的な背景を押さえておくことが役に立つだろう。従来の政治経済学の考え方からすれば、ヒュームの政治経済学が経済ナショナリズムに属すると主張するのは奇妙に聞こえるかもしれない。というのも、通例として経済ナショナリズムは工業化と結びつけられてきたが、もちろんヒュームは第一次産業革命以前に生きていたからである。しかし、最近の歴史学の研究によれば、18世紀におけるイギリスの経済社会は、すでに静態的なものから動態的なものへの転換過程[近世の比較的停滞した経済から成長を基調とする近代資本主義経済への移行期]にあり、産業革命以前でさえ製造業と工業が重要な要素として台頭していた。18世紀のイギリスは、チャールズ・キンドルバーガーが「プロト工業化」[通史を扱う西洋経済史や欧米経済史のテキストにはほぼ必ず登場するキーワード。経済史の定説である。]と呼ぶ時代であった(Kindleberger 1976: 24)。
18世紀のイギリスが動態的な経済へと変貌を遂げた主な原因のひとつは戦争であった。1689年から97年にかけての大同盟戦争に始まり、それに続くスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、北米における英仏対立、七年戦争、アメリカ独立戦争、1793年から1815年にかけてのナポレオン戦争、そしてジャコバイト蜂起である。軍事革命の影響により、戦争と国家は、納税者であり戦闘員でもある国民の生活により深く関わるようになった。18世紀のGNPに占める国家支出は、17世紀の約3倍であった(Mann 1992: 151)。18世紀に最も急成長した部門は、農業や製造業よりもむしろ[民間ではない]行政と国防であったと思われる。それにもかかわらず、この一連の戦争が動態的な経済への転換の引き金となった。第一に、金融革命が促進され、戦争資金を調達するための公的借款制度が確立された。第二に、金融部門の発展に加えて、戦争は保護主義をもたらした。公的債務を返済するための歳入を確保し、国内産業を保護するために、高関税体制が採用された(Cain and Hopkins 1993: 71-3)。この時期の軍事的な需要は、イギリスのみならずヨーロッパ全土の産業発展を刺激した。軍備(銃、大砲、砲弾)と船舶の膨大な需要が鉄工業の拡大を促進し、繊維産業も軍需によって刺激され、さらに、これらの関連産業の生産プロセスにおける技術的な改良と合理化が促された(Sen 1984: 99-112)。一連の戦争は、経済発展に寄与するのと同時に、国家の安全保障における製造業と工業の重要性を人々に認識させた。
もうひとつの重要な経済的変革は、ジョーン・サースクによって明らかにされている。彼女によれば、16世紀から17世紀にかけてのイギリスでは、消費財産業[consumer industries]が目覚ましい発展を遂げた。例えば、ストッキング編みやボタン、ピンと釘、塩、澱粉、石鹸、刃物と工具、キセル、鍋と窯、リボンとレース、リネンなどの製造だ。消費財の種類は増え、国内市場は拡大した。新たな消費財産業は「事業家」[原文は'projectors'。映写機ではなく、事業を立案・計画する者を指す古い意味]によって発展し、彼らは「事業」[a 'project']、つまり資金を調達して貧しい人々を雇い入れ、消費財を製造したり農場で生産したりする実際的な計画を推進した。消費財産業の国内市場の発展により、増大する労働力人口が吸収され、国民福祉の要件として不可欠な高水準の雇用が創出された。サースクは、この新興の消費財産業の出現が政治経済学者の見解を一変させたと論じている。第一に、製造業に関して、当時の政治経済学者は国民経済にとって国内取引[home trade]が貿易[foreign trade]と同様に重要であると信じるようになった。第二に、彼らは消費財の多様性は利益をもたらすと主張した。第三に、彼らは経済発展の重要な要因として労働に焦点を当てた。かくして、これらの新たな事実によって政治経済学の新たな理論が生み出されることとなり、さらに南北戦争によって、政治経済学者は消費財産業と国内市場が国民経済においてどのような役割を持っているのかを理解した。サースクはアダム・スミスの『国富論』をこの文脈に位置づける。有名なピン職人の分業の例は、スミスが新興の消費財産業を観察することで生まれたものである(Thirsk 1978)。
次に、[ヒュームの生きた]18世紀のスコットランドにおける製造業と工業の発展に注目してみよう。18世紀のスコットランドは目覚ましい経済発展を遂げた。戦争と消費財産業の台頭というイングランド経済の経済発展と同様の要因が、スコットランド経済にも確認できる。第一に、イングランドにおける一連の国家間の戦争と保護主義によって、スコットランドの対外取引の伝統的な構造は、それまでのヨーロッパ市場への依存体質から、イングランドと植民地の貿易を中心とするものへと変化した。1707年以降、保護主義と連邦内の政治的安定性という好条件のもと、スコットランド人はイングランドの国内市場へのアクセスを享受し、1742年からは輸出を奨励するための助成金も交付されるようになった。第二に、サースクの議論と関連して、18世紀のスコットランドで最も重要かつ成功した輸出産業は、高級消費財のリネンとタバコであったことに注目しなければならない。スコットランドの商人たちは、仕入れ、販売、出荷において、アメリカやヨーロッパ市場の競合他社よりも効率的なビジネス手法を導入したのである(Devine 1999: 58-9)。第三に、スコットランドの地主階級と実業家階級は、1707年の[イングランドとスコットランドの]合同以降、原料、手法、技術、組織の面で国民経済の改善を推進した。彼らは農業の近代化や、スコットランド銀行、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド[現存するメガバンク]といった銀行会社の設立において重要な役割を果たした。このような「改善」の流れのもとで、スコットランドの農業および銀行制度は当時最先端のモデルとなった(Devine 1999: 50-1)。さらに、1750年以降、イングランドでより先進的な技術や手法がスコットランドに移転した。当時は、イギリス人労働者を導入し、彼らの技能や実践方法を輸入することが一般的であり、製鉄、陶器生産、羊毛生産、ガラス製造など、新しいイングランド式の方法が採用された。工業化の第一段階が始まったのだ(Devine 1999: 62)。これがヒュームの観察した経済社会である。
2. ヒュームの政治経済学の要諦
政治制度と法制度
歴史家が強調するように、ヒュームは政治的自由と経済的発展が相互に連関していると考えていた。ヒュームは『市民的自由について』の中で、自由主義的な体制と独裁的な体制における経済的繁栄を比較し、前者が優れていると見なしている。ダンカン・フォーブズは、ヒュームにとって自由とは、法の支配の下における個人の自由と安全に対する保障に他ならないと指摘している(Forbes 1975: 153)。自由な政府に期待される役割は、[規制などの]何かを取り払うことではなく、確実性を維持するために規制によって財産権を確保することである。ヒュームの洞察するところによれば、ヨーロッパにおける統治のあり方の2つの改善が経済の進歩に寄与していた――「勢力均衡」と「国家内部の警察」である(CL 55)。「警察」とは、「住民に関する限りにおける都市や国家の統制と支配」を意味する(CL 55n)。ダンカン・フォーブズが結論づけているように、ヒュームの政治思想において「政府は、成長する社会において経済的な発展の条件を確保するために存在し、それなしには発展が不安定になるか不可能となるような安全保障と法の支配(=自由)を提供するために存在する」(Forbes 1975: 88)。[近年の開発経済学が、まさに経済発展の要件として、政府による法秩序の維持や市場の整備も含めた制度確立・政策執行の能力を意味する「国家行使能力」(state capasity)を強調していることを踏まえれば、ヒュームのこの指摘には先見性が認められるだろう。]
ヒュームの主張は、成長志向の経済への転換を観察したことに由来するとみられる。ネイサン・ローゼンバーグとL. E. バードゼルによれば、17世紀から18世紀にかけての経済の大転換には、政治的、社会的、制度的、その他の非経済的な要因が重要な役割を果たしている。封建社会では、個人は封建的な君主による予測不可能な侵害から、自分の財産をできる限り保護しなければならなかった。財産の所有が安定していなかったのである。しかし、マグナ・カルタ以降、臣民が安定した財産所有権を享受する権利が慣習的に確立された。17世紀のイングランドと16〜17世紀のオランダでは、政府の権力は比較的弱かった。どちらの国でも、議会に代表される商人階級が[財産]没収を阻止し、政府の課税権を制限した。恣意的な没収のない財産の保障は、不確実性を低減することで商業の拡大に寄与した(Rosenberg and Birzell 1986:119-23)[誤植。Birdzellが正しい]。
法律[法的な保障]だけでなく、暗黙のルールの発展も[商業の拡大にとって]重要だった。中世において、傾向としては主な経済的な結社は家族や親族の集団であった。ローゼンバーグとバードゼルは次のように論じる。16~17世紀以降、集団への忠誠、相互的な信頼、制度に対する信用のような、家族や親族の紐帯を超えた新しい形の道徳感情が培われ、これらは事業や遠隔地との取引に必要だった。こうした新しい感情がいかにして生まれたのかを説明するのは難しいが、親族以外の絆で結ばれた組織は商人階級によって発展した。ローゼンバーグとバードゼルは以上のように主張している[ヒュームと同じ時代を生きたアダム・スミスが『道徳感情論』を著したのは、彼もまたこのような経済の転換を観察していたことが背景にあるのだろう]。新興の商人階級は新しい道徳の体系を形成したのだ(Rosenberg and Birzell 1986: 123-6)[誤植。Birdzell]。しかし、彼らによれば、商人階級が闘争することで封建的な貴族階級に取って代わったと考えるのは誤りだという。むしろ封建的な貴族の多くは、商人階級が推進した資本主義の勃興によって繁栄し、政治的な権力と経済的な安泰、文化的な地位を維持したのである(Rosenberg and Birzell 1986: 97-102)[誤植。Birdzell]。
ヒュームもまた、経済発展における階級の役割について指摘している。彼は商業を、富だけでなく政治的自由や社会秩序の促進にも役立つと考えていた。なぜなら、職人や商人からなる新しい中産階級は、専制君主の絶対的な権力を抑制すると期待されるからである(Winch 1978: 75)。
ヒュームは商人階級を貴族のライバルとは考えていない。むしろ、貴族階級と商人階級はともに公共の自由に貢献し、絶対君主による、特に課税権を通じた恣意的な権力の行使に対抗して財産[権]の保障に寄与する。[君主と下層階級に挟まれる]中間の階級と共存する君主制は政治的自由と経済的進歩にとって有利に働く。「貴族階級こそが君主制の真の支持者」(CL 56)であり、それゆえ経済的繁栄に役立つのである。ヒュームは、「純粋な君主制の最も完璧なモデル」であるフランスにおける恣意的な課税の濫用が、貴族を含む中間の階級を抑圧し、フランス経済の停滞を引き起こしていると指摘する。「しかし、実際には、貴族がこの圧制による最大の敗者である。彼らの領地は荒廃し、借地人は乞食となった。この圧制によって唯一得をするのが金融家[原文では斜体で書かれた Financier 。銀行家、投資家とも訳せる]であり、むしろ貴族や王国全体にとって憎むべき人種である」(CL 56-7)[ちなみに、引用元の『市民的自由について』(CL)は戦争と重税でフランスの経済が疲弊し社会が荒廃したルイ15世の治世下の1742年に書かれている]。貴族と商人階級からなる中間層の社会的な構造は、社会秩序に貢献し、裁量的な判断による不確実性を軽減し、それによって商工業を促進する。不確実性と不安定性を享受しているのは、投機的な金融業者だけであり、彼らは貴族と商人の共通の敵である。ヒュームは商人階級は擁護するが、投機的な金融家は擁護しない。彼は経済発展を自由主義と社会秩序の産物として肯定的に評価しながらも、金融投機を社会の不安定性の原因と見て非難したのである。
科学技術の知識
政治経済学者の多くは、科学技術の知識が経済発展に不可欠であることに同意しているが、技術進歩を経済理論の内生的要因としてどのように組み込むかは今日でも論争の的となっている。ヒュームにとってもそれは関心事であった。ヒュームは『政治を科学に高めるために』[原題は That Politics May Be Reduced to a Science で「還元する」の意味だが、ここでは岩波文庫『市民の国について』所収のエッセイの題に従う]の中で、たとえ支配者の性格のような偶発的な[一般化を妨げる]要因が重要であっても、政治学は政治の慣行や方法を解釈することによって一般化を図ることができると主張している(第4章参照)[なお、ここで慣行と訳した customs はヒュームの主著『人間本性論』においても因果関係を検討する際の重要キーワードである]。同じ意味で、ヒュームは技術革新や経済発展も科学的探究の対象になりうると考える。技術革新の動機は好奇心や知識欲にあるが、それらは貪欲とは異なり、必ずしも全ての人間に共有されているわけではないと彼はいう。
だからこそ、科学技術の進歩の程度や様相は多様なのである。主流派経済学は、利己的な個人を前提とした経済モデルに基づいているため、技術進歩の原因も多様性も説明できない。結果として、主流派経済学は、技術を外生的要因として扱わざるを得ないのだ。【2】しかし、技術進歩の性質はどのように一般化され、理論の中に組み込まれるのだろうか。もし、発展の原因としての技術革新が、単に偶然に与えられた個人の才能によるものであるならば、偶然による因果関係を一般化することはできないため、経済発展は科学の対象とはなりえない。しかし、イノベーティブな精神[創造的な気質などと下手に翻訳を工夫するよりこの方が簡明である]はしばしば人々の間に拡散していることが観察される。この現象は社会科学の対象となりうる。「したがって、芸術や科学の興隆と進歩に関する問題は、結局のところ少数の人間ではなく国民全体の趣味、才能、気質に関する問題であり、それ故に、一般的な原因や原理によってある程度説明できる」(RPAS 60)。経済発展の研究に関する社会科学の目標は、イノベーティブな精神と知識の発展を促進する社会的条件を解明することである。このように、技術分野に対するヒュームのアプローチは、制度的かつ社会学的なのである。
【2】新成長理論[new growth theory]の支持者たちは最近、主流派経済学の分析枠組みを使って、技術進歩や知識の向上を成長理論の内生的要因として考慮したと言い張る。しかし、専門の経済学者にとって、「内生的」変数とは合理的な自己利益追求活動によって説明されるものを意味する。彼らは、利己的な動機による知識の技術的進歩のみを考慮し、知的好奇心によるものや偶然に達成されたものは考慮しない(Gilpin 2001: 49n7, 112-7)し、現実経済における技術進歩の役割を説明するために、この経済学のモデルを修正することはない。それどころか、彼らはそのモデルの非現実的な仮定に合わない現実を無視している。
[長くなるが、いわゆる主流派経済学において技術(進歩)は、ある時期までもっぱら外生的要因として扱われてきた。例えば、標準的なコブ=ダグラス型生産関数においては産出量が労働力と資本と「外生的」な値である技術力(全要素生産性)の積で説明されており、各国の産業の生産性を測定する際には、技術力について式を解くことで(帰結的に)対処していた。50年代に登場したソロー・モデル(新古典派成長理論の原型)では、その国の資源や政策や産業構造や教育水準とは無関係に、労働の効率が一定の技術進歩率で成長すると仮定されていた。このモデル以降、発明や技術進歩は「ソロー残差」として処理され、やはり外生的な要因として処理するしかなかった。技術進歩を内生化する発想の萌芽は60年代から見られたが、本格的に技術進歩を内生化したモデルはR&D部門への投資をモデルに組み込んだポール・ローマーの内生的成長理論であり、これ以降、この成長理論が1990年代に急速に発展することになる。中野が原注で批判しているのはこのモデルのことである。なお、ローマーがノーベル経済学賞を受賞したのは2018年。]
ヒュームは、法の支配下における確実性とイノベーションの因果関係は一般化できると考えている。法の支配によって将来の確実性が確保されれば、商業の繁栄だけでなく科学技術の進歩も期待できる。「法から安全が生まれ、安全から好奇心が生まれ、そして好奇心から知識が生まれる。この進展における最後のステップは偶発的なものかもしれないが、最初のステップは完全に必然的なものである」(RPAS 63)[これは文明における法律と学問の発展(ひいてはイノベーション、技術進歩)との関係を簡潔に示した名文と言わざるを得ない。原文を引用しよう。'From law arises security: From security curiosity: And from curiosity knowledge. The latter steps of this progress may be more accidental: but the former are altogether necessary']。しかし、法の支配とは、現状を決定的に固定することでもなければ、あらゆる変化を排除することでもない。むしろ「安全」とは、将来に対する信頼を確保することを意味し、イノベーティブな活動を促進する自由主義と両立するものである。
科学技術の進歩と経済成長の因果関係について、現代の歴史家は中世・近世の西欧と中国を比較する。中国は[西欧と]同等か、場合によっては[西欧よりも]優れた科学技術と合理的な官僚制度を持っていた。それにもかかわらず、西欧とは異なり、近代資本主義への転換を達成できなかった。中国においては科学の知識は経済発展のために応用されなかったのである(Needham 1969)。デビッド・S・ランデス、ローゼンバーグとバードゼルは、この原因を西欧と中国の政治構造の差異に求めている。西欧は細分化された小さな自治国家で構成され、複数の地域にまたがる国家相互の貿易によって経済活動と技術進歩が促進された。対照的に、中華帝国は貿易の恩恵によって得るものが少なかった(Landes 1969: 19-21; Rosenberg and Birdzell 1986: 88)。単一の帝国の下では、世襲貴族や商人階級を敵視する高級官吏[the mandarin]の価値観が支配的であったのだ(Rosenberg and Birdzell 1986: 88)。このような地政学的・社会的要因により、科学的知識が経済的な必要性に活用されることはなかった。
中国の政治経済体制と比較して、ヨーロッパの経済発展にとって有利な条件は、政治的・社会的要因を除けば、その分断された地政学的構造である。ヒュームは、価値観と考え方と知識の多様性、また、その分断された地域内の貿易の優位性という観点から、分断された地域のメリットとは、主に科学技術やその他の知識の模倣と拡散であると主張している(RPAS 65)。ヒュームの政治経済学の視点は、このように文化的、歴史的、制度的、政治的、動的、地理的であり、これらは「方法論的ナショナリズム」[第2章参照。あとで訳す]の特徴である。このことを念頭に置いて、商工業、労働、貿易に対するヒュームの見解を見てみよう。
商工業
経済ナショナリズムの際立った特徴のひとつは、産業発展に対する肯定的な評価である。経済ナショナリストは経済発展を国力の源泉とみなす。ヒュームも同様である。「このように、君主の威厳[greatness]と国家の繁栄[happiness]は、貿易と製造業に密接に結びついている」(OC 100)。
スコットランド啓蒙[スコットランドで起こった啓蒙主義・思想・活動を指す。経済思想に関心のある経済学部の学生はよくアダム・スミスのバックグラウンドとセットで存在を知ることになる]の著述家の中でも、ヒュームは商工業の発展に対する楽観的な見方で知られている。しかし、彼の商工業に対する関心は、狭い意味での経済的なものではなく、文化的なものである。ヒュームは、商工業の発展やより裕福な生活様式によって、知識の交流が拡大し、人々が社交的になり、文明の進歩が促進されることを予想している。「産業、知識、人間性は、分かちがたい鎖で結ばれている」(RA 107)。ヒュームにとって社交性は文明の理想的な条件である。高度な商業社会の産物である工業、知識、人間性が普及することは市民の役に立つ。商業、工業、文明についての彼の見解は、彼の経験と観察から導き出されたものである。エディンバラとグラスゴーでは、多数のクラブ、サロン、コーヒーハウスが、スコットランド啓蒙時代の知的生活の中心にあり、ヒュームの暮らしたエディンバラは、文化や知的・社会的交流、そして経済の中心地のひとつであった。エディンバラの文化的・知的生活の魅力は経済的な効果をもたらし、その経済的繁栄はさらなる文化的・社会的発展に寄与した(Smout 1983: 58-9)。ニコラス・フィリップソンは、「18世紀を通じて、スコットランド、特にエディンバラの知的生活は、マナーの改善や経済効率の向上、学問の発展、文学の洗練に専念するクラブや協会の複雑で絶え間なく変化するネットワークのなかに組み込まれていた」と述べている(Phillipson 1983, 27)。
当時の通念、とりわけ共和主義の伝統[第4節参照]に反して、ヒュームは、文明にとっては奢侈であっても望ましいと擁護する。17世紀から18世紀にかけてのイングランドとスコットランドでは、主力産業は高級な消費財、特にリネンの生産であった。奢侈品に対する需要の拡大は、生産、技術革新、雇用、貿易を刺激した。商業、製造業、技術革新を供給側とし、贅沢な消費を需要側とするヒュームの経済理論は、おそらくスコットランドのリネン産業の観察から導き出されたものであろう。
また、ヒュームは製造業と商業を経済的なものだけではなく軍事的なものも含めて、国力の重要な要素とみなしている。彼の友人であるアダム・スミスやアダム・ファーガソンとは異なり、ヒュームは人々が奢侈によって国や自由を守ろうとする武勇の精神を失いかねないことを深刻には危惧していない。それどころか、経済発展によって培われた勤労意欲[the spirit of industry]は、国家の安全と自由にとって必要な人々の胆力と公共の精神を促進する。彼は商人を「人間の最も有用な種族の一つ」(OI 129)と呼ぶほど、商業を賞賛している。[とはいえ]間違いなく、国防と商業の関係について、ヒュームは釣り合いのとれた見識を示しており、彼はアダム・スミスと同様、高度な商業社会の負の側面を指摘している(Winch 1978: chapt. 5)。例えば、「富が少数の手に握られているところでは、富者はすべての権力を掌握し、直ちに次のことを企てることになる。すなわち、貧者にすべての負担を負わせ、そのうえ抑圧し、あらゆる勤勉さ[all industry]を失わせようとすることを」(OC 102)。また、贅沢の有害な側面についても論じている(RA 113)。しかし、総じて言えば、ヒュームは産業発展を強く支持していた。
製造業が国防に適しているもう一つの理由は、製造業が農業よりも国富と余剰労働力を増大させる超過利潤[excess profit]をもたらすからである。その結果、そのような国家は、必要最低限の労働力を損なうことなく、労働者[原文はmanufacturerだが、次の引用『道徳政治論集』(1742年)の刊行当時においては「製造業の労働者」を意味した。今日の「製造業者」を意味するようになったのは18世紀の半ばらしい。(Manufacture の意味、語源、由来、翻訳・英語語源辞典・etymonline)産業の高度化により、「モノづくり屋さん」の意味が労働者個人から会社に変わったのだ。]を兵士として活用する余裕がある。「平和で安穏とした時代には、この余剰は労働者の経営や文化・教養[liberal arts]の洗練に充当される。しかし、国[the public]がこれらの労働者の多くを兵士に変え、農夫の労働から生じる余剰によって彼らを養うことは容易である」(OC99)。この考え方を理解する上で有益なのは、スコットランドの、特にローランド地方[Lowlands、スコットランド中部の低地帯を、北部の山がちなHighlandsに対して言う]におけるリネン産業の重要性である。T.C.スモウトが指摘するように、「スコットランドはリネン生産を農業から徐々に切り離し、最終的には織物生産に熟練しながらも土地からは切り離され、町や村で即戦力になる[ready to work]プロレタリアートを育成した」のに対して、アイルランドはプロト工業化の段階で家族は小農場に束縛され、それが19世紀アイルランドの悲劇的な停滞を招いたのである(Smout 1983: 63)。ヒュームは、スコットランドで近代的な生産形態が台頭しつつ労働者が小規模で地域的な共同体から切り離されるのを観察して、そのような自由な労働力[freer labour power]を軍事目的に動員できると考えるようになったのだろう。[実際、以下に示すように]国家安全保障と経済発展に関する彼の主張は、経済ナショナリズムに関する彼の理論の信憑性を高めている。ジェイコブ・ヴィナーらが指摘するように、経済ナショナリズムの際立った特徴のひとつは、軍事的安全保障と産業発展は相互に補強するという考え方である。ヒュームはこの考え方を次のように要約している。
労働
ヒュームの技術的知識と産業に対する認識を念頭に置きながら、今度はヒュームの労働観についてより注意深く検討する必要がある。「この世のあらゆるものは労働によって購入され、われわれの情念が労働の唯一の原因である」(OC 99)。この短い記述からだけで、ヒュームが労働価値説を唱えていると推論するのは危険である[アダム・スミスからマルクスに至るまで、労働価値説は伝統的な主題であった]。実際、ヒュームの著作には、そのような説を示唆するような記述はほとんど見られない。むしろ、この文章で仮定されている因果関係に注目すべきである。すなわち、「われわれの情念」は労働の原因であり、労働は結果である。ヒュームの関心は、労働の力がどのように生み出されるかにある。
さらに、ヒュームの労働概念は、主流派やマルクス主義の経済理論における現在の一般的な用法よりも幅広い。第一に、労働者は経済主体であるのみならず、士気のある軍事力であることが期待されており、平時においては労働者は勤勉な精神をもって経済力をもたらし、戦争においては士気をもった軍事力となる。労働は国力の源泉なのである。第二に、ヒュームは労働の量よりも質に光を当てる。ヒュームにとって、労働に含まれる技能、知識、勤労意欲は、経済力の源泉として重要である。彼は労働を価格や交換価値の源泉としてではなく、生産性の源泉としてとらえており、彼の主な関心事は交換ではなく、生産と革新のダイナミックなプロセスである。リストの言葉を借りれば、ヒュームの労働論は交換ではなく「生産力」の理論である。
ヒュームは、労働の発展過程、言い換えれば、「やることによって学ぶ[learning by doing]」効果を高く評価している。「労働者は唐突に熟練や勤勉さを高めることはできない」(OC 99)。労働についての議論では、「時間と経験」が強調されている。「経験が労働を導かなければならず、時間は労働を完璧なものにしなければならない」(RPAS 68; OC 95)。彼の労働の概念は、彼のダイナミックな視点を明らかにしている。ヒュームがいう労働とは、経験を通じて獲得される実践的知識の蓄積と伝達、そして勤労意欲のことである。アダム・スミスやアダム・ファーガソンとは異なり、彼は工場における細かな分業[the division of labour]には注意を払わず、その酷使を恐れない。ヒュームが評価するのは、時間と経験を通じて獲得される知識と道徳を含む労働の包括的な側面であり、それは文明の基礎であると同時に国力の源泉でもある。重要なのは分割性[the division]ではなく、労働の包括性[the comprehensiveness]である。
ヒュームは独自の労働観として製造業を支持している。製造業は労働者を知識のストックとして育成・維持するものであり、労働者は国力の源泉となる(OC 99-100)。従って、製造業は国力を高める上で極めて重要な役割を果たしているのである。
貿易
ヒュームが金融重商主義を批判し、自由貿易全般を支持していることはよく知られている(BT137-8)。このため多くの論者は、ヒュームのことをアダム・スミスに先行する経済自由主義者だと考えている。しかし、ヒュームが自由貿易を支持する理由は、それが世界において最も効率的な資源配分を実現すると主張する経済自由主義の教義とは異なる。むしろ彼が自由貿易を支持するのは、貿易が模倣を通じて、国内産業の発展に必要な技能や技術を普及させるからである(OC 102; JT 150)。彼の関心は効率性でもコスモポリタン的な理想でもなければ、対外貿易をゼロサムゲームと見なしているわけでもない。「ある民族の国内産業が、隣国の最大の繁栄によって損なわれることがないのは明らかである」(JT 150)。
しかし、この考え方が経済ナショナリズムと相容れないと結論づけるべきではない。第一に、これまで強調してきたように、経済ナショナリズムは国際経済のゼロサムゲーム的な見方だけと結びつけるべきではない。第二に、ヒュームが自由貿易を主張するのは、経済自由主義を信奉しているからではなく、国内の富の原動力が勤労意欲にあると考えるからである。「このような利点があるにもかかわらず、そのような工場を失うのであれば、隣国の産業のせいではなく、自分たちの怠慢や悪政のせいにすべきである」(JT 152)。ヒュームの貿易論は、重商主義とも主流派経済学とも決定的に異なっている。重商主義も主流派経済学も、国際貿易を通じて世界における経済資源の配分に取り組んでいるが、これに対してヒュームは、貿易の利益は知識の普及にあり、富の不可欠な要因は国内の生産性の向上であり、それには人々の勤勉さが必要であると主張する。
さらに、ヒュームは基本的に自由貿易を支持しているが、ドグマとしてこのことに固執しているわけではない。ヒュームの一般論は独断的な定理ではないからである。「政治において多くの一般的真理を確定するには、世界はいまだ未熟であり、このことは後世まで真実であり続けるだろう」(CL 51)。アンドリュー・スキナーは『貨幣について』と『利子について』に注目しており、それによるとヒュームは比較的発展した経済が国際貿易の優位性を享受できると論じている。このことは、ヒュームが比較的後進的な経済の生産性を高めるために政府の介入を正当化する可能性を意味している。スキナーが「このように、ヒュームの著作には自由貿易を支持する明白な推定がある一方で、彼は政府の介入が有益であることも認識していた」(Skinner 1993: 244)と示唆しているのはもっともなことだ。トム・ヴェルクとA.R.リッグズもまた、ヒュームは経済発展のために市場と政治の両方を活用することを厭わないと論じている(Velk and Riggs 1985: 155)。さらに、ヒュームはいわゆる「幼稚産業論」[リストやハミルトンが説いた未成熟な産業の保護育成を正当化する理論]に言及している(McGee 1989: 184)。もし自由貿易がイギリスの国力にとって不利であるとヒュームが見抜いていたならば、彼が保護主義の支持者であったと考えるのが妥当であろう(Lyon 1970)。
貨幣
ヒュームは『貨幣について』の中で、信用膨張[原文はthe expansion of paper credit。商業手形などの紙の証書の振り出し増加を意味している]によるマネーサプライの増加は、商品価格や人件費を上昇させ、産業に損害を与える可能性があると指摘している[これはマネーサプライを単なるインフレに読み替えた方が理解しやすいかもしれない]。というのも、「人為的にそのような信用を増大させようと努力することは、いかなる貿易国の利益にもなり得ない。それどころか、労働や商品に対する貨幣の自然な比率以上に貨幣を増加させれば、商人や製造業者に対する[転嫁される]価格が高騰することによって、貿易国に不利益をもたらすに違いない」(OM 117)からである。この考え方は、市場メカニズムが商品価格を最適な水準に調整することができ、したがって国家の介入は望ましくない、とする経済自由主義の教義のように映るかもしれない[ヒュームの貨幣数量説はリカード、マルサス、ミルに継承されている。悪名高いマネタリズムの視点からヒュームの貨幣理論を検討した研究も多数ある]。しかし、これは間違った解釈である。ヒュームは、マネーサプライの増加が利子率を低下させることによって産業の投資を刺激することに気付いている[マネーサプライの増加が金利を低下させる(あるいはその逆)というのは、教科書における通説である。2004年時点に書かれているため、アベノミクスでリフレ派が批判される以前のものとなる]。マネーサプライは利子率と価格のそれぞれを通じて、同時に、産業の発展を奨励・阻害するのである。ヒュームはこのシステムを次のように分析している。「私の考えでは、貨幣取得[the acquisition of money]と物価上昇[rise of prices]の間にあるこの間隔、この中間的な状況[this interval or intermediate situation]においてのみ、金銀の量の増加は産業に好都合である」(OM 119)[これだけでは難解である。金銀の量の増加が産業発展に寄与し始める水準を下限とし、そこからやがて価格転嫁によって商品価格や人件費を上昇させ本格的に産業に損害を与える水準を上限とする「間隔」の範囲、つまり、物価上昇率が一定の範囲を超えない限りにおいて金銀の量の増加が有効だと説いている、ということか]。
同じ一節を引用して、ジョン・メイナード・ケインズはこうコメントしている。「ヒュームは少し遅れて古典派の世界に足を踏み入れた。というのも、ヒュームは経済学者の中で、均衡状態に向かって絶えず変化する移行状態よりも均衡状態の重要性を強調する慣行を始めたからである。もっとも、彼は依然として重商主義者であり、われわれが実際に存在するのは移行状態であるという事実を見過ごすことはなかった」(Keynes 1936: 343n3)。ヒュームを経済自由主義者とみなすケインズは、ヒュームが「ある程度安定した賃金単位」や、ケインズが『利子・雇用・貨幣の一般理論』(Keynes 1936: 337)で発見し強調している「消費性向と流動性選好を決定する国民的特性」に言及していないことに不満のようである。
しかし、ヒュームの立場は、ケインズが認識しているよりも遥かにケインズに近い。重要なのは、ヒュームが『貨幣について』の中で、物価と利子率が慣習や風俗に左右されることを強調していることである。異なる国や地域の経済、例えば古代ローマ、アメリカ大陸発見後のスペインとポルトガル、西インド諸島発見前後のイギリス、フランス、中国などの比較研究と歴史研究に基づき、貨幣の量だけではなく人々の風俗や習慣も物価と利子率を決定すると結論づけている(OM 123-5)。低金利は商工業の発展を促進するが、マネーサプライの増大による経済成長はインフレ効果によって妨げられ、「労働と商品に対する自然な比率を超えた」マネーサプライの増加は有害である。しかし、経済発展の重要な要素である物価も金利も、人々の経済的な生活形態に左右されるため、価格を最適な水準に調整する市場メカニズムが常に機能するとは限らない。要するに、ヒュームは経済発展の源泉と文明の基礎を習慣と風俗に見出したのである。彼はケインズを先取りして、「消費性向と流動性の選好を決定する国民的特性」の重要性に気づいている。
さらに、ケインズと同様に、なおかつ古典派経済学とは異なり、ヒュームは経済分析における重要な変数として時間と心理的要因の両方を考慮している(Lyon 1970)。ヒュームが貨幣を古典派や新古典派と同様に交換の手段と規定しているのは事実である(OM 115)。しかし、彼がそのように規定しているにもかかわらず、貨幣は主流派経済学の意味における道具以上のものとして扱われている。それは慣習[convention、「黙約」の訳も可か]や象徴なのである(T 490;第4章参照)。ヒュームの貨幣に関する象徴論あるいは社会心理学的理論は、マネーサプライの増加が経済活動をどのように刺激するかを説明することができる。「我々は次のように想像する。貨幣の保有が2倍になれば、個人はより豊かになるのだから、すべての人の貨幣が増えれば、同じような良い効果が得られるだろうと」(BT 142)。マネーサプライの増加によって、人々は金持ちになるという幻想を抱き、経済活動が促進される。要するに、ヒュームはアーヴィング・フィッシャーが言うところの「貨幣幻想」を主張しているのである。貨幣幻想が成立し得るのは、貨幣が象徴的な形態をとるからである。
ロックの貨幣観を共有した他の同時代の作家たちとは異なり(Pocock 1975: chapt.13)、ヒュームは貨幣の象徴的な虚構の形態を問題視していない。むしろヒュームは、貨幣だけではなくすべての社会制度が象徴的であると考えている(第4章参照)。彼は、商工業を奨励する上で、例えば貨幣の円滑な流通など、銀行や手形[paper-credit]のもたらす便益を認めており(BT 143-4)、マネーサプライ[の増加]が[利子率の低下を通じて]投資を促進する相当な効果があることを理論的に理解している。[実際に]ヒュームが観察したと思われる事物は、彼の象徴貨幣論[Hume's symbolist theory of money]によって説明することができる。17世紀末から18世紀初頭のスコットランドでは、スコットランド銀行やロイヤル・バンク・オブ・スコットランドなどの銀行が設立され、新しい信用制度が導入された。これらの革新的な金融機関はスコットランドの経済発展に貢献した。まとめると、ヒュームの制度的・文化的・動態的アプローチは、当時台頭しつつあった成長志向型の経済[the growth-oriented economy。近代経済がそれ以前の経済とは異なる点は、不断の技術革新とその導入による持続的な経済成長である]の本質を適切に捉えていた。科学技術の知識を中心的な変数として取り入れた彼の政治経済学は、経済システムのダイナミックな過程と、国や地域、歴史の多様性を説明することができる。それは、経済資源の効率的配分ではなく、軍事力を含む国力の経済的源泉を探ろうとするものである。また、ヒュームはケインズよりも遥か以前に、国民の生活形態が物価や金利に影響を与えることを発見していた。
[以上、第3章前半の第1節~第2節の翻訳。後半の第3節~第5節に続く。
※更新しました(2023/12/6)
【翻訳】中野剛志・博士論文第3章「プレ古典派経済学としての経済ナショナリズム」(2/2)]
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