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#はじめて借りたあの部屋

#はじめて借りたあの部屋 の思い出をつづってみませんか?いい部屋ネットがnoteで投稿コンテストを開催します!

定番の記事一覧

最高に居心地のよかったアパートで、精神と肉体が少しずつやられていった頃の話

初めて自力で部屋を借りたのは、小説家としてデビューして数年経った頃。 デザインの専門学校を卒業後、なぜか小説家になって、そこそこ定期的に単行本も出してもらって、数年で「まあ、一人でもやって行けるだろう」と割と無計画に実家を出て上京した。 実家は埼玉で、一時間もあれば都内に出られるし、そもそも仕事の打ち合わせは電話がメインで、原稿は宅配とメールでやり取りできるし、いちいち編集者と会う用事もない。 でも家を出たくなったのは、小説家という仕事に対して父親の理解がさっぱりなかった

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私だけの頃合いで

さよなら、正しい街

母は過保護だった。 月々のお小遣いは多くはなかったけど、遊びに行くときにはいつでも多めにお金をくれた。 少しでも天気が悪かったりすれば車を出して駅まで迎えに来たし、どんなに遅く帰っても寝ずに待っていて、私が夕飯を食べていなければキッチンに立った。 母は過干渉だった。 私が見覚えのない服やカバンを持っていると、すぐに「それいつ買ったの」と訊いてきた。休みの日にどこに行って、誰と会って、何時に帰ってくるのかをいつも申告しなければならなかった。二十歳を過ぎてからもそれが続くので

東京で、生きてきた。

交差点。車たちが止まり、一呼吸置いて、人々が縦横無尽に歩き出す。これまで一度も見たことのなかった顔たちが、目の前を交差していく。話に夢中な人、考え事をしている人、カメラを構えて歩く人。他人になんて見向きもせず、皆、それぞれの自分だけの物語を歩いている。 コートの匂い。タバコの残り香。嗅ぎなれないスパイスの香り。甘い香水と汗の匂い。ボソボソ話す声、甲高い笑い声、妙に伸びる語尾。赤のタートルネック、薄っぺらいスカート、革のブーツ、汚れたスニーカー、いまにも落ちそうな財布。CMの

内見で父がバグった話

私が東京でひとり暮らしをすることについて、賛成してくれたのは父だけだった。 母は真っ向から反対はしなかったものの、私とふたりきりになる度に「友達おらんと寂しいやろ」「〇〇ちゃんも△△ちゃんもみんな地元残るって」という切り口で説得を試みてきた。 私は、「〇〇ちゃんも△△ちゃんもみんな持ってるって言ってもゲームボーイ買ってくれなかったくせに」と反論した。18歳の私は結構クレバーだったのだ。 祖父母は、「東京には狼がおる、危ないからアカン」の一点張りだった。 私は「岐阜にも熊お

東京に馴染む

男は2種類に分けられる。朝起きた時に「シャワーを貸してくれる男」と「貸してくれない男」だ。 飲み過ぎで頭が鈍く痛む朝、再生速度が2分の1くらいで動く数十分間で見分けられる。 「シャワー浴びてく?」 この質問が出るか出ないか。あまりにシンプルすぎるリトマス紙だけれど、それがすべてだ。 きっと目の前の青年は自分がリトマス紙を当てられてることも知らずに眠りから覚める。窓の外を見ると、青白い近未来的なタワーが見えた。 墨田区に立つ東京スカイツリーという新名所は、世界で一番高

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手のひら4つ分のキッチン。 #はじめて借りたあの部屋

贅沢病とコインランドリー

多感な中学2年生の日々を奈良の片田舎で、椎名林檎の音楽と共に過ごした私は、いつか東京で一人暮らしするなら丸の内線沿いと決めていた。 関西で出会った東京出身の彼氏が転職することになったことがきっかけの安易な上京だったけれど、大学を卒業してフリーランスだった私は色々なツテを頼って業務委託の仕事をとりつけながら生きていくということで、それなりにビッグなプロジェクトだった。当時24歳、守ってくれる会社も後ろ盾もない上京にはそれなりに覚悟も必要で、だけどまあ死ぬことはないだろうという

一目惚れした1Kに一目惚れした先輩を泊めた冬の話

社会人なりたての夏、初めての一人暮らしを始めたのと、長期戦になる恋が始まったのは、まったく同じ時期だった。 会社に一本で行けるという理由だけで選んだ、三田線沿線の駅近くの1K。独立洗面台、築浅、南向き、2口コンロ、オートロック、広めの部屋…。わがままな条件をすべてクリアした部屋に、一目惚れして即決した。 もう一つの一目惚れは、4つ上の、OJTの先輩。仕事ができて、面倒見が良くて、しっかりしてるけど仕事以外で見せる抜けているところが好きだった。人懐っこくて世渡り上手な後輩を

#はじめて借りたあの部屋 の思い出をつづってみませんか?いい部屋ネットがnoteで投稿コンテストを開催します!

【結果発表】 ・審査結果を発表しました。 【12月18日 更新】 ・お手本作品のかわいちひろさんのマンガ「私だけの頃合いで」を公開しました 【12月16日 更新】 ・お手本作品の夏生さえりさんの記事「東京で、生きてきた。」を公開しました 【12月3日 更新】 ・お手本作品の嘉島唯さんの記事「東京に馴染む」を公開しました 新作WEBムービー「ボクのいい部屋、いい暮らし。」の公開を記念して、「いい部屋ネット」と投稿コンテストを開催します。 ハッシュタグは「#はじめて借りたあの

いつか見たイメージを追い求めて   -創業します!

大学院時代に就職活動をしているときから、脳に1つのイメージがありました。私自身の就職活動は、リーマンショック直後の2009年夏ごろから2010年春(4月頃)までが本番で、1週間程度の外資系の投資銀行やコンサル、ベンチャーのインターンシップに足しげく通い、情報を得ていました。 当時はどこかの企業で働くことを前提に活動していましたが、自ずと脳裏にあったイメージは、小さなオフィスで、がむしゃらに働く姿で、人数は3名くらい、Tシャツやパーカーのラフな姿で、新規事業の検討を喧々諤々し

初めて借りたあの部屋は、この街の夜がよく似合っていた。

私達が初めて借りたあの部屋は、非日常だった。 非日常と思えるぐらい、映画の中のような生活だった。 きっと、それは、私達が住んでいたから。 部屋は住んでいる人によって、世界を変える。 私達が出会ったのも、この街だった。 行きつけの居酒屋で仲良くなり、その流れで交際を始めた。 私も君も、この街の夜が大好きだった。 「この街って、夜が似合うよな」 君はベランダで煙草を蒸しながら、よくそんなことを呟いていた。 私達が初めて借りたあの部屋は、この街の夜がよく似

毎月少しのこだわりを

社会人一年生となる春、3年間過ごした看護学生寮から引っ越しをした。ひとりをこよなく愛するタイプではあるが、4人部屋の寮生活は全く窮屈さを感じない快適な場所だった。 それでもやはり念願の初一人暮らしに浮き足立つ私。 インテリアが大好きなので、何が嬉しいって、これで思い通りの部屋が作れるってことだ。 白と茅色(かやいろ)をベースにしたナチュラルカントリーにしたいと意気込む。 実家暮らしの頃も個室だったが、まだ親が買ったものが断然多かった。それでもしょっちゅう模様替えをしたりお年

個人的な麻薬への気持ち

私の今年一番スキを戴いた記事、というnoteからの報告であがってきたのはこれなんだけど 麻薬のアメリカ社会への浸透性はもう、どうしてとかなんで、とか言っても仕方ないのか、と絶望的に感じるところもある。で、そういえば、と思いだしたことがあります。 アメリカに住んで長くなってきたソルトレイクシティなのだが、最初に私達が借りたのはデュプレックスとよばれる「家2件がひとつの建物の中にある」家だった。斜面に立っていたその家は、大家さんの姪が下の階の(そして庭にアクセスできる)家に、

全ては息子の一人暮らしから始まった

2014年の春、一人息子が京都の大学に進学した。 京都で息子が暮らす部屋は、合格が決まった時に大学が送ってくれた不動産屋のパンフレットを見て選んだ。実際に現地に行き、いろいろ見学させてもらい、大学に近くて、生活もしやすそうな所で決めた。 契約したマンションは、最上階に大家さん家族が住んでいるので安心だし、大通りから少し入ったところで静かだし、家賃もこの間取りでこの値段は東京なら倍はするだろう・・・という金額で、とてもありがたかった。さすが大学の街だけあって、アパートやマン

いい部屋ネットとnoteで開催した、「#はじめて借りたあの部屋」投稿コンテストの審査結果を発表します!

2019年11月19日から約1ヶ月半の間、みなさんがはじめて借りた部屋についての思い出を語る「 #はじめて借りたあの部屋 」投稿コンテスト。期間中(11/19-12/31)には、852件もの作品をご応募いただきました!はじめての部屋のエピソードが詰まった素晴らしい作品を投稿いただき、ありがとうございます。 noteでの応募作品一覧は、こちらをご覧ください。 審査会にて、審査員である夏生さえりさん・かわいちひろさんの2名と、いい部屋ネット note担当 阿部将貴さんによる選

一階の部屋とチャルメラ

今から25年ほど前、私たち夫婦が、はじめて借りたのは3階建てのアパートの1階の部屋だった。 いわゆる2DK、Lがないやつだ。4.5畳と6畳に名ばかりのキッチンが付いている。4.5畳と6畳の部屋は、ほんとうに畳の部屋で、間に押し入れが挟まっていて、互いの部屋のふすまを開けると通り抜けできた。 この部屋には、正方形のものが多かった。ドアを開けると、まず、玄関だ。もともとは、長方形だが、そこに下駄箱を置くとちょうど正方形になった。 玄関を上がると、キッチン。キッチンというより

ヤシの木があるアパートで過ごした、うっすら憂鬱で幸福な日々のこと

「……何ばかなことを言ってるの」 「恋人ができたから一緒に暮らす」と告げた私に、電話の向こうの母は、怒りを押し殺した声で言った。平日の昼間、程よくにぎわったマクドナルドでのことだ。 我が家の家風を思えば、付き合ったばかりの、親にも紹介していない相手との同棲を許してもらえるはずはない。だけど、許してもらえなくてもいいと思っていた。自分の希望を言うことに意味がある。 23歳の冬。あれはダメ、こっちにしなさい、と縛りつける母への、これは遅い反抗だ。 東京がいいんじゃない。地

おじさんと僕

おじさんと僕。それまでまるで、と言ったら語弊があるけど、あまり関わりの無い関係だった。普通の「おじさん」と「甥」。どこにでもある関係性だ。おじさんは遠くに住んでいたし、会うとしたら正月くらい。それに、変わった人だった。会社に勤めてはいるけれど、長期の休みを取っては海外(一般的な観光地ではなく、〜スタンとかが多かった)を放浪していた。そして、独特な画風の絵を交えて手記を書いてみたり、現地の植物や動物に異様に興味を持ち、図鑑を作ってみたりするのが趣味だった。そのどれも、クオリティ

私の大学生活と除籍と居候。

私は大学を除籍になっている。 除籍とは「あなたはこの大学に、そもそもいませんでしたよ」という意味合いのものらしく「中退」よりも重い。私は履歴書上は高卒である。 大学を除籍になる方法は主に2つ。 私は、[2]学費未納である。 どこにある、どんな大学を除籍になったか。 北海道の小樽市にある、1910年創立の小樽商科大学。北海道では、北海道大学に次ぐ、自称北の名門で、国内唯一の単科大学であり商学部しかない。ここを学費未納で除籍である。 前期で北海道大学を受験し不合格とな

バリキャリと東京に憧れた私の、はじめての一人暮らし

バリキャリウーマンに憧れて、新卒で総合職の仕事に就いた。全国転勤のある会社で、当時神戸の実家に住んでいた私は東京で働くことを希望していたが、配属先は大阪。人事との面談でも「東京で営業をやりたいです」と伝えたのに、「大阪で内勤」という配属発表に悔しい思いをしたことを、私は今も覚えている。 (ただ、今となっては配属はこれで良かった、と思っている。やっぱり人事の人って見る目あるんだな・・・この話はまたいつか。) そんな私の父は営業職で、全国に営業所があったため転勤が度々発生した

あたしの、ひとりきりの部屋から

あたしは二度と戻りたいとは思わない。 あの、はじめて暮らした、夜の星も見えない、ひとりきりの部屋には。 *** 2005年4月、東京。 夕方になると、あたしはぐったりと三鷹駅に降り立つ。大学の課題がたんまり入った手提げが重い。陸橋から、ビルに挟まれまっすぐに伸びる大通りを眺めた。 あたしを知っている人は、誰も、この街にはいない。 夕焼けに染まるはずの空は、灰色の建物に遮られ切り取られている。どこにもつながらない身体を、重い足取りで動かした。 夕飯を買って帰らなきゃ

就活をやめて、note編集部に入った私が今年一年で感じた、noteの好きなところ

今年の春、ピースオブケイクのnote編集部で働きはじめてから、あっという間に9ヶ月が経とうとしています。 大学卒業後、私は就職をせずに社会人となりました。自分のやりたいことと人生の選択のタイミングがあわなかったこと、自分に合った選び方ができなかったこと、理由はさまざまですが、とにかく新卒1年目のきっぷを切ることが、私が選べるような選択肢のひとつではありませんでした。 今回は、就職をせずにnote編集部で働きはじめた私が、この一年内側に携わってみて感じた、noteの好きなと

夢のはじまりと終わり。高円寺で暮らした6年間

東京にさえ来れば、何とかなると思っていた。18歳だった。 地元の東北から逃げるように上京。誰も自分の事を知らない場所で全部をやり直すつもりだった。 僕の1人暮らしは高円寺からはじまる。 高円寺の風呂なし共同トイレ4畳半。2万7千円 最寄り駅は高円寺。 築40年を超える木造アパートで共同トイレ風呂なし4畳半。 家賃は2万7千円。 若干古いし、不便な部分はあれど、ここから全部が始まるのかと思うと胸が高鳴った。 家電量販店で冷蔵庫、テーブル、布団など生活必需品を揃え、何もなか

ドクター・高松と、ばあちゃんのかぼちゃと、皆勤賞と

高校を卒業するまでの私の自慢は、一度も学校を休まなかったこと。風邪をひかない強い身体が自慢だった。 だから、上京して2ヶ月経ったある日、頭皮がヒリヒリと痛み出した時も、太陽を浴びすぎたんだろうと気楽に構えていた。 そのヒリヒリが激痛に変わり、病院が大嫌いな私がようやく病院に赴くと、先生は「帯状疱疹ですね。昔は入院しないといけない病気だったんですよ。我慢せずに来てくれてよかったです」と優しく説明してくれた。 一人暮らしをしていたマンションの隣駅にある「ドクター高松」という

初めましての自己紹介/noteという巨大マンションの住人になってみての感想を語る

皆さん、初めまして。 ユウリハセガワと申します。 noteを始めたばかりの未熟者ですが、 これからお世話になります。 どうぞよろしくお願いいたします。 まだ、皆さんに初めましてのご挨拶をさせて頂いておりませんでしたので、 簡単に自己紹介をさせて頂きます。 私は、見た目と体力は年相応ですが、心はいまだに大学生気分の明るく陽気な40代女性です。 声がよく通り、甲高いことから、ドキンちゃんに似てると言われたり、せっかちでおっちょこちょいなところがあって、サザエさんに似てると

あの日ひとりで食べた麻婆茄子が今の僕をつくっている

僕は料理が好きだ。盛り付けの綺麗な「映える」レシピは苦手だけど、豚汁とかキムチチゲとか水炊きとか、ワシワシと食べられる料理が得意だ。 昔から夕方になると母親の隣でご飯の支度を手伝い、誕生日には包丁を買ってもらうような子どもだった。最近では肉の塊を焼いたり、友達を集めて居酒屋を開く遊びにハマっている。面と向かって尋ねたことはないけど、誰も嫌だと言わないから多分美味しいのだろう。 そんな僕も、ひとりで食卓を切り盛りする自炊生活がはじめから上手にできたわけではない。今日は僕と料

「幸せだ」って思ったら、そこで終わっちゃう気がしてた。

いつだって、欠けているもののことばかりが気にかかる。 終わったあとのこと、失くしたあとのこと。 今ここにあるものを、うまく見ることができなかった。 たとえば友達と約束をして、どこかへ出かけて、一緒に食事をして。それがどれだけ楽しくても、私はいつも残り時間ばかりを気にしてしまう。あと1時間で終電だな。そうしたらこの人はまた、この人の日常へと戻っていってしまうんだな、と考える。 ものを買う時も同じだ。新しいスカートに胸を躍らせながら、心のどこかでいつも、そのときめきが色あせた

彼と暮らした1080日

5010+280=5290 土曜日の午後2時。駅前通りに面したカフェチェーン店、3階の窓際にある小さなテーブル席で計算をしていた。 数十分前に買ったばかりのボールペンが、光沢感のあるレシートの裏でつるつると踊る。 5290×8=47,610 スマホ画面に並ぶ数字を慎重にタップし、レシートに書かれた数式の答えをなぞる。 「同棲のほうが安い、かも」 目の前でスマホを弄っていた彼は、不思議そうにこちらを見つめていた。 「ここで一人暮らしする

今夜も白い壁じゃなくて、顔を見て眠りにつきたかった

この世でいちばん哀しい光景は、眠りにつく前に見る目の前の白い壁だ。 桜の季節に初めて一人暮らしをした部屋は、お世辞にも広いとは言えないワンルーム。バストイレ別ということだけが自慢な、けれどすきなものだけを集めた小さなそのお城は、雪の降る頃にいつしか二人暮らしに変わっていた。 狭い、ということは近い、ということで。 気配につつまれた濃密な8.5畳は、どこにいてもふたりがいて、どこにもいけないほどふたりしかいなかった。 炊くお米の量が増えて、洗濯の回数が増えて、帰ったときに

唐突に引っ越しが決まり、いまの家と大好きな街を離れることへの寂しさが爆発している

引っ越しが決まった。 いまの家に住みはじめたのは、ちょうど4年ほど前、当時の彼女であり、いまの妻であるパートナーと一緒に、ベトナム・ダナンから日本に本帰国した時だった。 2人とも日本で物件を探して住むのは初めてで、「そんなに簡単に引っ越し先が見つかるのか?」という不安と裏腹に、内見した瞬間に「ここだ」と決まった家。 決して広くはないけれど、大家さんの気遣いが随所に見られる設備と共用空間と、白を基調にしたインテリアと、西日が差し込む窓が素敵な家だった。 学芸大学という街

はじまりの部屋

段ボール2箱とお下がりの電子レンジ。 18歳になったばかりの私が実家から持ち出したのはそれだけだった。割れ物はタオルと服にくるんで必要最低限のものだけ。ダンボールの一番上に、大事にしていたテディベアのステファニーを載せた。 私のはじめての一人暮らしの舞台は、6畳の中にベッドと机と洗面台と冷蔵庫を詰め込んだ学生宿舎の一室だ。学内外から「監獄」との呼び声の高いその環境は、それなりの難関を突破した新入生に対して厳しいものだった。生活スペースは実質3畳、キッチンもトイレも共用。お風

シュレーディンガーの105号へ

大学4年間を過ごした大学は、酷いもんで自殺率が全国5位だった。 情報番組のあるコーナーのキャプチャがTwitterで回ってきたのだ。自殺率の高い修学環境トップ5をざっくり紹介しているもので、そのランキング第5位に『(自分の大学)のような田舎』と母校の名前が記されていた。全国に点在する無数の田舎大学、その代表に選出されたという、不名誉な話だ。自殺率の高さという文脈ならなおさらだった。 「大学が無ければ地図にも載りそうにない土地」という表現を当時の自分は気に入っていて、よく使

古本屋さんの想いが伝わる「納品書のウラ書き」に、おせっかいな母からの差し入れを思い出した。

Amazonで結構買い物をします。ここ6か月で66回使っていました。 でもよく考えるとそんなに段ボールを受け取った記憶がない。詳しく見ると多くが「本」の注文。なるほどなるほど。ポストに直接入れてくれるわけね。 また必要な本があって購入する。読むのに支障はないし、マーケットプレイスで最安になっている中古で十分。 ポチ 2・3日すると突如としてポストに本が出現する。シュレーディンガーの猫さんばりに都合の良いシステムです。ありがとう、このシステムを作った誰か。 早速防水の

辛いことも、たのしいことも、この部屋から。

一水四見~言い合うよりも聞き合おう

・ 初めてのアパート「おう、寛至おはよう」 「やっと起きたか」  煙草の煙の匂いで目が覚めた寛至に、ブレザーの学生服姿の永源と、詰襟の学生服姿の大熊の2人が同時に声をかけてきた。 「何だよお前ら、またサボり?」 「まぁまぁ堅ぇこと言うなよ。ほら、お前の分もあるから」  そういってコンビニの缶コーヒーとサンドウィッチを寛至に差し出す。 「他人の部屋で勝手に朝飯済まして優雅なもんだ」  ベッドから這い出した寛至は、サンドウィッチとコーヒーを貪り食う。 「寛至、お前

うどんと走った廊下 #はじめて借りたあの部屋

はじめて借りた部屋は要塞だった。 要塞っぽい、のではなく実際に要塞と呼ばれていた。 女子のみ入居可の集合マンションで、何棟か連なる建屋の周りには高い壁、入り口には立派な鉄製の門扉があって、たとえ肉親であっても男性は立ち入ることができない。 管理人のおじさんが常駐している事務室の前を通り抜けて、辿りつくのはとびきり小さなワンルームだった。6畳の中にキッチンまで詰め込まれているから、たぶん東横インのシングルよりも狭い。もちろん、堂々たるユニットバス。 洗濯機は共用で、絨

【エッセイ】下宿の思い出

田舎の高校を卒業して、上京。 江戸川区平井の下宿で独り暮らしを始めた。 大家である老夫婦が一階の半分に住み  一階のもう半分と二階に下宿人が住んでいた。 便所と流しは共同の四畳半で、家賃は月9,000円。 風が吹くと揺れるような古い木造のボロ下宿だった。 閉めた窓から風が入り  光は壁と柱の隙間から廊下に漏れた。 ゴルフボールで「パットの練習」とかすると  いつも同じ場所に戻ってきた。 家全体が歪んでいたのだ。 母親と娘が二部屋に分かれて住んでいたが  そのうち娘

この部屋に一人で、もう独りと住んでいる。

このnoteを読んでいる方の中にも、 部屋を借りたことがある方って、結構居るんじゃないかと思うんすよね。 そういう自分も今1人でフラフラ生活してるわけですけども、 部屋って実際借りてみるまで、 何があるかわからないギャンブル的要素がありますよね。 ボロ屋も住めば都ってこともあれば、 高層マンションで近所が最悪って可能性もあるわけで、 そんな部屋ギャンブルの中で、 ある部屋を引いた話です。 ---------------------------------------

ホーチミンで会った掃除係の男の子と、骨董品みたいなNOKIAの携帯

【あらすじ】単身ベトナムに入った私は、行先も特になく、日々繰り返される祭りのような熱に浮されながら、北上のタイミングを計っていた。 私はメインストリートにある安いドミトリーの2段ベッドを旅の拠点としていた。 ホーチミン市の中心部にほど近いそのゲストハウスは、綺麗で快適、とまでは言わないが、温水の出るまともなシャワー室が完備されていた。 部屋数も多いからか家族経営よりは多少立派な、辛うじて企業体を取った宿泊施設だった。 値段もそこそこ安く、朝食付きで2~300円と一帯の

上京して5年、はじめての家。

少し目線を上げると大きな公園が鎮座する、4階建てアパートの最上階。広々としたバルコニーが売りの一つである、30㎡もない1DK 。 一般的には2人暮らしするには少し狭いよう。だけど1Kに転がり込んでいた身からすれば広すぎるくらい。上京して5年、ようやく手に入れた、私が自由に生きれる「私のお城」。 ____________ 上京して初めての部屋は蒲田にあった。大学に通う路線の駅までにもう一つ蒲田の付く駅がある、不思議な街。(一駅区間は車で走って30分、な”田舎の中の都会”に

部屋を彩ると、心も豊かになった。生産性の声に負けないために

ぼくが初めて借りたのは、留学していたときの学生寮。はじめての一人暮らし、1年という期限付きの仮住まいでした。 その部屋はすごく殺風景で、暮らしているうちに少しずつぼくの心も色を失ってしまいました。 でも、好きなもので部屋を彩るようにしたら、ぼくの心も段々と明るく、豊かになっていったんです。 実用性や生産性ばかりじゃなくて、彩りがあることや美しいことが、人生においてとても大切なんだ、と実感した話。 白い壁とIKEAの商品に囲まれた部屋飛行機の乗り換え込みで、日本から12

サンパウロに移住して初めて暮らしたあのアパートで

私には一人暮らしをした経験がない。学生時代も、勤めていた時代も実家から東京まで通った。家族と一緒に住んでいるとふと「一人暮らしだったらどんなに自由な事か!」と思わなくもなかったが、東京に出るにも1時間ほどだったし(駅までは少々不便ではあったが、電車に乗って川を越えたらすぐそこは東京都だった)、何となくダラダラと実家住まいを続けてしまった。でもそんな私にも転機が訪れた。それは結婚だった。 嫁入りでいきなり地球の裏側の国に住む事になった。日本の本社(私)とサンパウロにある現地法

一人暮らしと毒になる家族について

今回のnoteはいつも読んでくださるみなさんへの感謝の手紙です。 オンラインサロンも、音楽も、仕事も、今日までの全ての出来事と、出会った全ての人に感謝するnoteです。 是非読んでください。 今年の7月ごろ。僕は年内での一人暮らしという目標を掲げた。 きっかけはオンラインサロンのオフ会。 みんなと話す中で、自分が一人暮らしをすることの必要性を強く感じた。 僕にとってはとても大きな目標だった。 そしてそれが叶った。 新年から一人暮らしをする物件を決めてきた。

ロフト×毛布=初恋

思えば合格発表前に住む部屋を決めたのが誤算の始まりだった。 早稲田大学の受験が手応えバッチリだったので、入学試験が終わった翌日には早稲田大学にアクセスのいい場所がどこかリサーチし、場所の目星をつけ、部屋を探して、すぐ決めた。 初めての一人暮らしは東京都北区十条でスタートした。十条を選んだのは、十条駅(JR埼京線)、東十条駅(JR京浜東北線)両方使え、大学がある高田馬場駅、都電・早稲田駅に行き易いからだ。 しかし、何故か僕は明治大学に4年+1年間、通うことになる。 即決した

小田急線、5畳、4万円。

「東京の大学に行く。」 父にそう告げたのは、推薦入試を受けることが決まった後のことでした。 「そうか。」と言って、そのあとに続く言葉はなく。会話終了。 わたしは“1人娘が家を出るのにその程度のリアクションなのか”と 予想通りの反応に予想通り少しだけがっかりしたことを覚えています。 卒業式を終えてすぐ、家の息苦しさから逃げるように東京に向かいました。 初めて1人暮らしをした部屋は 「東京の大学」に通うはずが、諸事情により神奈川県になり。 それでもそこそこ都会(だと思ってる

すっぽんぽん

社会人1年目の冬、左手首を骨折した。しかも2本も。 お正月休みの最終日だった。 思い出を作ろうと必死だった私は、友人とスケートリンクに行った。運動神経が悪い自覚があるにも関わらず、浮かれて調子に乗りまくっていた。 スイスイと滑っていたのに、次の瞬間には、転んでいた。どこがどう痛いのかもよくわからないまま、その場で動けなくなった。 救護室に担ぎ込まれた私は、看護師さんから「転び方を練習しないのがいけないよ!」と怒られ、「こんなに痛いのに、ひどいよ」と泣きべそをかいた。

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【マンガ】坂の上にも一年 #坂の上で悶々とした日々を過ごした末に訪れた変化。

ワンルーム鉄道旅行

あなたが優柔不断だとする。はじめて借りる部屋、何をもって決めろというのか。広さ?日当たり?アクセス?否、これらは「決め手」ではない。条件である。ホームページの絞り込み条件には到底出てもこないような決め手、どうしたものか。 2016年、もうすぐ大学を卒業し、大学院へ進学しようとする頃合いの、女の子と呼ぶべきか女性と呼ぶべきかの狭間に立った女子の憂鬱であった。 大学生の4年間、大学の近くに下宿を構える同級生たちの青春がひたすらに羨ましかった。彼らを横目に実家と大学を往復4時間

部屋はくらしのパッケージ #はじめて借りたあの部屋

部屋はくらしのパッケージだから、部屋だけじゃ幸せにはなれない。そんな当たり前のことに気づかないくらい、19歳の自分はアホだった。 東京都の中心地を皇居と東京駅だとするならば、僕の実家はかなり中心にあると言っていい場所にある。 文京区小石川、地名で言ってもわからないだろうけど、東京ドームが徒歩10分...と言えば、その都心っぷりはイメージしてもらえるだろうか? 都心といっても戦後は焼け野原からのスタートで、満州から戻った祖父が一旗揚げて呉服屋として商売を始めたのが文京区だ