ヤシの木があるアパートで過ごした、うっすら憂鬱で幸福な日々のこと

「……何ばかなことを言ってるの」

「恋人ができたから一緒に暮らす」と告げた私に、電話の向こうの母は、怒りを押し殺した声で言った。平日の昼間、程よくにぎわったマクドナルドでのことだ。

我が家の家風を思えば、付き合ったばかりの、親にも紹介していない相手との同棲を許してもらえるはずはない。だけど、許してもらえなくてもいいと思っていた。自分の希望を言うことに意味がある。

23歳の冬。あれはダメ、こっちにしなさい、と縛りつける母への、これは遅い反抗だ。


東京がいいんじゃない。地元が嫌なんだ

札幌出身の私は、19歳で進学のため上京した。単身赴任中の父が横浜に住んでいたため、私は父の家から学校に通った。

東京での暮らしは自由で気楽だった。気の合う友達もできたし、都会ならではのカルチャーに触れられる。

なにより、過去の私を知る人がいないのがいい。中学時代にいじめを経験した私は、地元にいるとどうしてもビクビクと人目を気にしてしまう。昔の知り合いがいない東京では、楽に呼吸ができた。

卒業後はそのまま東京で就職したものの、体調を崩して会社を辞めてしまい、母から実家に帰るよう言われた。フリーターでもいいから、東京にいたかった。けれど、当時の私にとって母の言葉は絶対で、しぶしぶ札幌に戻った。

生まれ育った街は、すこぶる居心地が悪かった。

知ってる人に会ったらどうしよう。コンビニでもTSUTAYAでも、店員の名札を確認してしまう。外を歩くときはいつも、帽子を目深にかぶって顔を隠した。

地元から離れたい、でも、先立つものがない。

そんな私が飛びついたのは、友人に教えてもらった住み込みの山小屋バイトだ。

ワンシーズン山で働いて、下山後はそのお金でどこかにアパートを借りよう!

その企みを、母にはもちろん言わない。言えば反対されるからだ。母には、「下山したらすぐ帰るね」と伝えていた。

計画通り、下山後は札幌に帰らなかった。計画と違ったのは、山小屋で恋人ができたこと。恋人とともに、私はマクドナルドから母に電話をかけ、東京に部屋を借りると宣言した。

しかしすったもんだの末、同棲はやめた。母の反対を押し切って同棲することに罪悪感があり、辛くなってしまったのだ。ずっと母の言うことをきいて生きてきたから、反対を押し切ることに慣れていない。

結局、同棲ではなく一人暮らしをすることにした。


憂鬱とヤシの木

不動産屋をまわり、調布駅から徒歩15分のアパートを契約した。

築40年の、小ぢんまりした1Kのアパート。家賃の安さだけで決めたその部屋は、芙蓉荘という名前だった。

コーポでもハイツでもなく、荘。ついに私も荘民か。売れないバンドマンみたいで悪くない。

引越しは1月7日。リサイクルショップで最低限の家電を買い、mixiの「不用品譲ります」掲示板でコタツとテレビをゲット、引越し後の派遣バイトも決めた。ものすごい勢いで準備を進める私に、恋人は内心驚いていたらしい。

しかし、はじめての一人暮らしにワクワクしていたのは引越しの直前まで。いざ引っ越してしまうと、荷解きも終わらないうちから憂鬱になった。引越し準備にエネルギーを使い果たして燃え尽きたのか、一気にテンションが下がる。

誰かの不用品だった古いテレビで相棒の再放送を見ながら、IKEAの照明を組み立てる。

冬に引越しなんてするもんじゃない。寒くて照明を組み立てる手がかじかむし、夕暮れは寂しい。

こんな寒くて貧乏ったらしい部屋に住むなんて、私は正気だろうか。

急に訪れた憂鬱の中、唯一気持ちを明るくしてくれたのは、すりガラスの窓を開けたら目の前に見えるヤシの木だった。

いや、ヤシではないのかもしれない。しかし、ささくれた木肌やシュッと伸びる細い葉は、絵に描いたようなヤシだ。そこは大家さんちの庭なのだけれど、和テイストの植木たちの中で、トロピカルなヤシ(仮)だけが浮いている。

私は陽気なものが好きだ。窓を開けたらヤシが見えるなんて、ばかっぽくて最高じゃないか。

窓を開けたときだけ少し、気持ちが軽くなった。


泣きそうな帰り道、iPodから流れてきた曲

はじめての一人暮らしに、私は自分の甘さを思い知った。自分で自分を養い、最低限の家事をすることが、こんなにも難しいなんて。

コールセンターのバイトを終えてビルを出ると、少し先でサンリオピューロランドの明りがピカピカしている。それだけでなぜか、泣きそうになった。

京王線で調布に戻り、駅前の西友で安くなっていたさんまを買い、暗い駐輪場で自分の自転車を探す。朝、自分で停めたはずなのに見つけられない。次第に、頭の中が今日受けたクレームの電話でいっぱいになる。

寒いし疲れたし、もうここに座り込んで泣いちゃいたい。何もかも投げ出したい。でも、自転車で帰ってさんま焼かなきゃ。

ようやく見つけた自転車を漕ぎ、芙蓉荘を目指す。

バイトつらい。貧乏つらい。

どう考えても自分で招いたことだ。たいした貯金もなしに実家を出た、当然の報い。

そもそも、報いというほどのものでもない。誰もが多かれ少なかれ、似たような思いをしながら生きている。まったくもって、私は不幸じゃない。

なのに、どうにも憂鬱でむしゃくしゃしていた。

過干渉な母、私を札幌に居辛くした奴ら、世の中。いろんなもののせいにして、自分を省みることもなく、ただただ心の中で恨みの感情を大きくしてしまう。

iPodから、Theピーズの『シニタイヤツハシネ-born to die』が流れる。

死にたい奴は死ね
死にたいときに死ね

恋人に言ったら「ますます憂鬱になるような歌、聴かないほうがいいんじゃない」と言われそうだけれど、それは違う。

この曲を聴くたび、私はいつも、安心していた。

大丈夫。私はまだ死にたくない。

そう思えることを確認できたとき、私は心底ほっとする。まだやれる、まだここで暮らせる。


地味な幸せを見つけるのが上手になった

調布での一人暮らしも、悪いことばかりじゃない。

お金がないから、自然と煙草をやめられた。飲み歩くことがなくなった代わりに、地味な幸せを見つけることが上手になった。

たとえば、休みの日に恋人と八百屋に行くこと。大きな図書館で本をたくさん借りること。日当たりのいい窓辺に寝転がって、借りてきた本を読むこと。同じ敷地に住む大家さんの息子夫婦の、小さな子どもが庭でしゃぼん玉をするのを眺めること。

ある日、恋人と井の頭公園を歩いていたら、大家さんの庭にあるのと同じヤシの木があった。幹に巻かれたプラスチックのプレートに、「シュロの木」と書かれている。

「ヤシじゃないんだ」

私が言うと、恋人も「ヤシだと思ってた」と言う。ふたりそろってばかだね、と笑った。

窓を開けると目の前にある、あの木がシュロの木だと知ってからも、私たちはそれを「ヤシ」と呼び続けた。

限界が来て実家に戻ることにしたのは、調布に住み始めて1年と少し経った頃だった。


エッセイ映えするエピソードはないけど

数年前、久しぶりに調布へ行った。恋人は、今は夫になっている。

芙蓉荘の前を通ったら、建物ごとなくなっていた。そういえば引っ越すとき、取り壊す予定があることを聞いていた気がする。だから安かったのだ。

当然ヤシもなくなっていた。芙蓉荘がなくなっていたことより断然寂しい。

芙蓉荘や調布駅のあたりは、「まぁ、こんな感じだったな」と思った。けれど、よく行った八百屋の前を通ったとき、強烈な懐かしさで胸がぎゅうっとなった。

なぜだろう。なぜ、八百屋なのか。なぜ、思い出すだけでこんなに切なくなるのか。歳をとったから、懐かしいものをエモいエモいと有り難がってるだけ?

夫が、「あの頃、サキちゃんの鬱がひどくて僕も辛かったけど、八百屋に行ったりしたのは楽しかったな」と言った。申し訳なくて、ますますぎゅうっとなった。


今回、はじめて借りた部屋の思い出を書くにあたって、当時のことをいろいろと思い出してみた。

調布で部屋を借りたのは2008年だから、もう11年前。私は記憶力に自信があるし、日記をつけているので、思い出すには困らない。

けれど、特別に印象的なエピソードは思い出せなかった。今は仕事でエッセイを書いているから、思い出の中から“エッセイ映え”するエピソードを抽出するのが癖になっているけれど、どう記憶を探っても、調布の日々にはエピソードがない。なんていうか、記憶がどれも地味だ。

だけど今思えば、自立への一歩を踏み出した、とても重要な時期だった(まぁ、挫折しちゃったけれど)。

うっすらとした憂鬱と、うっすらとした幸福が混ぜこぜになった、輪郭のぼやけた日々。

記憶は、そのままの温度で心の中にしまっておこうと思う。

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