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一階の部屋とチャルメラ

今から25年ほど前、私たち夫婦が、はじめて借りたのは3階建てのアパートの1階の部屋だった。

いわゆる2DK、Lがないやつだ。4.5畳と6畳に名ばかりのキッチンが付いている。4.5畳と6畳の部屋は、ほんとうに畳の部屋で、間に押し入れが挟まっていて、互いの部屋のふすまを開けると通り抜けできた。

この部屋には、正方形のものが多かった。ドアを開けると、まず、玄関だ。もともとは、長方形だが、そこに下駄箱を置くとちょうど正方形になった。

玄関を上がると、キッチン。キッチンというより、すべての部屋への通路と言った方が正確かもしれない。長方形の細長いキッチンだったので、私たちは、そこに正方形のテーブルを置くことにした。そして、流し台。両サイドに調理スペースはあるものの、シンクの形が正方形だった。

次にトイレ、部屋自体は、長方形だが便器のスペースを除くと、正方形だった。私と妻は、古い人だから大丈夫だったが、若い人は、ドアを開けて用を足すのかなと思ったほど、便座に座った時に、前方に圧迫感があった。

そして、お風呂。お風呂と洗面台とトイレは、この順に横一列に並んでいた。なので、洗面台が更衣室を兼ねることになっていて、キッチンとの間はカーテンで仕切っていた。お風呂の部屋は長方形だが、湯船は正方形だった。ちょうど普通のお風呂の半分の形だ。ガス代は節約できたのだろうけれど、なにせ足が伸ばせなかった。私は、足を伸ばして湯に浸かりたかったから、よく近所の銭湯やサウナに行っていた。

4畳半の部屋も正方形だった。この部屋には、南向きでベランダに出られる大きなアルミサッシュの窓が付いていた。自慢じゃないけど、この部屋の日当たりはとても良かった。そうだ、この部屋の窓も正方形だっだ。

こじんまりとした部屋だったけど、妻は便利だと言ってくれた。キッチンからすべての部屋が見渡せるし、数歩で歩ける。エアコンは、4.5畳と6畳の間のふすまを開けると1台で十分涼しくなった。狭いけれど、とても機能的な部屋だった。

一階も好きだった。引っ越しの時、家具の運び入れに手間が掛からなかったし、重い買い物をして3階まで持って上がる必要もなかった。用事で、3階の部屋に行くこともあったけど、毎日、この階段を上るのかと思っただけでうんざり思えた。それに、一階のベランダや窓の下って、自転車を立てかけたり、朝顔の鉢を置いたり、ほんとうはダメなんだけど、少しだけなら一階の人が使っても許されていたような気がする。

でも、一階に住んでいて一番よかったなと感じたのは、すぐに外に出られることだった。地震とか火事とかの時のことではなくって、私たち夫婦の楽しみのためには一階がよかったんだ。

ぴらる~ら、ぴらる~ら~ら~。

夜中に、チャルメラの音が聞こえる。

当時、軽自動車に屋台を載せたラーメンの移動販売が、私たちのアパートの近くにも来ていた。夜中に、チャルメラの音が聞こえると、私たち夫婦は、何をしていてもいったん止めて、食器棚からラーメン鉢を取り出して、急いで外に駆け出して行っていた。

ぴらる~ら、ぴらる~ら~ら~。ぴらる~ら、ぴらる~ら~ら~。

チャルメラの音が近づいてくる。この時のわくわく感がたまらない。

軽自動車のラーメン屋さんが、アパートの前に止まり、荷台の上の屋台を開けると、パーっと辺りが明るくなる。

屋台のおっちゃんが、私たちが持ってきた鉢にラーメン作ってくれて、最後にラップをかけて、

「まいど、お待ち。」

と、あつあつのラーメンを渡してくれる。私たちは、汁をこぼさないように、大事に大事に受け取って、ゆっくりとバランスをとりながらアパートの部屋に戻り、あの正方形のテーブルに、そーっとラーメンを置く。食器棚から箸を取り出して、ラップをはがし、ズルズルズル。二人は、向かい合って、ラーメンをすすったものだった。

やっぱり、一階はいいでしょ。

そうこうしているうちに、明日、引っ越すという日になった。食器を新聞紙に包んだり、段ボール箱にいろんなものを詰め込んだりして、夜中まで、明日の準備をしていると、

ぴらる~ら、ぴらる~ら~ら~。ぴらる~ら、ぴらる~ら~ら~。

私たちは、段ボール箱から、ラーメン鉢を急いで取り出して、屋台に駆け寄った。

「おっちゃん、明日引っ越すことになったんだ。今まで、おいしいラーメンありがとう。」

「どこに引っ越すの。」

「〇〇〇台だよ。」

「そうか、あそこは行かないな。まあ、おめでとう。こちっこそありがとうな。餞別にもならないけど、チャーシューもう一枚付けとくわ。」

と、チャーシューをおまけしてくれた。部屋に帰って、段ボール箱をテーブル代わりにして食べたラーメン、おまけのチャーシューが、ほんと美味しかった。

引っ越してから一度だけ、夜中にチャルメラの音を聞いたことがあった。かすかに聞こえたチャルメラだけど、あのおっちゃんのチャルメラだったのかな。

今は、もう、どこに行ってもチャルメラの音は聞けなくなってしまったけれど、もし、こんな寒い夜にチャルメラの音が聞こえたら、今でもラーメン鉢持って駆け出していくよ。チャルメラ聞こえないかな~。

(おわり)

おまけ、チャルメラが聴けます。

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