彼と暮らした1080日

5010+280=5290

土曜日の午後2時。駅前通りに面したカフェチェーン店、3階の窓際にある小さなテーブル席で計算をしていた。

数十分前に買ったばかりのボールペンが、光沢感のあるレシートの裏でつるつると踊る。

5290×8=47,610

スマホ画面に並ぶ数字を慎重にタップし、レシートに書かれた数式の答えをなぞる。

「同棲のほうが安い、かも」

目の前でスマホを弄っていた彼は、不思議そうにこちらを見つめていた。

「ここで一人暮らしするより、あっちで同棲しながら大学まで通うほうが安いみたい」

大学3年生の冬。必要な単位のほとんどを取り終えた私に残されたのは、週に一回のゼミと卒論だけだった。

時間に余裕が持てると分かったとき、真っ先に“2つの選択肢”が頭に浮かんだ。

このまま大学近くのアパートで一人暮らしを続けるか、大学から200km以上離れた町で彼と暮らしながら通学をするか。

移動に掛かる労力や時間、欠席や遅刻による留年のリスク。どちらを選ぶべきか、答えは最初から明白だった。

だけど、私はどうしても、後者を選ぶであろう自分を正当化させるための、確かな“材料”を必要としていた。

彼が大学を卒業し、遠距離が始まって3年。二人の思い出が染み付いたこの町で暮らす切なさは、もう、十分すぎるほど味わった。

だから。

「家賃は全額持つから。一緒に住もう」

左利きの私がレシートの裏に書いた数式は、所々インクが擦られて滲んでいる。

そのとき初めて、自分が本当に欲しかったのは、不確かな数式なんかではなく、少し強引な、彼のその一言だったと気がついた。


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今住んでいるアパートは、週末に不動産屋へ駆け込んだ彼が見つけてくれた物件だった。

「ここ、良い感じ」

という短いメッセージのあとに、何枚かの写真が連続で送られてくる。

2口のコンロがついたキッチン、シックな壁紙が印象的なリビングと白っぽい木製のフローリング、深緑色の畳が基調の和室。

前の住人が退居したあとにリノベーションされたと言うその部屋は、築年数の古さを一切感じさせないほど洗練されていた。

スマホに映る写真を一枚ずつ眺め、その先にある、新たな暮らしを想像する。

まだ買ってもいない家具の配置のシミュレーションを始めたとき、自分がこの部屋に強く惹かれていることを自覚した。

画像3

契約を決めたのは、内見から2日後。私が初めてその部屋を訪れたのはさらに5日後、不動産屋で彼と契約書を書いた直後だった。

「自由に見てもらって構いませんので」

営業時間までに戻るという条件付きで、店長らしき人から鍵を受け取り、正式な入居日の1週間ほど前に部屋を訪れた。

彼の運転でアパートへ向かう道中、助手席からは見慣れない風景が穏やかに流れ行く。想像以上に長い新住所の読み方を彼に確認しながら、この緊張感も心地よさへと変わる日が来るのだろうかと、ぼんやり思った。


大きな道路から少し逸れた住宅街。駅から徒歩5分の好立地に私たちの新居はあった。

外観は思ったよりも古かったが、少しくすんだ白色の塗装は、流行りのオフホワイトだと思えばそこまで気にならなかった。

小さな玄関で靴を脱ぎ、彼の後に続いて部屋へと上がる。瞬間、タイツ越しに伝わる、冬場のフローリングの凍てつくような冷たさ。

思わず猫背になりながら奥へ進むと、空っぽのリビングに差し込む太陽光が、フローリングの一部分を照らしている。そこでわずかに暖を取りながら、ほの暗い和室へと向かった。

足を踏み入れた途端、私は吸い込まれるように床へ倒れ込んだ。深緑色の畳からは、心なしか新しい生活の匂いがする。

仰向けになる。コートに皺が寄る。吐いた息の白さが空気に溶け込む。

「よろしくね」

目の前に立つ彼に、右手を差し出す。

二人の新しい生活が、始まろうとしていた。


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待ちに待った彼との生活は、華やかとは言えずとも、夢のような心地よさがあった。

お揃いの食器、色違いの枕カバー、同じ柔軟剤の匂いがする洗濯物。彼との暮らしには、私の焦がれていたものがたくさん詰まっていた。

引越し初日の夜、隣で大きな肩を上下させながら眠る彼の背中を見て、妙に安心したのを覚えている。もう帰りの電車の時間を気にする必要もない。明日も明後日も、手を伸ばせば届く距離に彼はいる。遠距離の期間が長かった分、好きなだけ彼と過ごせる贅沢さに、私は溺れた。

最初はどこか「おままごと」に似た二人の生活は、半年も経てば様になってきた。

洗濯物と料理は私。洗い物と掃除は彼。お味噌汁をよそうのは私、ご飯は彼。ベッドの左で寝るのは私、右は彼。

話し合いをしたわけでもなく、ごく自然な成り行きで生まれた「決まりごと」の数々は、私たちがちゃんと暮らしてきた証にも感じられた。

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もちろん、良い思い出ばかりじゃない。一緒に暮らすようになってから、大きな喧嘩もした。

「もう、いい」

リビングで口論になったあと、渦巻いた気持ちを一方的に吐き出して、電気も点けずにトイレへ駆け込んだことがある。

アパートの間取りは2DK。相手から距離を置いて、完全に一人きりになれる空間は、お風呂かトイレの2択のみ。暗闇の中、トイレの蓋の上に座り、トイレットペーパーで涙と鼻水を拭ったとき、虚しさで押しつぶされそうになった。

彼が家を出る音が聞こえたのは、10分後。痺れを切らした私は寝室に戻り、深く布団に潜り込んだ。

聞こえるのは、時計の秒針が刻む音だけ。

二人なら心地よく感じるこの部屋は、一人で過ごすには少し広く、孤独に陥りやすい。

たまらなくなって彼に電話をかけようとしたとき、寝室のドアがゆっくりと開いた。

リビングの電気を背に受けた彼の顔は、逆光でよく見えない。

分かるのは、アパートから少し離れたコンビニの袋を右手に持ってること。

その外側からは、私の好きなカップスイーツがわずかに透けて見えた。


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どちらかに用事がなければ、お風呂は二人で入ること。金曜日になれば、お気に入りの映画を観ながら夕飯を食べること。どれだけ仕事が忙しくても、夜は同じ時間に布団へ入ること。

同棲を始めてから2年半。何ら変わりない日々を送る中で、二人の関係性を大きく変えたのは、彼のほうだった。


「結婚しよう」


付き合って6年目の記念日の朝。仕事に出かけたはずの彼は、1時間後にバラの花束を抱えて帰宅し、リビングでプロポーズをしてくれた。

三つ星がつくほどの高級レストランや、百万ドルの夜景が一望できる場所に比べれば、確かに華やかさはなかったように思う。

ただ、彼と長い時間をかけて築き上げた「暮らし」と「思い出」が詰まったこの2DKのアパート以上に特別な場所は、存在しない。

「よろしく」

彼の右手が、目の前に差し出される。

二人の新しい人生が、始まろうとしていた。

画像3

洗濯物と料理は私、洗い物と掃除は彼。お味噌汁をよそうのは私、ご飯は彼。ベッドの左で寝るのは私、右は彼。

結婚をしてからも、2DKのアパートでの暮らしは以前とそう変わらない。

「あ、おはようさん。今日は冷えるなあ」

この地に引っ越してから、3年目の冬。向かいに暮らすおじいちゃんとは、会えばいつも会話を交わす仲になった。

「向こうの工事現場。新しいアパートだって」

おじいちゃんは、今日も町の情報に詳しい。

私と彼は顔を見合わせ、冗談交じりに「じゃあ、そっちに引っ越します」と話すと、おじいちゃんはニカッと笑って見せた。

12月の冷たい風が頰をなでる。遠くのほうで踏切の音が鳴る。彼と繋いだ手に力が入る。

私たちの暮らしが、今日も始まろうとしていた。

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