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すっぽんぽん

社会人1年目の冬、左手首を骨折した。しかも2本も。

お正月休みの最終日だった。
思い出を作ろうと必死だった私は、友人とスケートリンクに行った。運動神経が悪い自覚があるにも関わらず、浮かれて調子に乗りまくっていた。

スイスイと滑っていたのに、次の瞬間には、転んでいた。どこがどう痛いのかもよくわからないまま、その場で動けなくなった。

救護室に担ぎ込まれた私は、看護師さんから「転び方を練習しないのがいけないよ!」と怒られ、「こんなに痛いのに、ひどいよ」と泣きべそをかいた。

***

お正月休みの救急病院は、異様な混みようだった。
激痛に耐えながら2時間ほど待ち、もらえたのはロキソニンだけ。いわゆる「添え木」ってやつを腕にくくりつけ、白い布で吊るした姿は、「あぁ、漫画とかでよく見るやつだ」としか思えなかった。手首が、痛い。痛い。痛い。

お会計を待つ間、離れて暮らす母に、電話をした。

「あら、どうしたん〜?」

『いや、怒らんで聞いて欲しいんだけどさぁ。骨折してしまったわ』

母は「怒るわけないじゃない」と言い、何があったんだ、大丈夫なのか、と聞いてくれた。私が一部始終を話すと「アホやなぁ」と笑ってくれ、翌日、一人暮らしの私の家まで来てくれることになった。

***

手首の可動域というのは、想像以上に広いらしい。折れたのは手首だけなのに、手のひらから二の腕まで、がっちりとL字型にギプスをはめられてしまった。左手は、全く使い物にならない。手を洗うことすら、できないのだ。

悲しいかな、左腕以外は超元気。入社1年目のピヨピヨの新人が、新年早々出社してこないなんて、情けなくて申し訳なくて、やってられない。

ただ、出社するにも、スーツが着られないのだ。スーツの袖に、ギプスで固められた腕が通らない。セーターも、通らない。何も、着ていくものが、ない。そして手首は、痛い。痛い。痛い。

そんな私の状況を知って、母は、ポンチョ型の服を買ってきてくれた。腕を通さなくても着られる、暖かいもの。それから、雪も降る季節だったから、これ以上転ばないようにと、ペタンコのブーツも持ってきてくれた。

私は母に、あからさまに八つ当たりをした。

「こんなダサい服、着ていけるわけないじゃん」
「新人なんだから、スーツじゃなきゃ、ダメなんだってば」

手首の痛さと、自分の情けなさと、何もできない辛さと、手首の痛さと、職場にも母にも迷惑をかけているやりきれなさと、それから手首の痛さで、もう、辛かった。

***

さすがに、お風呂には入りたかった。身体も冷えている。

ギプスは濡れてはいけないから、左腕にゴミ袋をかぶせ、口の部分をガムテープでぐるぐる巻きにして、お風呂に入らなければならない。

6畳ワンルームの、脱衣所も独立洗面台もない、小さな部屋。

玄関からの冷気がそのまま通る狭い廊下で、私はすっぽんぽんになる。

すっぽんぽんの私の左腕に、ゴミ袋を重ねて、母がガムテープを巻いてくれた。
お風呂に一緒に入って、笑いながら、私の長い髪の毛を洗ってくれた。

あまりに情けない光景に可笑しくなって「こんな状況、あるかな〜」とクスクス笑う私に、母は静かに「あんた、辛いでしょう。泣いてもいいんだよ」と言った。

涙が溢れそうになった。弱った心も、情けなくてやりきれない気持ちも、全部、見抜かれていた。でも、私は泣かなかった。泣けなかった。

***

明日には、母は実家に戻る。
明日からは、一人でゴミ袋を腕にかぶせて、一人でガムテープを巻いて、一人で髪の毛を洗って、一人で身体を拭いて、一人でポンチョを着て、一人で出社しなきゃいけないんだ。

はじめての一人暮らしの小さな部屋で、心細さと、精一杯戦った。

母がいた一瞬のあたたかさも、これ以上は頼れないと思った気持ちも。ヒリヒリとしたもの全部が詰まった、小さな小さな部屋。

一人で入るお風呂にも慣れ、手首の痛みは日に日に和らぎ、リハビリの末、いつしか自由に動かせるようになった。辛い時間も、いつかは過ぎ去っていってくれるものだ、と知ったのも、この部屋だった。

今は、もう住んでいないけれど。
あの頃の最寄り駅を通過するたびに、私は胸が、ぎゅっと締め付けられるんだ。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。