はじまりの部屋
段ボール2箱とお下がりの電子レンジ。
18歳になったばかりの私が実家から持ち出したのはそれだけだった。割れ物はタオルと服にくるんで必要最低限のものだけ。ダンボールの一番上に、大事にしていたテディベアのステファニーを載せた。
私のはじめての一人暮らしの舞台は、6畳の中にベッドと机と洗面台と冷蔵庫を詰め込んだ学生宿舎の一室だ。学内外から「監獄」との呼び声の高いその環境は、それなりの難関を突破した新入生に対して厳しいものだった。生活スペースは実質3畳、キッチンもトイレも共用。お風呂は別棟。壁はベニヤ板かと思うほど隣室の会話が筒抜けだ。その分家賃は激安だった。
最初は何が必要かもわからず、とりあえず冷蔵庫と自転車を買った。カーテンがないと夜は明かりをつけられないことも知らなかった。ほとんどのものが足りていないと判ったがなすすべもなく日が暮れた。
貸し出された毛布はあまりにも薄く、3月の下旬は寒かった。目隠しのない4階の窓からは月が綺麗に見えた。家を出たのに全然さみしくなかった。わくわくもしなかった。実家から何のスキルも習得もせず転がり出てきた私は、困ったことを周囲の大人に頼ることすらもできなかった。
それからはじまった日常は必要最低限、文字通り最低だった。
共用キッチンにはゴキブリがいた。隣室の宴会が深夜まで続いてイライラした日も、トイレがゲロまみれになっていた日もある。コウモリが飛び込んできて一晩中居座ったこともある。思い出したくもない。
ー
♯はじめて借りたあの部屋。
本当は自分で契約して借りた、賃貸の物件の話を書いた方が良いのだろう。実際、1年半後にはこの宿舎を出て、大学近くのワンルームで楽しい賃貸ライフを送ることになる。部屋としての良い思い出ならそちらの方が多いはずだ。これから部屋を借りる人には、ちゃんと内見して自分が好きになれそうな部屋に住みなよと言いたい。以上。
けれど、私のスタートはこの部屋だった。
最悪の部屋だ。最低の環境だった。絶対ひとにオススメなんかしない。
それなのに「はじめて借りた部屋」で思い出すのは、あの狭い部屋のひどい環境の生活なのだ。
ー
私はひとりではなかった。
隣室に、共用部に、食堂に、行き交う道路に、同じように不安と孤独をぶら下げた誰かがいた。迷ったり困ったりしていると、どちらともなく話しかけて共におろおろする誰かがすぐそばにいた。
そうやって少しずつできた同じ境遇の人と一緒に、先輩や卒業生が言っていたという頼りない情報を頼りにモノを揃えていった。おしゃれとは程遠い不揃いの生活用品が増えた。食材を持ち寄って料理して食べた。何度も失敗した。
ある時はだれかの部屋に寄り集まってとりとめのない話をした。男子棟はもっと酷くて暗くて、梅雨の季節には緑とピンクのポワポワが出るとか、そういうどうでもいい話を山ほどした。深夜まで飲んだくれて盛り上がった日は隣室のいい迷惑だっただろう。
大浴場はピークの時間帯になると人でいっぱいで、芋洗いのようだった。だんだんいろんなことが気にならなくなって、なにもかも適当になった。お風呂に浸かっている間に話した人と些細な共通点が見つかることもあった。裸の付き合いというか裸でしか会ったことない謎の関係だった。
眠れぬ夜もあったけれど、ずっと同じような誰かの気配がしていた。
ー
あれから10年以上。持ち込んだ段ボールの中身はすっかりなくなってしまった。電子レンジは2年前にやっと壊れた。テディベアのステファニーだけが今もクローゼットに座っている。
あの時一緒に過ごした数人とは住むところもバラバラだけど、今でも時々会っていて、それは思い出話のためだけじゃない。助けられてばかりだけど、それぞれのペースで関係が続いている。それがいつも嬉しい。
当時の私は信じられないかもしれないけれど、後になって、あの環境を美しいとかあたたかいとかいう気持ちで思い出す日がくる。何もかも足りず凍えた、虫と騒音とゲロのある日々を。
今ならわかる。
きっとあの頃のドタバタもイライラもおそるおそるも、全部私に必要なものだった。何もかも持たなかった私が、いちばん欲しかったはずのものを与えてくれた。私にそういう出会いをもたらしてくれたのは、他でもないあの部屋だった。あの場所だった。
誇るほどではない。同じ経験を勧める気もない。けれど確かに言える。
これが私のはじまりなのだ。
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