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正統ノンデュアリティと似非ノンデュアリティとを見分ける
「ネオ・アドヴァイタ」というスピリチュアリズムみなさんは、「ネオ・アドヴァイタ」という言葉をご存じでしょうか?
私も最近、その言葉を知りました。
(※興味がある方は、『ネオ・アドヴァイタ』についてもっと詳しく調べていただくことを奨めします。)
アドヴァイタはシャンカラが起源なわけですが、「ネオ・アドヴァイタ」とはどういう意味か?というなら、シャンカラの正統アドヴァイタからみるならば似非アドヴ
自我の次元と聖霊の次元は全く異なる次元である
赦しの視点とは、5次元意識の視点であるコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)でいう「赦しの視点」とは、いったいどういうものなのでしょう?
それは、すべてを一つの自我として包含して(俯瞰して)見渡している視点だと言うことができます。
そこから見るならば、そのすべてが自我がでっち上げた劇場であるとして見ることができます。
いわゆる、それがコースでいう聖霊と共に見ている視点であり、そして、そこ
世界の中心?世界の果て?
あなたの居る場所世界の中心はあるのか?
世界の果てはあるのか?
というなら、
あなたの居る場所が世界の中心であり、
あなたの居る場所が世界の果てだといえましょう。
もっと正確に言うならば、
「ここ」が世界の中心であり、
「ここ」が世界の果てです。
また、
「ここ」が時間の旅のはじまりであり、
「ここ」が時間の旅の終わりです。
「ここ」とは、「いまここ」のことであり、
この世界を見て
次元上昇(アセンション)とは
「self」から「Self」への移行私たちは、そもそもが大いなる存在である自己(Self)であったわけです。
その大いなる自己(Self)が自我の分離の想念を信じてしまうとどうなるのか?
というと、
個別性、特別性、個人性というものが生じると共に、別々になった個別の自己(self)と同一化してしまうことになります。
それだけではありません。
忘却のベールによって、もはや本当の自分が何者な
大丈夫、と、大丈夫じゃない
嘘(虚偽)であるものを嘘(虚偽)だとしていくこと「だいじょうぶ」と「だいじょうぶじゃない」、
というとき、
ノンデュアリティのスピーカーさんのほとんどが、「だいじょうぶ」のほうへとフォーカスするよう促しているように思えます。
そして、コースのティーチャーみたいなことをやっている人やコース学習者も、「恐るべきことは何もない、私は大丈夫、私は安全だ」というふうにアファメーションしていくことがコー
バイロンケイティと癌患者パムとの対話
一元論のスピリチュアリティとは、純粋な非二元のスピリチュアリティのことコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)とはどのようなスピリチュアリティなのか?
というなら、
純粋な非二元のスピリチュアリティであると言うことができます。
もしくは、一元論のスピリチュアリティと言い換えることもできます。
では、そのスピリチュアリティを学んでいくことによって私たちはどうなっていくのか?
というなら
ワークブックレッスン325 ~すべての思考を赦すとき、愛するとき
すべては想念であるコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが進んでいくにしたがって、この世界をありのままに受け入れるようになっていくと言うことができます。
それは、自分の見ている世界と闘わなくなっていくことを意味します。
というのも、外側に世界は無い、ということが理解されていくからです。
外側に知覚しているものすべてが内側にあるものの投影にしかすぎないと分かってくるなら、自分は何を外
真実を知らない(忘れている)からこそ、私たちは深刻になるのだ
もう一つの選択肢があることを思い出すなら私たちがこの世界を眺めるとき、自分たちが見ている知覚とはまったくちがう別の知覚の仕方があるのだということを、私たちは忘れたままになっていると言うことができます。
でも、私たちが「別の見方がある」ということ、つまり、もう一つの選択肢があるということを思い出すなら、私たちは深刻になる必要はないと分かります。
なぜなら、そうなるなら、自分には選択の自由があるこ
私たちはひとつ=私はいない
玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥がしていくようにコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、何をしているのか?
というなら、それは、自分とは何者か?自分とは誰なのか?という真我の探究をしていると言うことができるでしょう。
それは、まるで自己概念の仮面が剥がれ落ちていくようなプロセスだといえます。
まさに、そのプロセスは玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥がしていくようなものに喩えることができ