A Course in Miracles もりG"s note

『A Course in Miracles』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学び…

A Course in Miracles もりG"s note

『A Course in Miracles』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して理解したもの、体験したもの、体現したものについてあれこれ綴っています。アウェイクニングサポートサイト → https://acim-study.amebaownd.com/

マガジン

  • A Course in Miracles について

    『A Course in Miracles』(奇跡のコース/奇跡講座)とはどういうものなのか?についてもりGの経験的な視点からみたnoteコラム

  • A Course in Miracles 学習&実践レポート

    『A Course in Miracles』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、もりGが体験的に理解したこと、実際に修得していっているもの、その成果として体現しているものなどあれこれについてのnoteコラム

  • ケネス・ワプニック博士の語録

    『A Course in Miracles』をもっとも理解していたその第一人者であるケネス・ワプニック博士の言葉を引用したnoteコラム

  • A Course in Miracles 学び方の秘訣

    A Course in Miracles を学んでいく上での大切なこと、注意すべきこと、知っておいたほうがいいこと、などについてのコラム

  • Beyond A Course in Miracles

    「神の教師を生きる」「非二元を体現する」をテーマに、純粋な非二元の霊性の道を歩んでいるコース学習者やノンデュアリストに向けたコラム記事を集めたものです。

最近の記事

コースの学びの階梯を上っていくために私たちが成さなければならないこと

コースを学んでいるのは個人の自分ではない私たちは、自分たちを人間だと信じています。 そして、個別の存在としての「個人の自分」を自分だと信じています。 コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びのプロセスでいえば、最初は、その個人の自分がコースを学ぶというところからはじまります。 そして、コース形而上学を理解するようになり、その学びが深まっていくにつれて、 コースを学んでいる自分は「個人の自分」ではない、 ということを認識するようになっていきます。 これまで

    • コースの学びが深まっていくとき、この世界をどのように見ていくようになるのか?

      この世界を「教室」とする コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、やがて私たちはこの世界を「教室」として捉えていくようになります。 「教室」とは、つまり、この世界を目覚めていくためのレッスンの場として捉えるようになるということです。 この世界は自我が作り出した幻想世界なわけですが、その目的を変えることによって、この世界の捉え方がまったく変わるわけです。 その実践は、この世界をただやみくもに幻想として否定していくようなものとはまったくちがう

      • もりGさんとコースを学ぶということについて

        先日のACIMアカデミークラスの紹介記事にちなんで、その続きです。 学びの深化は、今も尚、進行中です私(もりG)は、2024年現在、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践で自ら体験的に理解したことや体現したことをアカデミークラスや個人セッションを通してシェアする活動をさせていただいております。 ここで申し上げておきたいのは、この私自身もコースを学んでいる生徒(学習者)であるということです。 ですから、アカデミークラスや個人セッションで私(もりG)と共に学

        • 「ACIMノンデュアリティアカデミー」についてのご紹介

          アカデミークラスはあなたの「自学自習」をサポートするためのものです 2024年現在、私(もりG)が活動している中の一つとして、「ACIMノンデュアリティアカデミー」さんが主催するアカデミークラスでナビゲーターを務めていることが挙げられます。 そのアカデミークラスでは、『ア・コース・イン・ミラクルズ』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学ぶという名目で、テキストクラス、形而上学クラス、ワークブック・ゼミ、その他のクラス、セミナー、シェア会などさまざまなクラスを毎月定期的に

        コースの学びの階梯を上っていくために私たちが成さなければならないこと

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        • A Course in Miracles について
          92本
        • A Course in Miracles 学習&実践レポート
          111本
        • ケネス・ワプニック博士の語録
          76本
        • A Course in Miracles 学び方の秘訣
          78本
        • Beyond A Course in Miracles
          22本
        • Advanced A Course In Miracles
          76本
          ¥6,000

        記事

          すべてを愛せるようになるまで

          この学びが終わるときこの学びが終わるときとは、それはこの身体(肉体)を横たえるときだといえましょう。 もうこの世界で学ぶものがなくなるとき、それがこの人生が終わるときなのだと思います。 その時まで、この学びは深化し続けるのだということです。 言い換えるなら、この世界の夢を見続けているということは、まだ学ぶべきものがあるということです。 すべての学びが終わっているなら、もはやこの世界にはいないということです。 では、この世界で何を学んでいくのか? というなら、 す

          すべてを愛せるようになるまで

          二元性を超えた世界を知覚し始めて分かってくるもの

          コースの内容がさまざまに解釈されていることについて私自身、その学びは今も尚、深化し続けていると言うことができます。 ただ、この私にとって、その学びがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)というスピリチュアリティの枠組みに限定することができなくなっているというのが正直なところです。 それというのも、コースに対する認識が少しばかり変わってきていて、『ア・コース・イン・ミラクルズ』というもの自体が一つの霊性の道にしかすぎなく、その内容はたんに一元論のスピリチュアリティを比喩

          二元性を超えた世界を知覚し始めて分かってくるもの

          学びの階梯の一番下に留まったままにならないように!

          日々の実践に応用されていなければ何の意味もないコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいけばいくほど、あるいは、コース学習歴が長ければ長いほど、コースが教えていることの知識が豊富なものになっていくのは当然のことだといえます。 ただし、コース学習者の私たちが覚えておかなければならないのは、その知識だけが増えていったとしても、それが日々の実践に応用されていなければ何の意味もないということです。 もっといえば、コースは実践されていかないかぎり、本当の意味でコースが学ば

          学びの階梯の一番下に留まったままにならないように!

          見ないかぎり、直視しないかぎり、取り消しはなされない

          私たちがしなければならいのは「見る」ことコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践で私たちがしていかなければならないのは、「見る」ことをしていくということです。 何を見るのか?というなら、内側にあるものを見ていくということです。 逆に、「見る」ことをしないとき、それを「否認、抑圧、隠蔽」と呼び、私たちは見ないことによって実在しない幻想を保持し続けていると言うことができます。 コースでは「聖霊と共に見る」という言い方をしますが、何を見るのかというと、それは自我(幻

          見ないかぎり、直視しないかぎり、取り消しはなされない

          自分の内側の葛藤と抵抗がわき起こってくるということは学びがはじまったということ

          コースを学んでいく上で知っておくべきこと私たちは、幸せになりたい、幸せでありたい、と思って生きています。 それはこの世界にいる誰もが抱いている共通した想いであるといえます。 もちろん、コース学習者たちも当然ながらそうなりたい、そうありたいと思ってコースを学んでいるわけです。 ところが、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることを理解するようになると、この世界には自分を幸せにしてくれるものなどない、希望も光もない、ということが明らかになっていきます。 コ

          自分の内側の葛藤と抵抗がわき起こってくるということは学びがはじまったということ

          それらは太古に忘れてしまった本来の思考体系であり、本来の知覚の仕方だから

          今自分がどのような状態なのか!その真実を自覚/認識するときコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践をしていくためには、まず最初に、その土台となる形而上学をしっかりと理解していくことが必須だといえます。 というのも、コースの実践では、聖霊と共に幻想(自我)を直視することをしていくわけです。 そしてそのためには、 聖霊はどのような考え方(思考体系)で、 どのような視点から、 どのように見て(知覚して)いるのか? について、私たちはしっかり形而上学的に理解しておく

          それらは太古に忘れてしまった本来の思考体系であり、本来の知覚の仕方だから

          真実を探し出す必要はないが、虚偽を探し出すことは確実に必要である

          学びが浅い段階においてコース学習者がしてしまいがちなこと「この世界は幻想だ、夢だ、実在しない、何も起きていない」ということがいくら分かっていたとしても、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を日々実践していくと、それだけでは役にも立たないし、何の助けにもならないということが分かってきます。 つまりは、「この世界は幻想だ、夢だ、実在しない、何も起きていない」ということだけでは、目覚めていくための実践としてはまったく不十分だということが分かってくるわけです。 それに似た実

          真実を探し出す必要はないが、虚偽を探し出すことは確実に必要である

          私たちが見ている世界について、私たちは何も分かっていない

          この世界は夢は夢でも悪夢なのだということコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びを通して、私たちは何を学んでいくのでしょう? もちろん、「この世界は幻想である」「この世界は夢である」という概念がその中心的な教えであるわけです。 ただ、その教えは、非二元(ノンデュアリティ)を少しでもかじったことのある人であるならば誰だって知っていることだといえましょう。 「この世界は幻想(夢)である」ということを教えている非二元の霊性の道はコース以外にもたくさんあるわけです。

          私たちが見ている世界について、私たちは何も分かっていない

          天国であるワンネスを思い出していくために私たちが必ず修得しなければならないもの

          全一なる知覚(真の知覚)とは赦しの視点から見た知覚とはどういうものか? というなら、 それは、知覚しているものすべてを包含して、しかもそれらすべてを等しく同じ幻想として見ている知覚のことを言います。 それを、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、「ヴィジョン」「真の知覚」と呼んだりしています。 そして、すべてを包含しているという意味で、「全一なる知覚」と呼んだりしています。 その赦しの視点に戻るならば、外側には誰もいない、何も無いことが分かるだけでなく、

          天国であるワンネスを思い出していくために私たちが必ず修得しなければならないもの

          あるがままを愛しなさい

          コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、この世界に居る私たちのことを「子供」「幼子」という言葉で表現しています。 たしかにコースの観点から見るならば、私たちはこの今も夢を見続けている赤ん坊(神の子)だと言うことができましょう。 それは、この世界にいる誰もが皆そうなのだということです。 自分が誰で?どこにいるのか?何をしているのか? 私たちはそういうことをまったく忘れて眠りこけているのです。 それだけではありません。 夢から目覚めることをひどく怖がっています

          あるがままを愛しなさい

          あなたの為すべきことは、愛を探し求めることではない

          愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいく上で、まず私たちが認識しておかねばならないのは、私たちはすでに神の愛を拒絶している、ということです。 それゆえに、私たちはこの世界にいるのであり、それゆえに、個人の自分として存在しているのだということです。 つまり、個人の自分が存在していることそれ自体が、=神の愛を拒絶している、ということなわけです。 そのことを理解していないかぎり、いくら神のもとに帰ろうとしても、神の平安

          あなたの為すべきことは、愛を探し求めることではない

          私たちはワンネスであるならば

          私とあなたは別々ではない、自分と他者は別々ではない真理からいえば、私たちは一つ(ワンネス)です。 それは、「私とあなたは別々ではない」「自分と他者は別々ではない」ことを意味します。 それは、真に目覚めた者、悟りを生きている者の知覚の仕方だといえます。 ならば、ある誰かは目覚めていて、誰かは目覚めてはいないということがあり得るでしょうか。 もしそのような知覚をしているとしたならば、それは「私たちは一つ(ワンネス)です」という真理を否定していることになります。 そう、真

          私たちはワンネスであるならば