A Course in Miracles もりG"s note

『A Course in Miracles』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学び…

A Course in Miracles もりG"s note

『A Course in Miracles』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して理解したもの、体験したもの、体現したものについてあれこれ綴っています。もりG公式サイト → https://miraclesession.amebaownd.com/

マガジン

  • Advanced A Course In Miracles

    コース(奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、非二元、真理、悟り、解脱を目指しているコース学習者のためのマガジン。

  • Beyond A Course in Miracles

    「神の教師を生きる」「非二元を体現する」をテーマに、純粋な非二元の霊性の道を歩んでいるコース学習者やノンデュアリストに向けたコラム記事を集めたものです。

  • A Course in Miracles について

    『A Course in Miracles』(奇跡のコース/奇跡講座)とはどういうものなのか?についてもりGの経験的な視点からみたnoteコラム

  • A Course in Miracles 学習&実践レポート

    『A Course in Miracles』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、もりGが体験的に理解したこと、実際に修得していっているもの、その成果として体現しているものなどあれこれについてのnoteコラム

  • A Course in Miracles 形而上学

    『A Course in Miracles』((奇跡のコース/奇跡講座)から抜粋した引用文にちなんたnoteコラム

最近の記事

「悟り」「覚醒」「目覚め」を探究する前に、知っておかなければならないこと

それは代償を伴うということ「悟り」「覚醒」「目覚め」を探究する前に、私たちは知っておかなければならないことがあります。 私たちは「悟り」「覚醒」「目覚め」というものを素晴らしいものだと思っているかもしれませんが、そうではないということです。 たしかに、素晴らしいものであるにちがいはありませんが、もう一つの側面があることを知っておく必要があるといえましょう。 私たちが知っておかなかなければならないのは、それには代償を伴うのだということです。 その代償とは何か? という

    • 正統ノンデュアリティと似非ノンデュアリティとを見分ける

      「ネオ・アドヴァイタ」というスピリチュアリズムみなさんは、「ネオ・アドヴァイタ」という言葉をご存じでしょうか? 私も最近、その言葉を知りました。 (※興味がある方は、『ネオ・アドヴァイタ』についてもっと詳しく調べていただくことを奨めします。) アドヴァイタはシャンカラが起源なわけですが、「ネオ・アドヴァイタ」とはどういう意味か?というなら、シャンカラの正統アドヴァイタからみるならば似非アドヴァイタという意味でそう呼ばれているということです。 要は、似非のノンデュアリテ

      • 私たちは誰で?何をしているのか?

        真実を理解/認識しないかぎり、けっしてその闘いが終わることはないこの世界で私たちは何を経験しているのか? というなら、 コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の観点からいえば、神のひとり子がある一つのストーリーを妄想し続けているだけなのだと言うことができます。 そのストーリーとは、神に闘いを挑み続ける、というストーリーです。 その「神との闘い」のストーリーをこの世界にさまざまな形態に投影して、私たちそれぞれがさまざまにそのストーリーを経験していると言うことができま

        • 自我の次元と聖霊の次元は全く異なる次元である

          赦しの視点とは、5次元意識の視点であるコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)でいう「赦しの視点」とは、いったいどういうものなのでしょう? それは、すべてを一つの自我として包含して(俯瞰して)見渡している視点だと言うことができます。 そこから見るならば、そのすべてが自我がでっち上げた劇場であるとして見ることができます。 いわゆる、それがコースでいう聖霊と共に見ている視点であり、そして、そこから見ている知覚のことを「赦しのまなざし」「愛のまなざし」と呼んでいるということ

        「悟り」「覚醒」「目覚め」を探究する前に、知っておかなければならないこと

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        • Advanced A Course In Miracles
          93本
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          37本
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          109本
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          126本
        • A Course in Miracles 取り組み方と秘訣
          81本

        記事

          心(意識)が変われば世界が変わる!?

          世界が変わるのではなく、知覚が訂正されるということときに、スピリチュアリストさんたちが、 意識が変われば世界が変わる、 心が変われば出来事が変わる、 ということを提唱しておられますが、それって本当なのでしょうか? 真理からみるならば、人生のシナリオは決まっているといえましょう。 コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の観点から見れば、すべてはもう終わった(撮り終えた)ドラマというふうな言い方をします。 世界は起こるがままに起きているだけです。 人生で起きる出来

          心(意識)が変われば世界が変わる!?

          世界の中心?世界の果て?

          あなたの居る場所世界の中心はあるのか? 世界の果てはあるのか? というなら、 あなたの居る場所が世界の中心であり、 あなたの居る場所が世界の果てだといえましょう。 もっと正確に言うならば、 「ここ」が世界の中心であり、 「ここ」が世界の果てです。 また、 「ここ」が時間の旅のはじまりであり、 「ここ」が時間の旅の終わりです。 「ここ」とは、「いまここ」のことであり、 この世界を見ている主体が居る場所です。 その主体とはいったい何者なのか? あなたがその主体

          世界の中心?世界の果て?

          次元上昇(アセンション)とは

          「self」から「Self」への移行私たちは、そもそもが大いなる存在である自己(Self)であったわけです。 その大いなる自己(Self)が自我の分離の想念を信じてしまうとどうなるのか? というと、 個別性、特別性、個人性というものが生じると共に、別々になった個別の自己(self)と同一化してしまうことになります。 それだけではありません。 忘却のベールによって、もはや本当の自分が何者なのか?を忘れてしまうことになるのです。 いわゆる、個人の自己(小文字のself

          次元上昇(アセンション)とは

          大丈夫、と、大丈夫じゃない

          嘘(虚偽)であるものを嘘(虚偽)だとしていくこと「だいじょうぶ」と「だいじょうぶじゃない」、 というとき、 ノンデュアリティのスピーカーさんのほとんどが、「だいじょうぶ」のほうへとフォーカスするよう促しているように思えます。 そして、コースのティーチャーみたいなことをやっている人やコース学習者も、「恐るべきことは何もない、私は大丈夫、私は安全だ」というふうにアファメーションしていくことがコースの実践だと勘違いしているケースがあったりします。 でも、自分たちの内側に正直

          大丈夫、と、大丈夫じゃない

          今すでにそうであるものを愛する=ただ在る

          どんな人生もその内容は同じものだと悟るとき私たちは一つ(ワンネス)です。 私たちは一つの心です。 私たちは一つの心であり、あなたも私も別々ではないわけです。 それが真実であるにもかかわらず、私たちはどんな状態になっているのか? というと、 その一なる心が分離の夢を見て、あたかも私たちはバラバラに別々に存在しているかのように知覚(錯覚)しているということです。 ようするに、「ワンネスに分離が起きた」あるいは「ワンネスから分離した」という夢を見ているということです。

          今すでにそうであるものを愛する=ただ在る

          バイロンケイティと癌患者パムとの対話

          一元論のスピリチュアリティとは、純粋な非二元のスピリチュアリティのことコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)とはどのようなスピリチュアリティなのか? というなら、 純粋な非二元のスピリチュアリティであると言うことができます。 もしくは、一元論のスピリチュアリティと言い換えることもできます。 では、そのスピリチュアリティを学んでいくことによって私たちはどうなっていくのか? というなら、 ワプニック博士は、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)について以下の

          バイロンケイティと癌患者パムとの対話

          ワークブックレッスン325 ~すべての思考を赦すとき、愛するとき

          すべては想念であるコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが進んでいくにしたがって、この世界をありのままに受け入れるようになっていくと言うことができます。 それは、自分の見ている世界と闘わなくなっていくことを意味します。 というのも、外側に世界は無い、ということが理解されていくからです。 外側に知覚しているものすべてが内側にあるものの投影にしかすぎないと分かってくるなら、自分は何を外側に見ているのか?をますます認識するようになるわけです。 それだけでなく、自分

          ワークブックレッスン325 ~すべての思考を赦すとき、愛するとき

          真実を知らない(忘れている)からこそ、私たちは深刻になるのだ

          もう一つの選択肢があることを思い出すなら私たちがこの世界を眺めるとき、自分たちが見ている知覚とはまったくちがう別の知覚の仕方があるのだということを、私たちは忘れたままになっていると言うことができます。 でも、私たちが「別の見方がある」ということ、つまり、もう一つの選択肢があるということを思い出すなら、私たちは深刻になる必要はないと分かります。 なぜなら、そうなるなら、自分には選択の自由があることを思い出すことになるだけではなく、もっといえば、自分からあえて深刻になりたがっ

          真実を知らない(忘れている)からこそ、私たちは深刻になるのだ

          いまここにただ在る

          すべての考えを赦す、すべての考えを愛すすべてが考え(想念)である。 内側にあるものだけでなく、外側に見えているもの、そのすべてが考え(想念)である。 しかも、それらのすべての考え(想念)はいまここにある。 外側の世界に見えているのはその考え(想念)を投影しているだけである。 そのことを真に理解するとき、自分はすべてとつながった一つ(ワンネス)なのだと悟ることになります。 そこにある風景、世界。 見えているものすべて。 聞こえる音。 香り。 味覚。 身体で感

          私たちが目指している「目覚め」「真の幸せ」とは

          自我からの脱却、苦しみからの脱却自我が愛おしく愛すべきものとしてみえるならば、もはやそれは「自我」だと呼べるのでしょうか? あるいは、 苦しみがありがたき愛おしいものと知覚されるなら、もはやそれは「苦しみ」と呼べるのでしょうか。 一元論のスピリチュアリティを探究している者たちにとって、 「自我からの脱却」「苦しみからの脱却」 という言い方をしてきたわけですが、 ちょっと、その表現は私が実感しているものとは少し違うように思います。 自我からの脱却、苦しみからの脱却

          私たちが目指している「目覚め」「真の幸せ」とは

          思考を止めるワークについて

          思考はいけないものではない「思考を止める」という言葉を、最近ではよく耳にします。 そのことについて、私の見解を述べてみたいと思います。 まず、言えるのは、この世界を知覚しているかぎり、思考が止まるということはけっしてありませんし、もっといえば、思考なしでこの世界を知覚するのは不可能だということです。 たしかに、深い瞑想に入ったりしたときとか、何かに没入しているその一瞬だったり、いわゆる「思考がない」という瞬間はあったりしますが、日常生活をしていくにおいて思考がないという

          思考を止めるワークについて

          私たちはひとつ=私はいない

          玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥がしていくようにコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、何をしているのか? というなら、それは、自分とは何者か?自分とは誰なのか?という真我の探究をしていると言うことができるでしょう。 それは、まるで自己概念の仮面が剥がれ落ちていくようなプロセスだといえます。 まさに、そのプロセスは玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥がしていくようなものに喩えることができます。 玉ねぎの皮を剥ぎ取っていったとき、最後には玉ねぎの芯にたどり着くのだと

          私たちはひとつ=私はいない