![マガジンのカバー画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/140155239/97ef926080bb4d3e08d6b78c81237812.jpeg?width=800)
- 運営しているクリエイター
記事一覧
あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要です
コースの学びはどのように深化していくのかコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びの深化とは、どんな感じなのか?
ということについて、私自身のコース学習の経験から述べてみたいと思います。
コースの歩みは、たとえその教えが分かったつもりでも、コースの学びが深まっていくごとにその分かったという理解がまた崩壊していくという、まさにその繰り返しだといえます。
深い学びと洞察が起こるたびに、自
夢から目覚めるのは誰なのか?
自分と思っているこの「自分」が目覚めるのではないコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)はこの世界の夢から目覚めることを最終的な目的としています。
ただし、私たちが勘違いしがちなのが、自分と思っているこの「自分」が目覚めるのだと思っているということです。
そうではありません。
この「自分」が目覚めるのではありません。
この「自分」が完璧になるのではありません。
そもそも、この「自分(
「否定から始めなさい」と語る J. クリシュナムルティの言葉
否定からはじめることが確かさへ至る方法であるJ. クリシュナムルティという聖者を知っておられるでしょうか?
彼は、インド生まれの哲学者・ 宗教家、そして、ヨーギー(非二元の実践者)です。
J. クリシュナムルティについて語るならば、私が20代だった頃に彼の本をいくらか読んだことがある程度で、その当時はその内容をほとんど理解していなかったといえます。
ただ、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡
コースの学びと実践を通して私が理解したこと、そしてその成果について
何が真の赦しであるかについてコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習の歩みは、「形而上学(理論)の学び」と「実践を通しての学び」の両輪によって、その学びは深化していくと言うことができます。
ですから、コース形而上学の学びも重要なのはもちろんのこと、それが実践において適用されていかないならば、学びを深めていくことはけっしてないということです。
そして、その実践的な手段が、「赦し」と呼んで
真新しい思考体系を学んでいくうえでの心構え
コースは従来のスピリチュアリティとはまったく異なるものである実際、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることを本当に理解するようになるならば、コースは私たちが思っているようなものとはまったくちがうということが分かってきます。
コースというスピリチュアリティは、自分たちが思っているようなモノではないどころか、それを遥かに超えていくモノであるということです。
ですから、コースを本
あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である
自分自身に正直になる自分が、自我の思考体系と同一化しているということ。
自分が、自我になってしまっているということ。
その自分は、常に、聖霊/イエスを拒絶し続けているということ。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることを理解するようになるとき、誰もがそのことを自分の中にはっきりと認識していくことになります。
真の自己を思い出すことよりも、個別性、特別性の象徴である偽り
「いまここ」という時間を超えた時間のない領域へ
リニアな時間軸上ではない「いま」ノンデュアリティ(非二元)の真理から見るならば、この世界のすべては幻想です。
いわゆる、この世界は心のイメージによって作り出された影にしかすぎないということです。
それは、この世界、宇宙という「空間」のことだけを言っているのではなく、「時間」もそうだということです。
時間はあたかも過去から未来へとリニア(直線的)に流れているかのように知覚されていますが、それ
天国であるワンネスを思い出していくために私たちが必ず修得しなければならないもの
全一なる知覚(真の知覚)とは赦しの視点から見た知覚とはどういうものか?
というなら、
それは、知覚しているものすべてを包含して、しかもそれらすべてを等しく同じ幻想として見ている知覚のことを言います。
それを、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、「ヴィジョン」「真の知覚」と呼んだりしています。
そして、すべてを包含しているという意味で、「全一なる知覚」と呼んだりしています。
良き人生であろうが悪しき人生であろうが、どんな人生もそれでいいのだ
この世界には希望も光もないことを理解する私たちはなるべく平安でいたいし、なるべく動揺のない人生を送りたいと望んでいます。
そして私たちはそれを達成しようとして、この人生をあくせく生きているといえます。
さらには、スピリチュアルにその答えを求めて探究がはじまったりもするわけです。
中でも、妥協なきスピリチュアル探究者は、その探究の果てに、やがてコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)と出会
「無垢なる顔を装う者」と「奇跡を行う者(ミラクルワーカー)」との違いを見分ける
無垢ではない者が無垢なる顔を装おうとする私たちはつい、無垢なる顔を装おうとします。
つまり、自分は善良であろうとするわけです。
そう、私たちは、「清くあろう、正しくあろう、善良であろう」と思っていて、それが良きことだと思っています。
特に、スピリチュアルを探究する者であったり、神聖さを求めている探究者であったりすると、その想いがなおさら強いといえましょう。
ただし、コース学習者の私たちは
神の子であるはずの私たちが、天国ではなく、この世界に居るのはどういうことなのでしょう?
じつは私たちは神の愛をとても恐れているなぜ、神の子であるはずの私たちはわが家の天国ではなく、この世界に居るのでしょう?
というなら、その答えは、じつのところ、私たちは自らが天国を拒んでいるからだということです。
そう、私たちは神を愛しているどころか、じつは、神を、神の愛を、とても恐れているのだということです。
だからこそ、私たちはこの世界に居るのだということです。
それはとうてい信じ難い