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思考を止めるワークについて

思考はいけないものではない

「思考を止める」という言葉を、最近ではよく耳にします。

そのことについて、私の見解を述べてみたいと思います。

まず、言えるのは、この世界を知覚しているかぎり、思考が止まるということはけっしてありませんし、もっといえば、思考なしでこの世界を知覚するのは不可能だということです。

たしかに、深い瞑想に入ったりしたときとか、何かに没入しているその一瞬だったり、いわゆる「思考がない」という瞬間はあったりしますが、日常生活をしていくにおいて思考がないということはないということを知っておくと良いでしょう。

もっといえば、思考(考え)はいけないものではないということです。

思考(考え)がないならば、日常生活を営んでいくことさえできないわけです。

大事なのは、湧きおこってくる思考(考え)と同一化しないことだと言うことができます。

普段の私たちは、無自覚に思考(考え)と同一化した状態になっています。

それによって、自分が誰なのか?をすっかり忘れてしまっているだけでなく、思考のストーリーに振り回されている状態になっているわけです。

私たちが理解しなければならないのは、

思考(考え)が問題なのではないということです。

そうではなく、

思考(考え)と同一化してしまっていることが問題なのだということです。


頭をからにすることはでいません。海の水を空にしようとするようなものです。思考はいつも戻ってくるように思えます。そのようになっているのです。
けれども思考は理解を持って受けとめるなら、問題ではありません。現実(リアリティ)と闘っているのでない限り、そもそもなぜ頭を空にしたいと思うのでしょうか。(省略)・・・一分間に一万もの考えが浮上したしたとしても、それらを信じなければ、あなたの心は平和なままでいられます。

バイロンケイティ著『タオを生きる』P.63/ダイヤモンド社


思考が湧き起こったとしても、心は平和(平安)なままでいることができるのです。

私たちが学ばなければならないのは、思考に対して理解を持って気づいていくということです。

私たちは自分の考えていることに対してあまりにも無自覚になってしまっています。

ですから、「思考を止める」あるいは「自動思考を止める」と言うとき、それは、(自動)思考との同一化から離れるために、というふうに捉えると良いでしょう。

先ほど申したように、日常生活をしていくかぎり思考が止まるということはありません。

思考に囚われることなく、思考から解放されているならば、何の問題もないのだということです。

それが、私たちが本当に求めているものなのだということです。

私たちが本当に求めている本当の平安、本当の幸せとは、思考(考え)から自由になることなのだということです。

「(自動)思考を止める」ことを目的としたワークやメソッドがあったりしますが、それがいけない、間違っている、ということではありません。

その目的は何なのか?その目的が重要なのだといえます。

それは何のためなのか?それによってあなたはどうなりたいのか?

その目的によっては、思考を止めるワークはとても有益でもありますし、または、まったく無益な魔術でしかないと言うことだってできるということです。


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