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Art of Life I:生きるための遺書 第一部 前編

これは、ある数奇な運命を課せられた一人の男の、魂の遍歴の物語である。それは果たして架空のものであるか、はたまた作者自身の実体験であるのか、その判断は読者の慧眼に委ねたい。

作者として私がただひたすらに願うのは、この物語が一個の独立した芸術作品として美的に享受せられ、もって読者の胸の内に、私に対する理解と愛が育まれる一助となることに他ならない。


第一部

序章 別れの秋

源氏物語における最も重要な登場人物の一人である紫の上が、病の末、「露が消え果てるように」亡くなったのは、暑い夏が終わり、秋の涼しさが漂い始めた頃のことだった。
 
掛け替えなく魅力的で愛おしい彼女の存在によって己の命をつないでいたような源氏の君にとり、その死は世界から光が失われるに等しいものであったに相違ない。
 
大切な人との別れが秋口に起きるという感覚は、私にとってはいくつかの個人的な体験によっても裏打ちされるものだ。
 
去る九月十日は外祖母の、二十六日は外祖父の命日だった。
 
善良なお年寄りが可愛い孫に盲目的な愛情を注ぐという類の通俗な解釈を超えて、外祖父母の家は私にとり、己の魂の故郷を感じることのできる特別な場所だった。

第一章 歴史に連なる

共に大正生まれであった祖父母は、自分たちの青春期と重なる日本の戦争の時代について、よく話をしてくれた。
 
私は子供の頃から歴史に、特に近代史に強い興味を持っていたが、生まれ育った家庭にも学校にも、良い話し相手がいなかった。学生時代、山本五十六の評伝を読んでいた私に、同じ大学に通う同級生が、「時代小説を読んでいるのだね」と何のためらいもなく口にしたことがあった。

彼は、身を賭して対米戦争に反対し、その終結を真剣に模索した海軍軍人を知らず、その名を大岡越前や銭形平次と同じ類のものとして認識したのだった。
 
そのような環境にあった私にとり、祖父母との会話の中で、二・二六事件、戦艦大和、米内光政といった固有名詞が当たり前に通じることは大きな喜びだった。
 
昭和十一年二月二十六日、東京では珍しい大雪の朝、当時大学生で永田町に住んでいた祖父は、「一体何が起きているのだ」という驚きに満ちた気持ちで、目の前を行進する大勢の兵士たちを見ていた。その後、住民であることを説明し、兵士たちが守備するバリケードを通してもらった。
 
「その頃は配給を待つことが女の仕事だったの」と言って祖母は、物差しを当てて等分されたわずかなソーセージのために配給の列に並んだ体験を話してくれた。戦争の泥沼化に伴い、あらゆる生活物資が不足し、国民は苦しみを深めていった。「それでも軍隊には(色々なものが)あったのよ」という言葉には何とも言えない実感がこもっていた。
 
祖父母から当時の様々な思い出を聞かせてもらうことを通じて、書物や映像によってしか知ることができなかった歴史を、自身の肌に触れるもののように身近に感じ、自分もまたそのような歴史に連なる存在であるという意識を強くした。

第二章 戦争の時代を生きて

大学卒業後、祖父は臨時召集されて支那事変に従軍した。兵科は衛生兵だった。大卒なので薬品のラベルに書かれた外国語が読めるだろうという人事局員の思惑が働いたらしい。世田谷の東京第二陸軍病院に応召し、編入された。そして恐らくそこで基本的な教育、訓練を受けた後、南支に派遣される野戦予備病院に転属となった。広島の宇品港から中国大陸の広東省を経て海南島に渡り、当地で陸軍病院業務並びに要地の警備に従事した。
 
ヨーロッパではナチスドイツがポーランドに侵攻し、二度目の世界大戦が始まっていた。支那事変を収拾できなかった我が国の指導者たちは、独伊両国と同盟を結び、遂に勝てる見込みのない対米英戦までをも始めた。
 
祖父の軍隊生活は足掛け五年に及んだ。衛生兵長として召集解除の日を迎え、祖父が内地の土を再び踏むことができたのは昭和十八年、ミッドウェーやガダルカナルで大失敗を繰り返した日本の敗色が急速に濃くなってゆく年の春だった。祖父が復員して間もなく、アメリカと戦争をすれば日本がどういうことになるか、誰よりも分かっていた山本五十六連合艦隊司令長官が、最前線であったブーゲンビル島上空で、責任を取ろうとしたようにも見える戦死を遂げた。
 
復員後は、潜水艦建造のために必要な人材だからと、勤めていた鉄工所の上司が然るべき働きかけをしてくれたことが功を奏したらしく、祖父は幸いにして再び赤紙を受取ることなく終戦を迎えた。


祖母は新潟県の長岡に生まれた。同郷である海軍の山本さんは遠戚に当たるらしい。雪深い地のこととて、冬にはスキーを履いて女学校へ通った。卒業後は単身上京し、和文タイピストとして昭和十年代の東京で職業婦人となった。

娘時代には、見合い相手に対し、「軍人は男らしい」と思ったこともあったが、軍人の妻となることはなかった。その後、外地から復員して来た祖父と出会って結婚し、祖母は武士の妻となった。二人の馴れ初めについて私は聞いたことはないが、性格的に互いを補うことができるような関係ではあったかと思う。寒いのが苦手な祖父を思い、「任地が北支や満州でなくて良かった」という可愛らしい気持ちでその帰りを待っていたのは、新婚間もないこの頃のことだったかもしれない。
 
当時すでに覆い難くなっていた日本の劣勢は、明確に報道されることは決してなくても、祖母のように銃後を生きた人々にはむしろ鋭敏に察せられる部分があったように思う。兵員の不足に伴い、無事に復員しても再び召集され、命ある限り何度でも悲惨な戦場に送られる例が、身の回りで増えていた。強制された儀礼として、送る者は祝いを述べ、送られる者は勇ましい言葉でそれに答えるが、人目がなくなると皆泣いていたと聞く。
 
昭和十九年七月にはサイパンが陥落し、東京への本格的な空襲が始まった。警報が鳴る度に、祖母は当時生まれたばかりの伯母を抱えて非難した。昭和二十年夏、後に原子爆弾と判明する新型爆弾が広島に落とされたのは、奇しくも祖母の誕生日のことだった。


読書が好きだった祖父の書棚には、戦争関連の書物がたくさん並んでいた。同じように徴兵されて戦場を体験した元兵士による手記や、元軍人による論考などが多かった。「見ればつらくなるのが分かっているけれど見てしまう」と、困ったような表情で口にする祖母と共に、戦争を描いた映画もよく観ていた。
 
晩年目が悪くなってしまった祖父に、吉田満著『戦艦大和ノ最期』の朗読テープをプレゼントしたことがあった。祖父が寝床の中で毎夜楽しみに聴いていると祖母から聞き、嬉しかったのを思い出す。

第三章 菜の花の思い出

戦争を生き抜いた祖父母の間には、戦後さらに二人の女の子が生まれた。さらにリリーと名付けられた一匹のスピッツが新しく家族に加わった。男の子のいない家庭で三人の娘たちを守り育ててゆくためには、好むと好まざるとに関わらず、物静かな祖父に代わって祖母が自ら世間に対して逞しく振舞わなければならないことも少なくはなかった。三姉妹は東京にある菩提寺のすぐ近くの学園にそろって通った。卒業後は順に結婚し、それぞれが妻となり、そして母となった。すべては敗戦後の日本という、祖父母がその青年期を過ごした時代からは著しく変質した、史上においても稀に見る特異な社会空間における出来事だった。
 
祖父は、左右それぞれ違う靴を履いているのに気づかずそのまま出かけてしまったというエピソードを持つほど、己を飾ろうとするところのない、所謂ブランド志向とは無縁の人間だった。それでも祖母との暮らしぶりには、晩年に至るまでどこかハイカラな、垢抜けたところがあった。

トーストしたぶどうパンにコーヒーというのが、大正生まれの夫婦の、朝食の定番だった。居間には揺り椅子があり、私は遊びに行く度にブランコのようにそれを漕ぐのが好きだった。和室には祖母が茶の稽古に用いていた茶釜が置いてあった。何に使う物なのか幼い私には分からなかったけれど、大切そうに置かれた、不思議な形をしたその黒い鉄の塊はとても神秘的に見えた。映写機を動かし、家族の様子を撮影したフィルムを見せてくれたこともあった。黄な粉餅を食べさせてもらいながら、初めて見るモノクロームの映像が印象的だった以上に、まるで活動写真の弁士のように、祖父が私を楽しませようとしてくれた姿をよく覚えている。
 
様々の文物を積極的に採入れてそれらを楽しもうとすること、生活の要素一つ一つに意を用いて暮らしをすてきにしようとすること、そうした文化的洗練への志向は、私が生来欲しながら、生まれ育った家には全くないものだった。
 
小学生の頃、祖父母の家で菜の花のお浸しを出されたことがあった。菜の花の程よい苦みと出し汁の穏やかなうま味とが調和し、素材の味を生かした料理が幼い頃から好きだった私は、心も体も満たされるのを感じた。こんな家に生まれていたら。自然とそんな思いが浮かんだけれど、それは抱いてはいけない気持ちのように感じていた。何か母を悲しませるように思えたものだから。

第四章 心の優しい人間が

私は、自身の人間性における最大の美点は、公正な優しさであると自覚している。私と同じほどに、大切に懸命に人と向き合い、偏りなく深くその心を分かろうとしてくれる人には、未だ出会うことができない。これが何より、どれほど酷い半生においても常に修養に励み続けることで自ら養った徳であることについては、最早謙遜する必要を感じない。が、同時にそれは私にとって生来の性格でもある。私はそれを祖父から受け継いだ気質であるように感じている。
 
祖父は本当に優しい心の持ち主だったと思う。疲れというものを知らない、遊んで欲しい盛りの子供の相手をすることは、それがたとえ可愛い孫であっても、大人にとって実に大変なことだが、祖父だけは笑顔を絶やさず、いつも最後まで遊んでくれたと、集う機会のある毎に孫たちは口を揃える。祖父とは血の繋がりを持たない伯父たちでさえもが、祖父の葬儀の席上、舅と婿という関係の中でそれぞれに感じていた祖父の温かさを、しみじみ語り合っていた姿は印象に残っている。
 
心の優しい人間が、そうでない者よりもかえって多くの痛みや苦しみを味わわなければならないというのは、人の世の不幸な常なのかも知れないが、大声で勇ましいことを口にし、ことさらに腕力を誇る者ばかりが幅を利かせるような、男であるということの価値があまりに一面的に、浅薄に捉えられることの多かった時代を、祖父はどのような思いで生きていただろうか。
 
その祖父も、本人の意志とは関わりなく、ただ生まれた社会と時代の都合によって、兵役を果たし、戦地に行かねばならなかった。軍隊とは物心両面における強制力を体現する組織である。公益に資するという名目で正当化され、行使されることを常とするその力は、我々が暴力と呼ぶものと本質において変わらない。「軍隊は娑婆じゃない」という決まり文句が濫用されることにより、いとも軽々しく理性が退けられ、良識が封じられる世間でもあった。

そのような集団に兵卒として属さなければならなかったにおいて、大学に学び、高等教育を受けて来た人間にとって殊に受け入れ難い慣習、吐き気を催すような現実は枚挙に暇がなかったはずだ。しかし、自分自身がどれほど理不尽な仕打ちを受け、どれだけ上官に殴られても、祖父は決して部下を殴ることをしなかったと聞く。私が接し得た祖父の言動すべてを踏まえて、私は本当にその通りだったと思っている。

第五章 沈黙と孤独

実際のところ、祖父は自らの軍隊時代については家族にも多くを語らなかったらしい。伯母たちも母も、記憶しているのは「戦地では誰しもいつ死ぬか分からないから、皆いい人たちだったよ」という祖父の言葉だけだ。それ自体は紛れもなく、戦争を実際に経験した者のみが知り得る真実の、恐らく最も希望のある一端なのだと思う。しかし同時に、決してそれがすべてではなかったであろうことは、死の床にあった祖父の口から、混濁する意識の中、苦しげに、恐ろしげに発せられた断片的な言葉からも痛切に察せられた。
 
祖父の経験した戦地が、ガダルカナルやインパールのような場所と全く同じではなかったにしても、人の心からゆとりや潤いを無くさせ、人間という種の最も忌むべき一面を剥き出そうとする、戦争というものの本質に変わりにはなかったはずだ。直接的な命の危険も実際に身近にあった。自動車で移動中に襲撃を受け、隣の座席で今の今まで元気にしていた戦友が頭部を撃ち抜かれて死亡するという体験を祖父はしている。シートは血に染まり、銃創からは脳が流れ出していた。
 
具体的にどのような恐ろしい体験の記憶が祖父を苦しめ続けていたのかは想像の域を出ない。しかし、私にとって同性の中では自分を愛してくれた唯一の存在であった祖父が、本当に優しい心を持った人間でさえもが、誰にも言えないほどの苦しみを、死に至るまでずっと抱えなければならなかったのだとしたら、真に胸が痛む。すでに論理的な脈絡の失われた発話に対しても懸命の受け答えを続けた祖母の情愛によって、少しでも祖父が救われていたよう願わずにいられない。


祖父はずっと男の子を欲しがっていたのだと、祖父の死後、あるとき伯母が話してくれたことが印象に残っている。祖父は三人の子を持ったが、いずれも女の子であった。成長した娘たちは順に結婚し、それぞれに子をもうけたが、生まれた孫も私を除いて皆女の子だった。娘たちに、孫たちに対し、祖父が常に分け隔てなく愛を注いでいたことは、当事者の皆が等しく感じていると思う。一方、彼女たちに対する心からの愛情とはまた別のところで、祖父が終始ある種の寂しさを感じていたこともまた本当だったのかもしれない。
 
家族で汽車に乗るような際には、向かい合わせになった四人掛けのボックス席に妻と三人の娘たちを座らせ、自分一人だけ離れた席を利用するのが常だったという。それは疑いなく、基本的に心が通じている一家の幸せな光景であり、他ならぬ祖父自身が望むものであったに違いない。けれど、妻と娘たちの賑やかな話し声が、ときにかしましくも、微笑ましく聞こえる中、一人黙して離れた席に腰かけているその姿は、祖父が抱えていたある種の孤独を象徴しているようにも感じ­られてならない。
 
まだ幼かった私に、祖父は戦地で仲良くなった東南アジア出身の外国人との思い出を語り、「彼は今頃どうしているだろうねぇ」と、遠くを見つめるような目でしみじみと呟いたことがあった。その表情にも声にも、普段は人に見せることのない祖父の何か深い思いが反映していることは、子供だった私にも強く感じられた。夏休みや正月に遊びに来た孫たちを笑顔で迎え、いつまでもトランプや坊主めくりの相手をしてくれたのとはまた違う祖父の姿がそこにあった。­
 
祖父が軍隊生活を送ったのは、私が大学院博士課程に在籍していた年代とほぼ重なる。たとえそれが本人の望んだ生き方ではなく、全く不本意なキャリアであったとしても、人生においてすでに定まったものよりも未だ定まらないものの方がはるかに多い、一般に青年期と呼ぶことのできるその期間に、相対的に若く健康な心身を以て世界と対峙し、社会と交渉することによって得た様々の感覚と経験は、その後の人生に決定的と言っても過言ではないほど多大な影響を及ぼす。
 
生まれた時代と社会の都合によって専ら強いられたものに他ならない、祖父の軍隊生活においてさえ、その中には青春と呼ぶことのできるような瞬間もまた存在したことは確かではないかと思う。その記憶に終生苦しめられなければならないような恐ろしい体験さえ含まれてはいたが、それでも、余儀なく課せられた現実を必死で受け止め、その中で精一杯良く生きようとした自身のことを語り伝えたいという、一人の人間としての、男としての素朴な思いを、祖父は唯一人の同性の孫であった私には特に抱いていたのではないかと思う。

第六章 南の島にて

祖父が私に聞かせてくれた軍隊時代の体験談の中には、辛い深刻な話ばかりでなく、朗らかで明るい思い出も含まれていた。
 
あるとき戦地で何かの式典が行われた際、祖父が兵の中から栄えある代表に選ばれたことがあった。与えられた役割の中に、整列した多数の将兵の前を自転車で行き過ぎるという内容が含まれていたのだが、実は祖父は自転車に乗れなかった。厳かな式典の場でふらふら運転したのでは恰好がつかない。加えて上官の前を通る際には右手をハンドルから離して敬礼をしなければならないとのことで、何とか大役を果たせるよう、祖父は戦地にて自転車の稽古に励んだのだった。
 
祖父の任地であった海南島は、現在は多くの観光客で賑わう南海の保養地となっている。戦時下であるという人間の都合など、大自然の与り知るところではない。軍務の合間に与えられた貴重な憩いの一時、祖父が生い茂る椰子の木にまたがってバナナをおいしそうに頬張っていると、その姿を戦友が記念に写真に撮ってくれるようなこともあったという。交易が世界規模で発達して久しい今日では容易に想像し難いが、当時の日本人にとり、南洋の果物であるバナナなどはきっと、本当に有り難い御馳走であったに違いない。
 
祖父がまだ新兵として内地で教育、訓練を受けていた時分の出来事かもしれないが、甘い物に関してはこんなこともあった。兵営にて、一日の課業が終わり、消灯の時刻となった。軍隊にあっては寝ることも命令である。寝床に入り、祖父が大人しく横になっていると、何やらムシャムシャという物音が聞こえ、暗がりの中、鼻腔を刺激する甘い香りが漂って来た。どうやら同室の一人が、昼間酒保で購入しておいたあんパンだかジャムパンだかを取り出し、こっそり食べ始めたようだった。
 
砂糖はマッチと共に、米や味噌など他の生活物資に先立ち、早くも昭和十五年には配給制に移行する。当時の日本人は押し並べて甘味に飢えていた。まして軍隊という慣れない環境において、日々厳しい教育と訓練に追われ、絶えず緊張を強いられていた新兵にとり、甘味をたっぷり含んだ菓子パンなどは、堪えられないほど魅惑的な食べ物であったに違いない。結局そのとき祖父はどうしただろうか。もしかしたら、「おい、半分寄こせ」とでも声をかけ、微笑ましい軍規違反を共にしようとしたかもしれない。

第七章 陛下からお金を

晩年の祖父は、交通事故で足を痛めてしまった影響もあり、長いこと寝たきりの生活をしなければならなかった。生活上の様々な不自由が徐々に増えてゆく中で、時折このようなことを口にしていた。「おじいちゃまは今度、天皇陛下からお金を頂くから、そうしたら創ちゃんにそれをあげるからね」。
 
祖母と共に最後まで祖父を献身的に世話した伯母は、祖父のこのような言葉を、加齢に伴って生じる寂しくも避け難い現象の一つであるように受け取っていたが、真実は決してそのような悲しいものではなかった。そのことを私が知ったのは、祖父の死後、形見として受け継いだ奉公袋を開けたときのことだった。

カーキ色のその布製の袋の中には、軍隊手牒や各種証書をはじめ、従軍記章、出征軍人と墨書されたたすきなど、祖父の軍隊時代の記録となる様々な物が入れられていた。その中に、昭和十五年の天長節に賞勲局総裁の名で祖父に宛てて発行された勲記があり、そこには次のように記されていた。「支那事変ニ於ケル功ニ依リ勲八等瑞宝章及金百四拾円ヲ授ケ賜フ」。
 
ご本人のお志と違ったとしても、事実上陛下の名の下で戦われた戦争に、自身の意思と関わりなく命を捧げたことに対し、画一的にではあってもこのようにしていくらかでも報いられたことには、日本人として特別な感慨を抱いて当然だ。お授け下さる方も、頂戴する者も、共に本意でなかった出来事に関してではあったが、確かに祖父は天皇陛下からお金を頂いていたのだった。

(後編へ続く↓)


私の作品に最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。魅力をお感じ頂けましたら、そのお気持ちをお伝え下さいますと幸いです。コメント、フォロー、サポートなど、いつでもお待ちしています。私たちの心が、芸術によって通じ合いますように祈ります。

五十嵐創(Twitter & Instagram: @soh_igarashi)

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創 / Soh
私に魅力をお感じ下さるそのお心を、もしサポートとしてもお伝え下さいましたなら大変幸せに存じます。体質上、生きるために私にはどうしても日々必要な、保険適用外の医療を含め、制作に充当させて頂きます。より美しい作品、演奏をご披露することで、頂戴したお気持ちにきっとお応え致します。