#人生哲学
どんな形でも”一歩”を踏み出すために
泣き面に蜂 踏んだり蹴ったり 弱り目に祟り目
一難去ってまた一難、ぶっちゃけありえない(プリキュア)
そのようなことで心のキャパシティーを超えてしまった時、あなたはどのような手段を取ろうとするだろうか。
①もう何もかも諦めてしまう
②許せない、許せない、許せない、変わってやる
③ただただ泣いてしまう
どんな形でも踏み出すためには、どの手段を選んでも構わないと思う。
ただ変わるための
望まない1人だけの世界は「汚らしい」ものなのか
孤独であることを「受け入れる」というのは至難の業である。
しかし、今僕はどうにか受け入れようとしている。誰もが「孤独」を受け入れているとは言い難いなかで。
声をかけてくれる人がいれば、頻繁でなくても連絡をくれる人がいれば違う。僕の場合は、自分から連絡する、誘う、計画するなどが100%なため「本当の孤独」といってもいい。
僕は、孤独が一番怖い。今でも誰の心にもいない。誰かの心にいれば、今頃僕は
止まり木がなければ生きられない
どんな人にも”止まり木”が存在する。
止まり木に寄りかかり、止まり木で眠りにつき、止まり木が支えになる。
時には、自分自身が止まり木になって誰かを癒す。そんな木が誰の傍にも必ずある。
そうでないと人は生きてはいけない。
けれど、僕は止まり木で休むことを許されない。ましてや、止まり木でいてくれる人はいない。
いじめを繰り返している人にも
損得勘定で友人を選び自らを正当化する人にも
DV
”見守ってくれる人”と”見守られたい人”
あなたの周りには、見守ってくれる人や支えてくれる人はいるだろうか。
その関係性も多様であり、友達なのか親友なのか、家族なのか恋人なのかは人それぞれである。また、見守るにも段階があったり、いつも見守られていたり、見守り方にも多かれ少なかれ程度の差が生じる。
自分にとって、どのようなものが「癒し」として必要なのか。
それを、心や身体の危機に見合ったもの与えてもらえるかは別である。
逆に、自分自身
一匹狼の自己証明は不可能であること
自分を自分として、自分であるためには
自分の心を強く持つこと、そして自分を認めること
そんな謳い文句が世界に広がっている。
自分を自分だと認識し、承認するときに
一体何を我々は根拠にしているのだろうか。不思議に感じる。
誰かの心に思い出されればいいのか?
趣味や好きなものを持っていればいいのか?
声をかけられる人がいればいいのか?
そんな単純なものでいいのなら楽なことはない。
自分
大勢の人のなかでの「天涯孤独」
誰も自分だけを見てくれるわけではない。だから、誰にも期待してはいけない。誰にも期待などしてない。
全ての人が、僕を直視して欲しいとは思わない。
四六時中、自分を感じていて欲しいというわけじゃない。
ただ自分が誰の心にも存在していないのが苦しいのだ。親でさえ、友人でさえ、誰の心にも僕はいない。
「心にいない」その意味は
大切にしてもらない、愛してもらえない、仲間だと思ってもらえない。どんな努