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rina
2023年6月6日 23:09
「私はもともと、こんな季節嫌いなんです。蒸し暑いし、そのくせ夜は涼しいし。だから何を着れば分からなくて。湿気で髪はうねるし、うねった前髪は汗でおでこに貼り付くし。汗っかきだったから、臭いかなとか気にしなきゃいけなかったし。だから、私はこんな季節が大嫌いなんです」そう言って彼女は、冷房のよく効いた駅前のカフェで恥ずかしそうに言った。「誕生日が6月6日なんですよ。だからもう嫌で仕方ないです。自分の
2022年7月3日 22:50
どうやら人身事故が起きたらしい。イヤホンを耳に突っ込んでいたから、気が付かなかった。階段を降りて、ホームのベンチに向かう最中ちらりと横目で見た時間は22:15。次に来る電車の予定は22:21。ホームのベンチに座って、携帯を眺めながら、インスタを眺めていた。ふっと、目の端に入り込んだ男の人の革靴の踵が、私に時間感覚を取り戻させる。携帯を眺めることに没頭していた私は、22:23になるまで、電車が到
2022年5月15日 13:49
「本日ハ晴天ナリ」だなんて、嘘ばかりだ。何日も晴れた空なんて見ていない。空を眺めれば雲ばかり。そして降るものは雨ばかり。肌にまとわりつく湿気が不快だから外に出たくない。生ぬるい風に吹かれても気持ちよくなんかない。そもそも私はあの雨に濡れた街の醸し出す香りが嫌いだ。カラッとしていてほしい。雨の日は本屋に行こうと思っても、躊躇する。傘立てに傘を置くと盗まれるし、だからと言って濡れた傘を持って
2022年2月28日 22:59
日差しに埋もれたい。温もりや全てを肌に融かして、ほしいままに纏いたい。そんな春を感じてしまって、冬を裏切ったような気持ち。窓の外が灰色で、美しく輝く銀世界も好きなのに、オレンジ色に照らされる道にお久しぶりとご挨拶して、浮気者。会いに行くには寒すぎる冬と、否応なく照らしてくる春。温もりを求めすぎて、気付いたら夏。愛に満ち足りた私は、夏を拒絶する。会いに来ないでと、夏を嫌悪する。閉じこもる
2022年1月21日 20:52
電車の中で、私はひとり。周りを見渡すとちらほらと乗客はいるが、私はひとり。窓の外は曇り。向かいのおじさんは、スマホとにらめっこ。斜め前のお姉さんは、うとうとと。ドアを挟んで横の女子高生は、参考書をぱらぱらと。お昼の電車。人は少ない。向かう場所は、特にない。決めていない。ただ電車に乗り、座席に座って、ふくらはぎに当たる熱風に耐えながら、私はひとり。美しく彩られた黄色も、高い空も、そこには
2022年1月8日 08:49
がたんごとんと、電車は走っている。地方都市の環状線を、飽きることなく走り続けている。車両には男と女が、ボックス席で向かい合いながら座っている。男は、窓の外を流れる景色を。女は、窓の外から入り込む夕日に照らされた、男の横顔を。電車のなかには他に乗客もおらず、この2人だけが、同じボックス席に向かい合って座っている。窓の外には無数の鉄塔が並んでいる。オレンジ色の光に照らされた無機質なそれらは、そ
2022年1月5日 21:26
薄暗い店内。隣からひっそりと聞こえる話し声。互いが互いの座席から、顔が見えないようにカーテンがかけられている。立った穂波の腰の辺りまであるカーテンは、座っている人たちの顔を上手に隠す。そこから漏れる声。甘く、暗く、空気を含んだ、ヒソヒソ声。周りを囲んだ、卵型のソファ。男女2人で座り、何かを話すための場所。流れている音楽は、アンビエント。定期的に響く、美しい音色。階段を昇り降りするピ
2021年9月27日 20:36
光が降り、そして差す。木漏れ日は温もりを湛え、精いっぱいに降り注ぐ。そして垣間見る。姿が映し出される。空へと登る一筋の柱。その柱の内側に、2人。暗い森の中で、異質に光る男女の2人。女が男の頭を抱えながら、降り注ぐ光を遡ろうと、空に首を伸ばす。顔は照らされていて見えない。聞こえるのは、歌。慈しみに満ちたその声は、少しずつ光を淡くさせる。まるで、持って行くなと泣くように、そう聞こえ
2021年9月18日 02:11
少女は思い出していた。周りに散りばめられた割れたガラスの瓶は、少女を動かなくさせていた。頭に浮かぶのは故郷の花畑。黄色のスイートピーや橙色のチューリップ、水色のアジサイ、赤色の彼岸花。少女の母親は、花が好きな女だった。少女は、母親が花を好きだと信じていた。季節が変わると、母親は何処からか花を持ってきていた。買ってきたのか、摘んできたのか、少女は今でも知らない。ただ、母親の持つ花に生気が無か
2021年8月25日 02:50
憧れは人間にとってのガソリンらしい。何かに憧れる、誰かに憧れる。その意識は人間を動かすということを、なにかで読んだ。私は、私が知らないことを知っている人に憧れる。そんなこと無数にあるので、憧れる対象が多すぎやしないか、とも思うけれど、案外そうでもない。結局、自分に興味関心がありそうなものに対しての知見が深い人にしか、憧れの気持ちは持たない。それは、生きるという行為についてもそう。「
2021年8月13日 15:21
人は、美しい。そこに貴賤なんてものはなくて、だから裏を返せば、人は、「皆」美しい、ということになるのだろう。ただ、元来美しい人と、その美しい人に近付きたくて努力する美しい人がいる。私は特に元来美しい人が好きだ。彼女らは、光り輝く拳を振りかざして、そしてその空間を一瞬にして瓦解させる力を持っている。ただ、彼女らはその拳を振りかざしたことすら気付いていない。私には特技がある。美しい人を
2021年7月21日 20:00
夏を告げる為に、風鈴を設置する。たいした作業では無いのに、首筋に汗が垂れてくる。 前髪を切りすぎたおかげでおでこは蒸れなくて済んでいるけれど、それでも暑いことにはかわりなかった。「ただいまー。あっついねー今日も」 ユウリの声が玄関から聞こえてくる。頼んだラムネの瓶同士がぶつかり合う音と、ビニール袋が擦れる音が声と共に。「おかえり。ねえ、風鈴ってどうやってつけるの?」 リビングまで歩い
2021年8月8日 17:03
バラック。すきま風が肌を刺す。何度も湯浴みをして、その結果肌が乾燥して、荒れた傷に風が染みる。「ただいま」 ターニャが唇を紫にしながら帰ってくる。「おかえり」 カチューシャが言葉少なく、そしてターニャの方を見ることもなく、小さい声で言う。言葉は少ないながらも震えているのが分かる。「どうだった?」「最悪。汚いデブだった。金払いが良くてもありゃ外れだよ」「そんなこと言っても客は選
2021年7月3日 13:47
「お疲れ様」と、彼女はそう言って控え室に入ってくる。確かに私は疲れていた。彼女は疲れているはずなのにそんな素振りは見せなかった。少しぽってりとした唇を携えて私の前で笑う彼女は美しかった。遠く異国の石のようなキラキラした瞳を私に向けていて、私は硬直する。「ねぇ、どうしたの?」と、彼女は言って私の手首に指を這わせる。私は彼女を見ることができないまま、手首を触られている。あまりの冷たさに手を引きそう