見出し画像

異端

 バラック。すきま風が肌を刺す。何度も湯浴みをして、その結果肌が乾燥して、荒れた傷に風が染みる。

「ただいま」
 ターニャが唇を紫にしながら帰ってくる。

「おかえり」
 カチューシャが言葉少なく、そしてターニャの方を見ることもなく、小さい声で言う。言葉は少ないながらも震えているのが分かる。

「どうだった?」
「最悪。汚いデブだった。金払いが良くてもありゃ外れだよ」
「そんなこと言っても客は選べない」
 またしてもカチューシャは小さな声で言葉を挟む。こちらを見ずに、本を読んでいる。


「なーに読んでんの?」
 ターニャがうつ伏せになっているカチューシャの上に乗っかり、ちょっかいをかける。
「重い」
「乗ってるんだもん。そりゃ重いよ」
 はぁ、と大きく溜め息をつくと、カチューシャは本を閉じて、表紙を見せてくる。
「何これ。ていうか見せられても分かんねーよ。あたし文字読めないし」
「カラマーゾフの兄弟」
 本はだいぶ厚くて、私は殴られたら痛そうだなぁと考えた。そして昨日お客に木桶で殴られた頭が痛みだす。
 私が頭をさするのを見て、ターニャが気遣って「痛むか?」と聞いてくる。
「うん、でも大丈夫。ちょっとたんこぶできただけだから」
「ソフィは我慢強いから凄いよな。あたしだったら殴り返しちゃう」
 カチューシャから降りたターニャはあぐらをかいて私に向き合った。
「でも、ママの方が怖いし」
「そりゃそうだなぁ。あたし達も将来あんな尻デカくなんのかな」
「嫌だなぁ、それは」
 

 カチューシャを見るとまた読書に戻っていた。そして口を開く。
「ねえ、神様っていると思う?」
「いるんじゃない?」
「いねーだろ」
 ほぼ同時に私とターニャが答える。
「いるならあたし達はもっと幸せになっていいだろ。何してんだよって話だ。ママに暴力喰らって、客にはボロ雑巾のように抱かれて、薄着でバラックに毛布一枚で閉じ込められて、飯は芋しか届けられなくて、外では見張りが立ってて。ここで助けにこねーなら神なんて初めからいねーって考えた方がマシ」
 むき出しの、新しい青い痣が浮かぶ肩をさすりながらターニャは低い声で毒づく。
「昔からターニャ、真面目にお祈りとかしてなかったじゃない」
「全知全能なはずなのにね」
 カチューシャが小さい声で呟く。
「で、何よ。そういう神様とかの話なワケ?その本は」
「いま丁度読んでいるのが、そういうシーンなだけ」

 大審問官が住む街に、ふらっとイエス様が来られて、そして奇跡を起こしていく。その奇跡に湧く街の治安維持の為、大審問官がイエス様を捕まえて、質問する。

「その間、イエス様は一言もお言葉を発されることはないんだけど。まだその先まで読んでいないから結末は知らない。神様っているのかなってなんとなく思ったというか。聞きたくなったの、貴方たちに」
 ふうん、と言いながらターニャは本をパラパラとめくる。文字の読めない彼女はすぐに飽きて、本を私に渡してくるけれど、私は受け取ってそのままカチューシャに返した。
 

 沈黙が流れる。


「ソフィは、なんで神様が居ると?」
 神様の話をすると、なんでこうも空気は重くなるのだろうか、なんて考えていたらカチューシャが私を見て口を開いた。
「うーん」
「ほら、答えらんねーじゃん」
 ターニャが嬉しそうに私を煽る。
「ターニャ、黙って」とカチューシャが制する。

 私は口を開く。
「神様って、別に人間たちだけの為にいらっしゃるわけじゃないし。色々と、この世界とかを創り出してくださったワケで。そうなると魚だって、虫だって、このお芋だって神様が創り出したモノでしょう?」
 ターニャは不貞腐れながらも話を聞いてくれている。そういうところが私は好きだった。
「うん、それで?」
「そもそも、神様って人のこと救うためにいらっしゃるワケじゃないって思っているの。私は」
 こんなこと、他所では言えないことだった。
 私は続ける。
「ほら、私って色々な模様とか、服とかそういうのが好きだから。だから、神様って結局デザイナーみたいな方だと思ってるのよ。ターニャは虫嫌いだからあんまり見ないかもしれないけれど、夏の森にいる虫たちってすごく綺麗なのよ。蝶の模様なんて人間には創り出せないもの」
「じゃあ、なんでお前らは教会で真面目に祈ってんだよ。何を伝えてんだよ」
 ターニャが「心底意味が分からない」というような顔で私たち二人を見る。
「わたしは、そこまで真面目に祈ってないよ」
 カチューシャが言う。そして続ける。
「ただ、気まぐれでもいいんで、目についたら救ってくださいって思いながら目を瞑っているの」
「なんじゃそら」
「神様は忙しいでしょうし。それに今のソフィの話を聞いていたら、わたしが思っていたよりももっと忙しそう。もっと沢山いればいいのにね、なんて言ったら私も異端になってしまうけれど」


 突然、ドアが叩かれる。一瞬、不安がよぎる。
 今の話が聞かれていたのではないか、と。

「カチューシャ、お客だ」
 カチューシャが本を私に渡して、立ち上がった。
「ソフィ、ありがとね。また帰ってきたら続きを。ターニャは文字でも教えてもらいなさい」
「行ってらっしゃい、気を付けろよ」
 ターニャがバラックの奥から、出ていくカチューシャに声を掛けた。
「うん」
 手をひらひらとさせて、カチューシャが出ていく。

 バラック内にすきま風。流れているのは沈黙。

 私たちは、2人取り残されて、これからも閉じ込められて生きる。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

励みを頂ければ……幸い至極です……