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雑記

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2021年8月の記事一覧

多読術

「多読術とは逆説的に『本を読まないこと』である」というのは、加藤周一やピエール・バイヤールをはじめいろんな人が言っている。僕は長らくそれを知りつつも、無視して興味の赴くままに乱読していたのだが、徐々に一生涯に読める本の限界に気付いてきた。限界があるというのを知りながら、行動しなければ納得しないというのは若気の至りそのもの…笑

この本は今読む必要ないな、という嗅覚も育ってきたので、ここからは「読む

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最近ハマっていること

最近ハマっていること

この時期、比較的涼しい朝と夕方にベランダに出てキャンピングチェアに座りながら本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたりしてみると、すごく心地いい。生活空間から解放された、朝陽と夕陽を燦々と浴びる我が家のベランダは光で埋もれており、まるで印象派の絵画さながら。そこに時間は存在しない。ただただ傾いていく太陽と、流れゆく海風があるだけである。もうこれ以上、何を望もうか。

懐かしき暴走族の響き

懐かしき暴走族の響き

昔、深夜になると近くの海岸線沿いの道路は暴走族で溢れ返り、ブォンブォン爆音を鳴らしていた。それが最近彼らの姿はどこへやら。

ところが先日、眠れずに朝3〜4時くらいまで起きていると、あの懐かしい響きが。昔はうるさくて煩わしく感じていたけども、いまや望郷の念みたいなものが心に芽生えてするのを感じるようになっていた。

バレンシアの海岸と変わらない

バレンシアの海岸と変わらない

近所の海岸に行くたびに、あのスペインのバレンシアで見た海岸と何ら変わりはないと思われる。

一見、バレンシアの海(海岸)の方が澄んでいて、綺麗で、波もあって、人々も陽気に踊ってて、みたいなイメージを膨らませるが、実は意外とそんなことはない。

バレンシアの海↓

なので、良い意味では近所を散歩するだけでバレンシアに行った気分になれるし、悪い意味では理想郷を追い求め、辿り着いた結果、そこは文字通り想

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葬送行進曲とレンブラント

葬送行進曲とレンブラント

これまで何度もベートーヴェンの交響曲第3番が好きって話をしてきたけど、とは言っても第2楽章の葬送行進曲は一向に好きになれない。

そんな中ふと出会った、ウィーンフィルとフルトヴェングラーの公演には度肝を抜かれた。まるで暗闇の中からほのかな光がぼわっと顔を出しては再び闇に溶けていくような。まさにレンブラントの絵画のような。絵を見るように音楽を聴くという体験は初めて。

「曲×指揮者×楽団×… 」と無

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カツラの面白さ

カツラの面白さ

カツラを想像するとオカシイのはなんでだろう?

それは本来自然に生える髪に人工的なものが置き換わっているからだと思われる。アンリ・ベルクソンは『笑い』の中で、同じことをずーっと繰り返す機械仕掛けは絶えず変化を続ける自然本性、つまり人間の本性とは異なるから笑うのだ、と言っている。何度も同じことを繰り返して笑いを取るお笑い芸人がいるが、その面白さの根源にはこういう機械的な性質があるからだと言える。

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無限を生きることの不可能性

昨日投稿した、無限性についてちょっと追記。

昨日は、「もし人間にとって無限の経験が可能ならば、一人一人の差異は消滅し、同一に収束する」という話をした。

ちょっと考えれば分かったことなのだが、これではそもそも無限の経験が可能なのか?という問題は解決できていない。無限の経験をしている間にも、無限の活動は行われていて、事象は無限に変化する。

昨日に引き続き、世界中の砂一粒一粒に無限回触れるという経

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有限を、無限を生きること

有限を、無限を生きること

タイトルについて、ふと思いついたことを殴り書きしていく。

人間は有限の存在である。そのため、それぞれが異なる経験をすることが可能になるし、ひいては唯一無二の個性を育んでいく。

では仮に人間が無限に生きられたらどうか。それは簡単な話で、無限の経験を得られるというだけだ。無限の経験は人間が全知全能になることを意味する。例えば、世界中に存在する砂一粒一粒に触れること、さらにその砂を無限回触ること、あ

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悪口を言うこと

昔はよく人の悪口を言って何度もトラブルを犯してきた。今振り返ればとんでもない極悪小僧だった。

最近は人の悪口は言っていない(と思っている)し、誰かの悪口を聞くこともあまり好きではない。まぁ悪口を言うことで自分の優位性を確保したり、集団を形成するという人間心理は理解できるけども。

というか、そもそも僕は人の悪い面に目が向かないようになってきていて、その考えの淵源には、やはり小林秀雄の批評精神が宿

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大都市を飛ぶトンボ

大都市を飛ぶトンボ

珍しく渋谷の街にトンボが飛んでいた。弱々しく飛んでいた。ふらふらとビルにぶつかりながら。

ここにはかつて草原が広がっていたはずだ。地球史という壮大なスケールで捉えれば、渋谷の街も草原であった時代の方が圧倒的に長い。遺伝子にはその頃の環境に適応する仕組みが強く刻み込まれており、決してコンクリートで構成された街には適応していない。

トンボの影にわれわれ現代人の姿を認めざるを得なかった。

書くという営み

書くという営み

noteには毎日テーマを決めた上で雑記を書いていくのだが、書いているうちに計画とは逸れた内容が頭に湧き上がってくることが多い。無意識の泉から自然と水が汲み上がってくるように、書こうと思うことが出てくる。

つまり、書くことでしか出会えない自分が見えてくる。ある作家が、創造とは何もないところから生み出すことなのだから、テーマを固めずに書け、というようなことを言っていたのも頷ける。文学や哲学書に作家の

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全集を読むこと

去年買った小林秀雄全集、32巻中10巻ほど読んだ段階からしばらく放っておいてたので、最近ちょこちょこ読んでる。

全集を読んでいると嫌でもその作家と日々対話しなきゃらならない。一緒に暮らしてる家族と毎日話すようなもんだ。粘り強く対話を続けていると、段々と作家の思想や見ている世界が伝わってくる。小林秀雄は、突き詰めれば作家自身の「姿」が見えると言う。人間が書いた文章を人間に戻す。全集を読むことはこの

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家に湧き出てくる虫は殺す?

家に湧き出てくる虫は殺す?

いつからか、家に出てくる虫を殺さなくなった。特に蜘蛛。見かけたら透かさずティッシュを持ってきて潰して殺していた。

どうやら家にいる虫を見ると拒絶反応を示すらしい。当時の不快感を思い返せば、そこには間違いなく、外のものが内に入ることを拒む意識が働いていた。養老孟司先生は、自然と都市を二分した文明が誕生した時期からこの意識が芽生えたと指摘されていて、ごもっともだと思う。

例えば、都市に鳥の死体があ

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雨に打たれること

雨に打たれるとき、昔は濡れるから嫌だな〜と思っていた自分も、今やちょっとやそっとの雨じゃ傘を刺さなくなった。

雨が肌に触れるとき、まるで自分が自然と溶け合うような感覚になるし、またひんやりした一滴一滴の水がチクチクと触覚を刺激するようで案外面白い。
もっと言えば、雨は自然の恵みのようにも思えるし、まるで干ばつ続きに悩む農夫が、雨にひれ伏すような気持ちに満ち満ちることも少なくない。

嫌なものも

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