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原武史『天皇は宗教とどう向き合ったか』 : 〈籠の鳥〉の悲しみ

書評:原武史『天皇は宗教とどう向き合ったか』(潮新書)

かつて、宗教学者の阿満利麿が『なぜ日本人は無宗教なのか』と同名書(1996)で問うたように、戦後の昭和においては、多くの日本人が、自身を「無宗教」であると思いこんでいた。これは、天皇を「現人神」と崇めて戦争を始め、その勝利を妄信していた、自ら愚昧さ、未開土人ぶりを恥じていたからでもあろう。要は、反動形成である。
しかし、そうした「恥ずかしい記憶」が薄れるにしたがい、人々は「信仰者」であることに、あまり恥ずかしさを感じなくなってきた。なぜなら、日本においては「無宗教は当たり前」で、むしろそれは「凡庸」なことでしかなくなっていたからである。

つまり、西欧の人々のように「倫理的基盤としての信仰」を持たない日本人は、だから「ダメなのだ」という、単に「トレンド」の追っかけでしかない軽薄な論調が徐々に広がってゆき、「人間にとって、霊的な部分はとても大切である」といった「洋物信仰としての猿まね(口まね)」が、なにか気の利いたもののように感じられるような雰囲気になってきたのだ。

そして、その結果としての「スピリチュアリズム」の流行であり、それがオウム真理教事件や多くの詐欺事件などと結びついて、多少「うさん臭い」と感じられるようになれば、今度は「絆」だの「癒し」だのといった「耳障りのよい言葉」を、「霊性の代替物」として、もてはやすようになったのである。

しかし、所詮その心性は「神国日本の天皇の赤子」のそれと、大きな違いはない。
基本的に「近代的な理性」を十分に身につけることのなかった日本人の、「先祖返り」的な現象に過ぎないのである。

敗戦後、マッカーサーとの第三回会見の席で、昭和天皇は「日本人の教養未だ低く且宗教心の足らない現在」云々と発言したり、侍従・徳川義寛に「宗教心を持たねばだめだね」「こういう戦争になったのは、宗教心が足りなかったからだ」などと、まるで自身が「宗教を知悉している」かのような講釈を垂れている(本書P124)。

しかしながらこれは、戦争中の「神国日本」とか「現人神」信仰みたいなものへの、その「信仰としての安直さ」への反省として語られている部分も、無いではなかった。
戦争に負けて反省してみれば、やはりあれは「政治的に演出された宗教」であり「苦しい時の神頼み」に近いものであったという反省が、そこには多少ともあったのであろう。
そして、こうした反省は、昭和天皇がカトリックに最接近した時に吐露されたものであってみれば、伝統あるカトリックに比べれば、せいぜい明治政府の都合ででっち上げられた「天皇崇拝」など、宗教としては薄っぺらなものでしかなかったし、それに天皇以下国民をあげて心酔してしまった日本人には、根本的に本物の「信仰心が足りない」のだ、という意味だったのであろう。

しかし、それを「お前が言うか」ということである。

昭和天皇が「宗教の素人」であったというのは、ハッキリしている。
たしかに「宗教家(神主)」であり「神」そのものであったことはあるのだが、「文化装置としての宗教」について、特別に詳しかったわけではない。「統治に必要な、最低限の宗教的教養」を身につけていただけで「宗教とは何なのか」ということを深く問い考察したことなどない、というのは、本書で紹介されているとおり、昭和天皇の「信仰」がフラフラしたものでしかなかった事実に明らかである。

つまり、当初は、天皇を「現人神」とする「国家神道」が政治的捏造でしかないことを理解していて、それを信じてはいなかったのが、戦争になって頼るものが欲しくなった時には、本気で「神に祈る」ようになっていた。しかし、その一方、権力に迎合的で、かつ長い伝統をもつカトリックにも「気分的」に惹かれ続けていた。
「気分的に」というのは、昭和天皇が、カトリックの歴史や教義や神学に詳しかったなどということは、あり得ないからである。

結局、昭和天皇の「信仰」というのは、そこいらのおじさんやおばさん、つまり「宗教に無知な、普通の人々」となんら変わらないのである。
「自分は、近代的理性を身につけた人間であり、論理的・科学的思考ができる」と信じており、そうした自己認識から、宗教というものを深く考察する必要も感じなかったのだが、いったん、思いがけない不幸や困難に直面すると、途端に「神頼み」を始めてしまい、場合によれば、宗教に帰依してしまうような人たちと、昭和天皇はなんら区別できるところのない「ただの人」だったのだ。
で、そんな凡庸な「ただの人」が「日本人の教養未だ低く且宗教心の足らない現在」とか「宗教心を持たねばだめだね」「こういう戦争になったのは、宗教心が足りなかったからだ」などという、身の程知らずのご高説を、恥ずかし気もなく垂れてしまえるのは、彼が日頃から「陛下」「陛下」と過分に持ち上げられていたが故の「勘違い」のせいに他ならない。

だから、天皇を「特別な人」だと考える「勘違い」も大いに問題ではあるが、自身を「特別な人間」だと考える天皇自身の「勘違い」も大いに問題だし、それは、いつの時代にも起こる得ることで、平成の明仁天皇や、令和の徳仁天皇にしても、決して例外ではない。
彼らも「宗教の研究者」ではない「ただの人」であり、家の宗教として「神道」を持っていて、歳をとってくれば、それがさも「実質のある真理」だと「勘違いする」ようになる怖れだって十分にあるのである。

だからこそ、彼らの「宗教に対する態度」は、厳しく注視され、検証されねばならない。
そうでなくても、日本国民は「天皇という(宗教的な)権威」が大好きなのだから、本書の著者のような宗教学者は無論、ものごとを客観的に観察して考察できる人間には、厳しい態度で「天皇という特権的な立場」を監視する義務があるのだ。

そしてそれは、ひいては天皇のためでもある。天皇や皇族を「神様あつかい」にするのは、彼らの『人格を否定する』ことに他ならないからである。
憲法によって「象徴」という「抽象的な形式」に押し込められた天皇を、それでも私たちと同じ「ただの人間」として、人間的に遇するには、「天皇という擬制」を厳しく監視し考察することだけが、天皇という存在に残された、せめてもの「人間への隘路」なのである。

言い変えれば、国民は、天皇に「特別に立派な人」であることを願うべきではない。
長所もあれば欠点もある「普通の人間」として、「ただの人」として、彼がすこしでも自然なかたちで生きられることを願うのが、彼の幸せを願う者の姿であって、「天皇は(皇后は)こうあらねばならない。あああらねばならない」という「非人間的な要求」を突きつけたがる「政治的右派(保守派)」というのは、結局のところ、天皇を「(統治)政治の道具」としか見ていない、功利的で自己中心的な人々でしかないのである。

私たちは「天皇や皇后」の『人格を否定する』のではなく、彼らがすこしでも「人間らしく」生きられるように、その「肩書き的束縛」から解放されるように、同じ人として、心をつくすべきなのだ。

『 もし天皇が「人間」になるとすれば、作家の坂口安吾が一九四八(昭和二十三)年に昭和天皇の戦後巡幸を批判するために著した「天皇陛下にささぐる言葉」のなかで述べたことが現実になったときでしょう。

《天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすすめる。これだけの自然な尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国になっている筈だ。
 私とても、銀座の散歩の人波の中に、もし天皇とすれ違う時があるなら、私はオジギなどはしないであろうけれども、道はゆずってあげるであろう。天皇家というものが、人間として日本人から受ける尊敬は、それが限度であり、又、この尊敬の限度が元来、尊敬というものの全ての限度ではないか》』(本書P215)

最後の部分『天皇家というものが、人間として日本人から受ける尊敬は、それが限度であり、又、この尊敬の限度が元来、尊敬というものの全ての限度ではないか』という言葉の意味が、理解できるだろうか?

ここで言われているのは「天皇陛下万歳!」だとか「沿道での旗振り」だとか「提灯行列」だとかいった「過剰な行為(好意)」は、天皇が『人間として日本人から受ける尊敬』の『限度』を逸脱したものであり、すなわちそれは「神様あつかい=非人間あつかい」だということなのだ。それは、天皇の『人格を否定』する行為(好意)に他ならないのである。

だから「誉めればいい」というものではない。むしろそれは、無自覚な「ほめ殺し」でしかないことを、深く認識すべきなのである。

『 フランスの哲学者、ブレーズ・パスカルは、『パンセ』(略)のなかで、「壮麗な宮殿の中にいて、四万の親衛兵にとりかこまれているトルコ皇帝を、ただの人間だと思うためには、よほど澄みきった理性を持つ必要があろう」と述べています。十七世紀のオスマン・トルコに対するパスカルの指摘は、現代の天皇制にも十分当てはまるのです。』(P220)

〈籠の鳥〉の心の声に、耳を傾けられる人は、決して多くはない。

初出:2019年5月1日「Amazonレビュー」

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