記事一覧
ポスト漫才ブーム 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(17)
桂文珍の大躍進
漫才ブームでスターダムにのし上がった若手漫才師たちや明石家さんまは、テレビ業界では、その存在感を確固たるものにしていた。しかし、前章で述べた通り、全国ネットのゴールデン枠でのMCの地位にある桂文枝(当時は三枝)や西川きよし・横山やすしを脅かすには至っていなかった。
また、これも前章で述べた通り、笑っていいとも!には当初、漫才ブームのスターたちは誰もキャスティングされず、吉本の芸人
ヤングおー!おー!で急成長 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(10)
テレビ番組制作開始
前出の(8)でも述べたように、大阪の民放である毎日放送がテレビ局をオープンするタイミングで、吉本の演芸復活が時を合わせてスタートしたのは象徴的な出来事だ。
昭和初期に、ラジオというマスメディアを使って芸人、劇場のプロモーションを行い大成功した吉本が、このテレビという、人々の娯楽のみならず消費行動などライフスタイル全般までも大きく変えていくメディアに乗らないわけがない。それが証
若手の台頭 深夜ラジオから快進撃開始 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(9)
松竹に追いつけ追い越せ
昭和40年代(1965〜1975年)、一般家庭ではテレビが居間に1台しか無く、家族全員でそれを観ていた。家庭内にはチャンネル権というものがあり、お父さんがナイター中継や大河ドラマを観ている間は、子供たちは他のチャンネルの番組を観ることができなかった。たまたまうちの親父は野球より喜劇や演芸が好きだったので、僕も幼い頃からそれに触れることができた。
とはいえ、吉本の人気番組と
戦争に砕かれた海外への夢 (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(6)
吉本は世界を目指す
1934(昭和9)年、マーカス・ショウ招聘で大成功を収めた林弘高の海外進出意欲はますます高まっていった。また、興行的な成功のみならず、その当時のアメリカのライブ・エンタテインメントの最高レベルを目の当たりにして、プロデューサーとして大きな刺激を受け、日本の新しいボードビル・ショーを作ることに心血を注ぐ事になった。それが、海外展開まで視野に入れた吉本ショウである。*日本のショウ
次は映画へ。 そして戦地慰問 (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(5)
映画進出
マーカス・ショウを興行的に大成功させ、東京に大劇場を作り、新しい「吉本ショウ」という演物が大当たりと順風満帆の東京吉本と林弘高。また日劇でマーカス・ショウ公演があった同じ時期に、新橋演舞場で「大阪吉本特選漫才大会」(萬歳から漫才へと表記を変えた最初の公演)を大成功させていた兄の正之助。舞台実演の世界で大成功した彼ら二人が、それと並行して熱を入れて進めていた事業が映画であった。
劇場で
日本のショウビジネスの始まり (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(4)
林弘高の入社
エンタツ・アチャコのコンビが解散し、春団治が亡くなった1934年(昭和9年)に、東京吉本ではアメリカから「マーカス・ショゥ(当時の垂幕を見るとショオとなっているが)」を招聘し、日劇で上演した。日本で始めて「ショウ」と名の付く興行であった。これが日本のエンタテインメント界に与えた影響はとてつもなく大きかったが、その興行を大成功させたのは、正之助ではなく、吉本せいと彼の実弟である林弘高
萬歳から漫才へ 春団治ラジオに出る (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(3)
全国萬歳座長大会
萬歳人気が高まった1927年(昭和2年)12月、道頓堀にある松竹所有の弁天座を借りて「全国萬歳座長大会」を開催、大成功を収めた。
弁天座は、花月などの寄席小屋と違って、キャパ1,500人を誇る一流の劇場だった。これは、萬歳が、庶民にだけ人気がある低級な芸能ではなく、ちゃんとした大人も楽しめる芸能になった証左となり、その興行価値を高める結果となった。
自ら所有する劇場で、その
落語から萬歳へ 主力商品の転換 (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年 (2)
創業からわずか10年で上方演芸界を制覇し近代芸能プロダクション制度を確立した吉本だが、実は東京進出もこのとき同時に果たしている。
1922年には、東京神田の「川竹亭」を買収し、「神田花月」と改名し東京での事業を開始するのである。
1980年代初頭、東京連絡事務所を開いた頃、「漫才ブームで調子に乗って大阪者が東京出てきてチョロチョロしやがって」と放送局や東京のプロダクションの社員に言われたことが何度