萬歳から漫才へ 春団治ラジオに出る (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(3)       

全国萬歳座長大会


萬歳人気が高まった1927年(昭和2年)12月、道頓堀にある松竹所有の弁天座を借りて「全国萬歳座長大会」を開催、大成功を収めた。


弁天座は、花月などの寄席小屋と違って、キャパ1,500人を誇る一流の劇場だった。これは、萬歳が、庶民にだけ人気がある低級な芸能ではなく、ちゃんとした大人も楽しめる芸能になった証左となり、その興行価値を高める結果となった。


自ら所有する劇場で、そのパワーを見せつけられた松竹は、興行会社として萬歳に大きな可能性を見つけ、座長大会が終わってすぐに吉本の萬歳師を引き抜きこうとする動きを見せ始めた。松竹と吉本の因縁の始まりである。
吉本がそれを見過ごすはずもなく、林正之助は単身で松竹本社に乗り込み、白井松次郎社長に直談判し「吉本の芸人は引き抜かない」という一札を取りつけた。正之助は、刺し違える覚悟で臨み、かなり年長の興行界の大物に対し、実際そう脅かしたらしい。事実はどうか知らないが、その後の彼の行動をみれば本当だっただろうと推測するのが正しいだろう。
松竹の名誉のために付け加えておくが、翌年、松竹は最高の人気実力をほこる砂川捨丸をメインに弁天座と浪花座で五回も萬歳興行を行い大儲けした。
砂川捨丸は、再三の吉本からの春団治並みの破格のオファーを、萬歳が見下されていた時代から所属していた樋口興行部に義理立てし、断っている。

その後、萬歳人気は高まる一方で、翌1928年には吉本所属の萬歳師は48組を数え、観客動員も萬歳中心の寄席が落語中心のそれを数倍上回るほどになっていた。
花月のプログラムは、落語中心でその合間に色物を挟むという構成だったが、吉本は次第に萬歳へと比重を移していく。

卑猥低俗な内容から、一般に受け入れられる大衆芸能へと不断の努力を繰り返してきた萬歳に対し、時代と顧客のニーズに応えない当時の落語家達を、吉本発行の雑誌「笑売往来」の中で林正之助は「昔のお客様は落語をようく聴いて呉れたが、今は真から落語の味の判るお客様が少くなった、と云ふ人があるかも知れない。だが、それは間違った考へであります。顧客あって始めて存在する演芸者としては、自分の芸に顧客を同化させるのではなくて、顧客の求めらるる所に進まなくてはならないのであります。昔のお客様が蘇らない事、明らかであるからには、新しい時代のお客様を目標に、所謂ごきげんを取り結ばねばなりません」と批判している。
吉本は常に「大衆とともに」なのである。

また、この頃の正之助は、東京の演芸の中心浅草への進出を狙っており、演物として萬歳だけでなくオペラ、ヴォードヴィルなども開発するため劇団スズラン座を作り大阪で上演し成功している。


1929年ウォール街の株大暴落から始まる世界大恐慌の影響で日本も不景気に襲われた1930年(昭和5年)からの5年間は、吉本にとって非常に大きな転換点となった。

十銭萬歳

1930年、大不況の最中、正之助は大胆な施策を打ち出す。
千日前の南陽館を萬歳専門の劇場とし、入場料をわずか10銭という破格の安さに設定した。10銭で当時何が買えたかというと、そば・うどん・ラーメン、コーヒー1杯、森永キャラメル1箱(20粒)等なので、どのくらい破壊的な価格設定かが分かるだろう。
不景気な世の中で、笑いで憂さを忘れさせてくれる娯楽として、また寂しい懐にも優しい低価格戦略で、吉本の寄席として記録的な集客を記録した。それは、今まで萬歳を観に来たことがなかった人が新たなお客様になったということであり、特に学生やサラリーマン等のインテリ層も劇場に足を運んでくれるようになり、見事に新規顧客獲得に成功したのだ。サラリーマンの一日のお小遣いが50銭程度であったようだから、タバコを一箱買う感覚であっただろう。奈良で名作「暗夜行路」を執筆中だった文豪志賀直哉も、息抜きに何度も南陽館を訪れたそうだ。
性別年齢を問わず、すべての層にエンタテインメントを届ける吉本の面目躍如である。

翌年、大阪の南陽館近くに本社を置く高島屋が「十銭ストアー」をオープンし、チェーン展開し、その後他社でも同様の店を展開していくことになる。今の百円均一ストアの原型であろうか。大正の終わりから、アメリカのテンセントストアを研究して長堀でテストをしていたということなので、吉本のマネをしたわけではないだろうが、「十銭」ブームの火付け役が南陽館であったことは間違いないと思う。十銭で寿司を提供する「萬歳寿司」という「くら寿司」などの原型のようなものまであったというのだから。

その年の3月、萬歳人気を更に盛り上げるために、千日前の三友倶楽部で万歳舌戦大会という人気投票を開催した。10日間の大会期間中に30銭を支払った入場客に、1票の投票権が与えられ、後援の大阪日日新聞紙上で途中経過が発表された。芸人間では親戚や知り合いに投票を依頼するなど大変白熱したという。今も昔も考えることはそう変わらないのだ。
結果は、2位に1,000票以上の大差をつけて花菱アチャコ・千歳家今男のコンビが優勝した。
しかし、このコンビも2ヶ月後には解散しなければならなくなる。
横山エンタツをスカウトしてきた正之助の勧めで、アチャコが彼とコンビを組むことになるからである。勧めでというか、吉本が半ば強制的に組ませたのではないかと思う。
現代のしゃべくり漫才の祖、エンタツ・アチャコの誕生である。

正之助が、一番人気のコンビを解散させてまで組ませた新コンビには、大きな期待と、それなりの勝算があったのだろうが、これは大きなギャンブルでもあった。だが結果を見れば、この二人をコンビにしたことが、彼の類まれなる興行師、プロデューサーとしての最大の功績であったと言える。
萬歳から万才、そしてこの3年後には漫才と表記が変わるが、彼らが萬歳に対して行ったことは、紛れもなくイノベーションである。
着物姿で、一人が鼓、もう一人が扇子を持って、歌い囃すのが萬歳という時代に、洋服を来て一人称を僕、二人称を君と言い、サラリーマンが日常の会話に取り上げる題材で、楽器、音曲を使わずしゃべくりだけで展開する。
今では当たり前の芸も、当時のお客様にとってみれば「こんなん萬歳ちゃう」と感じられたことだろう。実際、最初は「ごちゃごちゃ云うてんと、はよ萬歳やらんかい」などと客席から野次られたりしたようだ。
だが正之助の見込み通り、この新しい形態は都市生活者達に受け入れられ、そう時を置かず、アチャコ・今男のコンビの人気を遥かに超える全国的人気を獲得するに至る。

春団治ラジオ出演事件

萬歳が大きな変革を起こし、ますます人気を博していく中、低落傾向にあった上方落語界にあって一人気を吐いていたのが初代桂春団治である。
エンタツ・アチャコが結成された、まさにその年、1930年(昭和5年)に彼は騒動を引き起こす。
それまで、吉本は所属芸人をラジオには出演させてこなかった。JOBK(現NHK大阪放送局)が本放送を始めたのが1926年(大正15年)だから、他所の芸人が出演しているにも関わらず、頑として出演を断ってきたのだ。
その理由は簡単で「ラジオでタダで落語や萬歳が聴かれたら、劇場にお客さんが来んようになる」というものであった。興行会社としてはストレートな反応だと思う。
僕と同期の竹中功は、その著書の「吉本興業史」で、「実際は、それだけではない。ラジオを聞いて、それまで寄席に来たことがない、いわば素人の客が押しかけてくるようになると、寄せ本来の空気がそこなわれてしまいかねない。それによって、寄せの魅力が失われるのではないかと懸念されたのだ。」と書いているが、いくら身内のこととはいえ、いささか買いかぶり過ぎではないかと思う。そんな高尚なことは考えておらず、「どんなお客様でも来てくれはったらええお客様や」が正之助の哲学ではないかと思うのだ。
それはともかく、春団治は会社が禁じているにも関わらずラジオに出演してしまう。
吉本側も事前にその事実はつかんでいたので、当然放送を邪魔しようと思って、社員たちが放送時間の随分前から上本町のJOBKの放送局社屋を見張っていたが、春団治は現れず、しかしラジオからは彼の演ずる「祝い酒」が流れてきた。何のことはない、邪魔されるのを察知したJOBKは大阪中央放送局ではなく京都の放送局から生で発信していたのだ。おまけに朝日新聞を呼んで放送時の様子を報道させた。吉本は二重三重にコケにされたわけである。
これを知って正之助が怒らないわけはなく、即座に謹慎処分にし、契約不履行(ラジオに無断で出演した場合は会社からの借金を一括返済する等の内容)で、家財道具を差し押さえに入ったのだが、春団治がその差押札を一枚剥がし自分の口に貼って「そんなもん押さえてもなんぼにもなりまへんで。一番カネになるのはこの口や」と言って、朝日新聞の記者に写真を取らせ記事にもさせた。

またもコケにされた吉本は、あんな勝手を許して良いのかクビにしろとい他の所属落語家からの声もあり、契約解除も考えていたようだが、ラジオを聴いて、新聞で騒動を見たお客様が劇場に詰め駈け「春団治を出せ」と口々にいうので処分を決めかねていた。
そんな中、二代目林家染丸を代表として落語の幹部連中が、春団治の復帰を許してくれと吉本に申し出た。これを渡りに船と、吉本は出演禁止を解除し、春団治は劇場に戻ってきた。
その人気は凄まじく、春団治見たさに劇場にお客様が溢れたという。
これで、ラジオというマスメディアの多大なパブリシティ効果に気付いた吉本興業は、新しいメディアが登場する度に、そこに最適のコンテンツを提供して戦略商品化していくというDNAを獲得した。後に、テレビやインターネットでの成功をもたらした素地がこの時点で出来上がっていたと言える。パフォーマーやコンテンツは、その表現をメディアに制限されるということについては、章末にまとめる。

とはいえ、NHKとの確執はまだ続いており、お互いに歩み寄り和解して、南地花月から始めて寄席中継を行ったは4年後の1934年(昭和9年)6月10日であった。大正末に本放送を始めたことを考えれば、随分時間がかかったともいえる。


ここでラジオ初出演となる人気絶頂のエンタツ・アチャコが、その代表作「早慶戦」を披露し、全国にその面白さを届けた。
しかし、その二ヶ月後にエンタツ・アチャコは解散、その直後の10月6日に春団治が亡くなっている。

それから、1930年(昭和5年)には大きな事件がもう一つあった。
3月に行われた花月の興行で「東都名門の才媛特別出演」の謳い文句で、本居長世のピアノ伴奏による本居若葉・貴美子・みどり三姉妹の童謡と舞踊というプログラムが組まれたが、後援会からの激しい抗議を受けた。名前からお分かりの通り、本居長世は江戸時代の国学者本居宣長の子孫で和歌山学党6代目にあたる名門の出である。彼の後援団体は、大阪の寄席に出演するなど「名を汚すこと甚だしい」と激怒し、大阪の支援者は大阪駅に出迎えて本人に向かい翻意を促したほどだった。いかに寄席がある階層からは社会的に低く見られていたのかがよく分かる逸話だ。
芸能の世界が社会的に低く見られていること、中でもお笑いの地位が、その多大な人気にもかかわらずとりわけ低く見られているということは今も続いている。闘いはまだまだ続くのだ。

ラジオというマスメディアの登場で、演芸というジャンルに大きな変革がもたらされたのだが、そこでは売れる芸人の質も変わっていく、言い換えればそのメディアに合った芸人を送り込まなければ売れないということだ。
ラジオは音声メディアだから、寄席中継をしてもアクロバットや奇術の凄さは全く伝わらない。
春団治はラジオに出る前に、夥しい数のレコードを出している。当時のSP盤レコードは3分しか入らない。ダイレクトカッティングだから録音も一発勝負だ。そんな条件の中で長尺の落語のネタを起承転結が崩れないように端折りながら3分でまとめて、且つ笑わせる能力が、春団治は突出してたといえよう。今だったらCDには72分入るのだからそんな心配はない。

この話を大学の講義などで話す場合、講義台の上の水が入ったペットボトルを例に話すことが多い。
つまり、コンテンツは水で、メディアがペットボトルである。
コンテンツは、水だけでなくコーヒー、ジュース、アルコール等々いろいろある。またメディアもペットボトルだけでなく、コップ、缶、ビン等色々変わる。同じペットボトルでも500mlのものもあれば、2Lのものもある。
音楽の場合、塩ビレコードのLPは片面23分が標準だった。裏表で46分というサイズのカセットテープが録音用に発売されていたくらいだ。ということは、当時の音楽アーティストはアルバムを作るときには46分が埋まる曲を作ればよかったのが、今は72分になった。
DVDも2時間だったが、ブルーレイディスクになると3時間、6時間入る。2時間以上ある映画も一枚に収まるのだ。

そのメディアが持っている本来の機能だけで区分け(タイムシフトなどは考慮せず)

芸人も、劇場しか無い頃であれば、寄席のキャパは200名程度なので一日に観てもらえるお客様はせいぜい千人程度だ。マイク、PAの導入でキャパが増えたとしても寄席ではせいぜい数千人だが、今テレビに出演すればその1万倍もの人が観ることができる。
目の前のお客様だけを笑わすだけでよければ、舞台から転げ落ちたり、お尻を出したり、お客さんいじりをやってでも何とかやっていけるかもしれない。しかし、テレビの視聴者は基本的に木戸銭も払ってないし、特に出演者のファンではないことも多く、そんな1,000万人を笑わす芸人が求められる。

メディアの進化はテクノロジーの進化でもある。テクノロジーにキャッチアップできない者は、メディアに乗れない、つまり「売れない」し「ヒットを出すことができない」のだ。

1930年(昭和5年)だけで本章は終わってしまったが、ここから5年は吉本にとって基礎を作る重要な時期だけに、次章でも念入りに解説したい。

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