若手の台頭 深夜ラジオから快進撃開始 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(9)

松竹に追いつけ追い越せ

昭和40年代(1965〜1975年)、一般家庭ではテレビが居間に1台しか無く、家族全員でそれを観ていた。家庭内にはチャンネル権というものがあり、お父さんがナイター中継や大河ドラマを観ている間は、子供たちは他のチャンネルの番組を観ることができなかった。たまたまうちの親父は野球より喜劇や演芸が好きだったので、僕も幼い頃からそれに触れることができた。
とはいえ、吉本の人気番組として「吉本新喜劇」が健闘していたものの、落語漫才の演芸分野では、松竹の角座から中継される「道頓堀アワー」がその出演者の豪華さで吉本を遠く引き離していた。落語では六代目笑福亭松鶴三代目桂春団治、漫才では中田ダイマル・ラケット夢路いとし・喜味こいし、音楽ショーでは、かしまし娘宮川左近ショー横山ホットブラザーズなどなど錚々たる大阪の名人上手、人気者が揃っていた。
林正之助はこの状況をみて、「なんや、うちは小文枝やら小米朝(後の月亭可朝)やら、小が付いてる奴ばっかりやないか。もっとええのん出せんのか」と言ったらしい。大先輩の社員から聞いた話なので真偽の程は定かではないが。
ただ、戦前から芸人を他社に引き抜かれるという苦い思いをしてきた吉本興業は、それをせず、若手芸人を売り出していくという道を選択した。当時の吉本には新人を育てるしか選択肢がなかったのかもしれないが、上がいないという開放感からか、若手芸人達がのびのびと若い人に受け入れられる新しい芸風を打ち出し始めた。

笑福亭仁鶴の登場

その芸を存分に発揮することができたのは、誰も見向きもしなかった深夜のラジオだった。
その嚆矢となったのは、1966(昭和41)年12月に放送が始まったラジオ大阪(OBC)「オーサカ・オールナイト 夜明けまでご一緒に」だった。その火曜日担当として、「ごっきげんよう~」という第一声から始まり夜中の2時半から明け方の5時半までノンストップで喋り続け、瞬く間に受験勉強中の高校生や深夜に働く人々の人気者になったのが当時29歳の笑福亭仁鶴である。
仁鶴は、初代桂春団治に憧れ落語家になったのだが、六代目笑福亭松鶴の弟子である。師匠が松竹芸能所属なのに、何故弟子の仁鶴が吉本に来たのかについては、吉本所属の三代目林家染丸が、「仁鶴は吉本でやらせてみいひんんか?松竹より、こっちのほうが向いてると思う」と松鶴に言って同意を取り付けたというのが定説になっているが、当事者が皆鬼籍に入っている今では確かめようがない。ただ、仁鶴の吉本所属が1963(昭和38)年なので、その前年に京都花月をオープンして、出演者の層を厚くしたい、所属芸人を増やしたいという吉本の意図を汲んで染丸が若手の有望な落語家を探していたという可能性はかなり高いと思われる。いずれにせよ、仁鶴の吉本入は偶然ではなかった。
これは、この後の吉本興業の発展に大きな影響を与えることになる。大きな影響どころか、吉本興業演芸事業の復活は、この人なしには語れない。

仁鶴は、OBCの「オーサカ・オールナイト夜明までご一緒に」続き、1969(昭和44)年4月に朝日放送ラジオ(ABCラジオ)「ヤングリクエスト」で「仁鶴頭のマッサージ」というコーナーを始める。このコーナーが、受験勉強中の高校生だけでなく、もっと若い中学生をもリスナーに取り込み若者の間で人気が爆発した。独特のアクセントで語る「どんなんかなぁ〜」や「なんてことをねぇ」というセリフが流行語になったり、オッフェンバックの「天国と地獄」のメロディを「まーんまかまかまんまんまかまか・・・」と歌うだけで一般人にも真似されたりした。大塚食品のボンカレーのCMの「三分間待つのだぞ」は一大流行語となった。
その人気は若者だけでなく大人にも広がり、テレビに進出。
1969(昭和44)年スタートの初レギュラー番組、朝日放送「仁鶴とあそぼう!」で子供たちの支持も集め、大阪一の人気者になっていった。他にも、続けざまに在阪各局で、朝日放送「仁鶴・やすきよのただいま恋愛中」関西テレビ「とにかく仁鶴」毎日放送「こんばんは仁鶴です」等が始まり、押しも押されぬスターになった。吉本にとっては、テレビから大スターになった最初の芸人である。
また、その哀愁を帯びたハスキーボイスで数枚のレコードも出しており、中でも「おばちゃんのブルース」(テイチク 1969(昭和44)年)は後世に残すべき名曲だと思う。
そのような八面六臂の活躍の傍ら、花月劇場への出演も続けていた。
仁鶴をひと目見ようというお客様で劇場は溢れかえった。当時劇場勤務だった先輩に聞くと、立ち見をいれてもキャパ1,000名程度のなんば花月に2,500人以上のお客様を入れていたそうだ。入場扉が閉まらず、ロビーに溢れたお客様が背伸びしたり飛び上がったりしながら舞台を観ていたらしい。舞台上手のめくりが「仁鶴」に変わっただけで、場内にどよめきのような笑いが沸き起こり、上演中は劇場が揺れたという。吉本の社員談なので、相当脚色されているとは思うが、それぐらいの人気であったし、会社にしてみれば演芸王国吉本復興の確実な手応えを感じることができたはずだ。

マスメディアの申し子 桂三枝登場

仁鶴の深夜放送ラジオデビューの翌1967(昭和42)年、もう一人の天才若手落語家がラジオデビューを果たす。前年に桂小文枝(五代目桂文枝)に入門したばかりの桂三枝(現 六代桂文枝)である。番組は、その年に毎日放送で始まった「歌え!MBSヤングタウン」である。そのテーマ曲と同様に、落ち着いた雰囲気の朝日放送「ヤングリクエスト」に比べて、「ヤングタウン」は、流す楽曲もフォーク中心でより若者にフォーカスした番組だった。出演者が変わりながら、2023年現在でも続いている長寿番組だ。1979(昭和54)年に三枝からパーソナリティーを引き継いだ明石家さんまは、いまだにこの番組にレギュラーとして出演している。
オーディションで採用された三枝は、番組開始当初こそ月曜の1コーナーだけの出演であったが、メインパーソナリティーの斎藤努アナウンサーの業務の都合で、半年後には週の後半の木曜ー土曜の司会を務めることになった。

パリでは五月革命があり、東京では東大紛争があり関西でも学生運動の最盛期であった当時、文化の担い手は間違いなく若者とりわけ大学生であった。その同世代で大学で同じ空気を吸っていた三枝は、その知的でスマートな話し方とルックスで、たちまち若者のオピニオン・リーダーの地位を獲得する。仁鶴とは違う売れ方、ファンの付き方であった。
そして、その下の世代の高校生、中学生も、男女を問わず「カッコいいアニキ」として三枝を追いかけ始めた。
ヤングタウンは、平日の夕方、毎日放送の千里丘放送センターのスタジオで公開録音を行っていた。出場するアマチュアバンドのオーディションも行われ、三枝の人気と興隆するフォーク・ロックブームが重なり、連日、中高生、大学生が往復はがきで応募した整理券を手に押し寄せた。アマチュア時代に、この番組に参加していたグループからは、ザ・フォーク・クルセダーズ(番組第一回目のゲスト)、ロック・キャンディーズ(谷村新司がアリスの前に組んでいたバンド)、五つの赤い風船、ジローズなどが後に大ヒットを生み出した。
ヤングタウンでは「ひとりぼっちでいる時のあなたに、ロマンチックな明かりを灯す、 便所場の電球みたいな桂三枝です」というキャッチフレーズを使っていた。ちなみに、関西大学の落語大学(関西大学では落研と言わないそうだ)時代の芸名は「浪漫亭ちっく」である。ただ、それが気障にならない絶妙のバランス感覚だった。また、彼が話す大阪弁も、コテコテベタベタのそれではなく、文字起こしすると標準語に近いがアクセントが関西という、若者の大阪弁であり、関西以外の人にも親しみやすいものであった。このあたり、ホワイトカラーの雑談のような言葉を使ったエンタツ・アチャコが起こした舞台上のイノベーションに相似している。今までの吉本に、というより上方演芸の世界にいなかった、新しいスターの誕生だった。

1958(昭和33)年生まれの僕も、ちょうどその頃が小学校高学年から中学生にあたるが、富山に住んでいたので、時々聞こえにくくなるフェージング現象に悩まされながら東京や大阪のラジオを聴いていた。
小学校高学年から、友人の兄などの影響で、ニッポン放送「オールナイトニッポン」を聞き始めた。主に聞いていたのが、斉藤安弘、今仁哲夫だった。やがて、オールナイトニッポンがラジオ大阪でも放送されていることを知り、その前の時間帯の番組が、とんでもなく面白いことを知った。それがラジオ大阪「ヒットでヒットバチョンといこう!」だった。桂春蝶桂小米(後の桂枝雀)吾妻ひな子コメディNo.1笑福亭仁鶴桂三枝など、僕の大好きなお笑い芸人達のラジオ番組で、毎晩、必死に聴いていた。
子供たちにはコメディNo.1坂田利夫が、アホの坂田としてダントツの人気者だった。特に関西テレビ「爆笑寄席」での坂田利夫は最高に面白かった。SABホールという劇場からの舞台中継だったと思うが、吉本新喜劇以上のスラップスティックで、セットもアバンギャルドで展開もアナーキーだった。当時若手の横山やすし・西川きよしコメディNo.1が、中田ダイマル・ラケット夢路いとし・喜味こいし月亭可朝などの先輩たちと体を使ったギャグの応酬でぶつかり合い、最後は全員マキザッパで殴り合うという、数多あるテレビコメディの中でも出色の作品だった。このローカル番組は、奇跡的に富山テレビで放送されており、僕も毎週楽しみに観ていた。

中学生になり、このバチョンを聴き始めてからは、オールナイトニッポンはあまり聴かなくなり、西岡たかし加川良杉田二郎谷村新司等の関西フォークのアーティストが出演する毎日放送「チャチャヤング」や、小島一慶野沢那智・白石冬美山本コータロー等のTBS「パックインミュージック」を聴いていた。

スピードスター 横山やすし・西川きよし

深夜放送ラジオからではないが、同時期に漫才でも吉本の将来のみならず漫才のスタイルそのものを変えることになる若手が登場する。
1966(昭和41)年5月に結成された、横山やすし(当時22歳)と西川きよし(当時19歳)のコンビである。やすしは、素人時代から天才少年漫才師と呼ばれていたが、なかなかコンビが長続きせず、レッツゴー三匹の正児、横山プリンなどとコンビ別れを繰り返し、きよしが4人目の相方である。
一方、きよしは、駆け出しの吉本新喜劇の端役であったが、お笑いにかける情熱と取り組む誠実な姿勢は人一番だった。漫才は初めてであったが、必死の努力でやすしに食らいついていった。
その二人のスピード感あふれる喋りと動きは、高度経済成長を続ける時代の動きにマッチし、人気を博した。コンビ結成の翌1967(昭和42)年には、上方漫才大賞新人賞を受賞し、その僅か三年後の1970(昭和45)年には上方漫才大賞を受賞し、漫才界の第一人者の地位と人気を獲得した。
また、朝日放送「かねてつトップ寄席」を皮切りに、朝日放送「シャボン玉プレゼント」朝日放送「プロポーズ大作戦」等テレビ番組の司会も数多くこなし、二人の際立ったキャラクターとテンポの良い掛け合いで不動の人気を誇り、東京の放送局でも数多くのレギュラーをこなした。

やすし・きよしは、漫才に大きなイノベーションを起こしている。近代萬歳の起源となる尾張萬歳の時代から、太夫がツッコミで才蔵がボケという役割分担が決まっていたが、彼らの漫才は、定形を破壊した、ボケとツッコミが変幻自在に両者を行き来するというものだった
そして、それより影響が大きいのが、ツッコミが筋を振って話を進めて行き、ボケがそれを混ぜ返し、ツッコミがたしなめ筋を戻していくという伝統的流れを、ボケ側が主導権を握ってネタ振りからオチまで喋り、絶妙のタイミングでツッコミが合いの手を入れるという形を作ったことである。後に、漫才ブームを牽引するツービートB&B島田紳助・松本竜介もこのスタイルを取っているが、これらのコンビは、ボケとツッコミがハッキリ役割分担されているところがやすし・きよしとは異なっている。そのため、ツッコミ担当のビートきよし島田洋八松本竜介の三人は、殆ど喋らず「よしなさい」「なんでやねん」「そんなアホな」ぐらいしか言わない(勿論、実際は合いの手以外にももう少ししゃべる)ということでうなずきトリオと呼ばれた。ダウンタウンも漫才では松本が話を進めるこの形であるが、コントやキャラクターを設定した漫才の場合は浜田が話を進める物が多い。

吉本新喜劇の隆盛

(8)で述べたように、1959(昭和34)年に吉本興業の演芸復活のスタートとして始められたのが吉本新喜劇であったが、仁鶴、三枝、やすし・きよしのニュースターが生まれた頃には、最初の黄金期を迎えていた。
開始時には、東宝などから人気喜劇役者を借りて上演していたが、自社の役者はまだ実力不十分で、松竹新喜劇のような人情悲喜劇を演じるのは難しいだろうという判断もあり、ひたすら笑いを貪欲に追い求めるドタバタ喜劇を作り続けた。しかし、この疾走感や体を張ったダイナミックな舞台は、高度経済成長の世相と大阪人の生理に合ったようで大人気を博し、路線変更が難しくなったことも合ったのではないかと僕は思っている。
授業が昼までの土曜日には、急いで家に帰って昼ごはんを食べながらテレビの吉本新喜劇を観るというのが、関西の子供たちのライフスタイルとして定着していた。月曜日には、新喜劇のストーリーやセリフ、新しいギャグなどについて学校で話し合わなければならない。富山に住んでいた僕も、富山テレビのおかげで毎日放送の吉本新喜劇(放送の番組タイトルは花月爆笑劇場だった)を欠かさず観ていた。
当時のスターは、なんと言っても岡八郎であり花紀京であった。この二人は、速射砲のようにギャグを繰り出す岡八郎と間合いと絶妙のボケで笑いを誘う花紀京という対照的な芸風であった。エンタツの息子という喜劇界のエリートの花紀京とアチャコの弟子で漫才師の経験もある岡八郎というバックグランドの違いも芸風に影響しているのかもしれない。
岡八郎のギャグには、「ガオーっ」、「くっさー」、「えげつなー」など、文字にすると面白さも何も通じないものや、「隙があったらどっからでもかかってこんかい!」といった後に「こう見えても空手やっとったんや。ただし通信教育やけどな」とか「こう見えてもなあ、学生時代はピンポンやっとったんや」といって舞台上全員がコケて大爆笑というものもあった。僕も毎週前後のセリフを覚えて、月曜に学校で再現していた。一方、花紀京には決まりのギャグというようなものはなく、独特の間合いで、話をずらしたりボケたりして笑いを取っていた。頻繁に使われたのは、借金取りに追われた人を匿って、追手が来て「あいつはどこや?」と聞かれて、匿った押し入れの前に立って両手を広げて「ここには絶対おれへんで」といってバラしてしまうというようなボケを絶妙の間合いとメリハリのあるセリフで爆笑を取っていた。


他にも、平参平原哲男桑原和男船場太郎らが中心となって、そのキャラクターとギャグで新喜劇を盛り上げていた。当然、月曜の学校では、岡八郎だけでなく、これらのメインキャストの真似もしなければいけないので、僕は、集中力を最大限に高めて放送を観ていた。
そして、その頃、吉本新喜劇に入団してきたのが、二代目博多淡海の息子の木村進間寛平だが、それは改めて第二期黄金期として取り上げたい。


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