戦争に砕かれた海外への夢     (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(6)        

吉本は世界を目指す

1934(昭和9)年、マーカス・ショウ招聘で大成功を収めた林弘高の海外進出意欲はますます高まっていった。また、興行的な成功のみならず、その当時のアメリカのライブ・エンタテインメントの最高レベルを目の当たりにして、プロデューサーとして大きな刺激を受け、日本の新しいボードビル・ショーを作ることに心血を注ぐ事になった。それが、海外展開まで視野に入れた吉本ショウである。*日本のショウビジネスの始まり参照
弘高は、マーカス・ショウ来日中に、そのマネージャーのチャールズ・ヒューゴと「娯楽演芸社」を作り、お互いの劇団を招聘し興行する内容の契約を結んでいる。海外からの招聘だけでなく、自社のショウを輸出することを、その時点で既に考えていたのだ。
招聘についても、1937(昭和12)年にラーテス・ショウ、1939(昭和14)年に再度マーカス・ショウを呼ぼうとしたが実現しなかった。日中戦争の勃発、激化、枢軸国加盟など戦時下の社会情勢がそれを許さなかったのだ。
そんな外部環境から、前章でも述べたように映画慰問事業に傾注していた吉本ではあったが、弘高は決して海外への夢を諦めていたわけではなく、チャンスをうかがっていた。
そんな弘高に、間もなく幸運が訪れる。1939年に開催されるニューヨーク万博の日本館の嘱託として欧米視察に派遣されることなったのである。そこに至る経緯が分かる資料には出会っていないが、想像するに、マーカス・ショウの招聘、興行の大成功の実績を掲げ、その時のビザ問題でも寛大で好意的な立場だった外務省に、弘高本人が積極的にロビー活動を行った結果なのだと思う。

欧米視察の旅

豪華客船に乗り込み横浜を出発した弘高は、目的地のヨーロッパにたどり着くまでに、アジア、中東、アフリカの諸都市に立ち寄りながら優雅な船旅を楽しんだ。やがて、スエズ運河を通り地中海に出て、ナポリを経てマルセイユに上陸する。そこから鉄道で花の都パリへと向かう。この年、オーストリアを併合したナチス下のドイツにも訪れたようだ。
そして、ヨーロッパからアメリカに渡る。視察派遣の目的がニューヨーク万博であるから当然だ。万博で世界に日本の文化を伝え、日本への観光も誘致する目的に沿って仕事もしただろうが、ニューヨークのブロードウェイといえば、ミュージカルをはじめとしたライブ・エンタテインメントの世界の中心である。そこで観たものは、衝撃的であったに違いなく、弘高は羨望の眼差しでそれを見つめただろう。当時既に世界有数の大都市東京から来たといっても、彼我の差は大きく、その現実に弘高は内心強く期するものがあったに違いない。

海外展開への布石

海外視察から帰った弘高は、東京吉本の社員にこう語った。

「まずはこうして無事にみんなの顔を見られて安心しています。
世界はとにかく広かった。いろんな所に私の好奇心をつつくものが転がっていて、五分の散歩のはずが、気がつくと1時間、2時間と経ってしまうのです。
しかしながら、その好奇心よりも増して覚えたのは嫉妬です。今回の旅はこの体に、目に、耳に、頭に、たくさんの嫉妬を刻んで帰ってきました。
だからこそ私は、これから、この世界で味わった嫉妬心に立ち向かい、ここ東京から世界基準のエンターテインメントを生み出していきたい。そう強く思うようになりました。
吉本興業が日本のエンターテインメント界を代表し、世界の鼻を明かすような組織になるべく、日々精進していきたいと思っております」
「ぜひ、世界の吉本興業になるため、みんなの力を貸してくれ!」

その決意を実行に移すべく、弘高は帰国後すぐに「吉本映画演芸配給株式会社」という会社を設立した。
本場ハリウッドで見せつけられた、その資金力、スケール、洗練されたスタジオ・システムに少しでも近づき、自社の映画を海外へも配給したいという希望を持って設立されたものだ。
また、映画だけでなく演芸の配給も業務に入れているのには、所属芸人を自社の劇場に出演させるだけでなく、映画やラジオなど他社のメディアにも出演させ強力な出演者を武器に、そこでもイニシアティブを取っていこうという思いが込められている。

残念ながら、設立から2年後の1940(昭和15)年、フィルム不足により映画の製作配給、輸出入は難しくなり、社名も「吉本演芸配給株式会社」と改名することになった。戦争の影響で映画の自社製作配給の夢は中断された。
残った演芸の配給、所謂エージェント業務の拡大について、新聞にこう語っている。

「これは紐育(ニューヨーク)のウイリアム・モーリスのやっている会社に倣ったものだが、まだ形式だけというきらいがあるが、いよいよ小屋を持たない芸人会社として独自の立場から今年はいやしくも演芸が入り込める場所には何処と言わず積極的に芸人を配給する段取りである」(読売新聞 昭和15年1月12日)

ウイリアム・モリスはアメリカの芸能エージェンシーでは老舗中の老舗だ。その影響力を見た弘高は、「これを日本でもやろう、吉本がそれになろう」と思ったのだろう。
ところが、これを活かすことになったのが、前章でも述べたように、戦地を含めた国内外への慰問事業であったのは皮肉であったとしか言いようがない。戦争が無ければ、日本最高峰のライブ・エンタテインメントである吉本ショウを海外へ輸出したかったに違いない。

アジアへの進出

弘高の野望は欧米だけでなく、アジアにも向けられていた。映画を一時諦め、慰問事業を拡大していた正にその年、1940(昭和15)年に、弘高は中国、満州を訪れている。目的は勿論、彼の地のライブ・エンタテインメントの状況を把握し、日本からどのような演物を送り込むか、また、日本に輸入するかを見極めることであった。
また、ソウルに進出し東宝と組んで黄金座を経営していたが、同年「京城宝塚劇場」と名前を変え興行を始めた。この劇場では、弘高がアメリカで観たコミックバンド「スパイク・ジョーンズ」に影響され、谷口又士に相談を持ちかけ日本流冗談音楽を吉本ショウに仕立て「谷口又士楽団と吉本スヰングショウ」として出演していた。

そして、この劇場をオープンする7年前の1933(昭和8)年には、裵亀子(ペクヂャ)と専属契約を結び、裵亀子朝鮮劇団を組織し花月などに出演させていた。
当時の資料によると、「女性ばかりの朝鮮よりのレビュー団であった。美人の裵亀子を座長に裵二姉妹、踊り子三十名、子役二十名という大所帯の絢爛たる舞台を披露。きらびやかな高級朝鮮衣裳のチマチョゴリの舞台は、龍宮城を連想させるがごとき派手さがあった。朝鮮民謡曲が多くアレンジされ、バラエティショーを中心に演じたが、時には、朝鮮哀話などを物語性のあるショー形式で見せ、一大人気を博した」とある。
彼女の叔母の裵貞子(ペチョンヂャ)は貴族の出ながら伊藤博文の愛妾で、日韓併合に際しても暗躍した人物であり、その手引で亀子は訪店軍閥の張学良と結婚させられそうになったこともあったようだ。
劇場では、吉本ショウの一環としてトリを取るほどの人気を誇っていたようだ。モダンなジャズバンドと伝統的な朝鮮舞踊が相まってエキゾチックなショーは日本の観客を魅了したのだ。
また、彼女に続き朝鮮楽劇団も日本や朝鮮の舞台やラジオ(JODK京城放送局。日本語と朝鮮語の二波放送していたが、敗戦によりこのコールサインは消えた)で人気になっていったが、裵亀子もこの楽劇団も、舞台上で太極旗を振ったり、それ舞台装置の意匠に使ったりして特高警察から警戒されていた。大阪公演で取り調べを受けた演出の李哲は「朝鮮の民族色を全面に打ち出す公演をするように」と吉本が希望したと答えている。利に聡い吉本が、在日朝鮮人が多く住む大阪でこのショーをやれば集客を見込めると思ったからという見方もあるが、僕は、リベラルな思想の持ち主でロマンチストでもあった弘高が強行したものだと思う。そのために、不本意ながら軍に協力しほとんど利益にならない慰問事業を行っていたのではないか。
弘高は、大学を卒業してすぐ社会党の新聞編集に関わっていたし、戦後GHQにより公職追放された共産党の細川嘉六の後援者だった。細川はその後、日中友好協会設立に尽力し、弘高は、その伝手で周恩来にも近付き国交回復以前から日中貿易にも携わっていたようだ。政治思想的にはリベラルな人であったようだ。

弘高が夢を描いていた欧米への公演は戦争によって砕かれてしまったが、海外への進出は吉本のDNAに深く刻まれ、現在に至るまで通奏低音のように流れ続けている。

林弘高の章が続くが、吉本興業といえば創業者の妻のせいとその弟の林正之助だけが語られがちであるが、吉本の事業に大きなイノベーションを起こしてきたのはその末弟の弘高であった。
だが、早逝した彼に関して語られたものは驚くほど少ない。小谷洋介くんが書いた「吉本興業をキラキラにした男林弘高物語」ぐらいである。

また、彼の足跡をたどっていると、現代の吉本にイノベーションを起こし、芸能プロダクション、興行会社から社会的公器へと変容させようとしつつある吉本興業HD会長の大﨑洋にイメージが重なるのである。だとすると、さしづめ僕は橋本鐵彦か(そんなええもんちゃうわ!と自分でツッコんでおく)。その具体的な根拠はこのあと戦後漫才ブームあたりから語っていくことになる。






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