(仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年 (1)      改革の遺伝子 吉本はそのスタートからイノベーターだった

2回目の投稿ですが、初回が(序)だったので、今回が(1)です。
幸いなことに、前回の投稿が「#マーケティング記事まとめ」というマガジンに追加していただいたお蔭で、1週間で1万を遥かに超えるビューを頂いて恐縮しています。マーケティングらしいことは何も書いていないのに。
タイトルで釣りやがったなと言われないように、頑張らなければ。

そもそも吉本的マーケティングといったって、僕が入社して20年ぐらい経ってMBAとか持っている人が入社してくるまでは、社内でマーケティングという言葉が出たことはなかった。その10年後には、猫も杓子もマーケティングと言い出して、「お前ら、マーケティングの意味をほんまに分かってんのか?」という状態になったのだけれど、それも吉本的といえなくもない。
SMBCのBusiness Navi によると、簡略化して言えば「商品を効率的に売るための仕組みを作ること」ということらしいが、吉本が生み出すプロダクツは多様な形態がある(工業的なプロダクトと違って、タレント・アーティストは強い意志を持っているのでので、販売戦略の中で不確定要素が大きい)ので、ここは広義の「顧客の欲求を満たすために企業が行うあらゆる活動の総称」と捉えたい。

それから、何度もイノベーションを起こしてないと企業は110年も存続しないので、「破壊的イノベーション」というのはちょっと言い過ぎかな「持続的イノベーション」の方が良いかなとも思ったが、今の芸能界のバラエティ・お笑いシフトを考えると業界に大きな構造変化をもたらしたのだから「破壊的イノベーション」で良いと結論付けてタイトルに使わせていただいた。

今年110周年だから、吉本興業の創業は1912年ということになる。吉本泰三・せい夫妻が、大阪天満の地にあった第二文芸館という劇場の営業権を買取り「文芸館」として寄席を始めたのが、その年の4月1日(諸説あり)。ここに至るまでもいろんなドラマが有るのだが、それは数多出版されている吉本興業本を御覧いただきたい。

せいの実家に金を借り、高利貸しからも借金してまで始めた寄席だが、ロクな出演者が集まらなかった。当時の寄席は落語がメインで、落語家が派閥を形成し寄席小屋と直接組んで興行を行っていた。その二大派閥が、桂派と浪花三友派であり、人気の落語家を擁して強い影響力を持っていた。当然、素人が始めた場末の端席(二流の小屋)に出てくれる人気落語家などいるわけがない。
それで手を組んだのが、同じく二流の寄席「富貴」の席主(オーナー)である岡田政太郎。「何でもええ。下手でもかまへん。安うておもろい演芸」を標榜し、「反対派」を名乗っていた彼から芸人の供給を受けて吉本興業はスタートした。この哲学は、しっかり吉本のDNAに埋め込まれているように思う。


その当時の出番表などを見ると、他の落語中心の寄席とは違い、色物が半分以上を占めている。色物とは、落語以外の演芸のことであり、浪曲、曲芸、手品、安来節等々を指す。中には「尺八ステテコ大文字屋踊り 佃家白魚」という、もはや今からではどんな芸か想像もできないものもチラシに書かれている。

こんな見劣りのする出演メンバーであったが、一流の寄席の入場料が15銭だったところ、文芸館は5銭という大衆料金(下足料2銭は、ちゃっかり別に取ってたらしいが)で、庶民の人気を集めた。その御蔭で借金も返済しお金が少し貯まると次々に寄席を買い取り、3年後の1915年には4軒の寄席小屋を手に入れた。更に、桂派(買収当時は衰退して寿々女会になっていた)の拠点である金沢亭を買収し、念願の一流寄席を手に入れた。因みに、僕が入社した当時の吉本興業常務取締役が金沢さんという方だった。

吉本泰三は、一流の寄席を手に入れても満足することなく、改革を進めていく。開館当時のチラシにその決意を語っている。
以下、抜粋して紹介しよう。

不肖当社経営に当たり内外部を改造いたすと同時に 名も花月亭と改め これまでの蓬莱館(金沢亭の当時の名*著者注)時代の悪弊風を去り お茶子表方にいたるまで改革し一大刷新を施し 落語反対派の定席として開演仕候

一流の寄席と言われていた金沢亭(買収当時は蓬莱館)に対しても、悪弊風を改革するとチラシに宣言しているのだ。泰三の並々ならぬ改革への意志が読み取れる。前近代的などんぶり勘定やお茶子や表方の個人営業的な関わり方など、合理的に組織運営したい彼には許し難かったのだろう。
このあたり、社業を顧みず妻せいに任せっきりという後世の小説などで語られている吉本泰三の人物像とはかなり異なるのである。
また、ご覧の通り、演し物も落語より諸芸の方が多い吉本スタイルになっている。
社名が吉本興行部ではなく芦辺合名社になっているのには諸説あるが、当時の資料から推察するに両者は同一と見て良い。
また、ここから吉本の寄席は「花月」という名前を使い始めるが、その由来には諸説ある。吉本百年物語では、「花と咲か月と陰るか、一か八か」を泰三に言わせ、「花は枯れてもまた咲く、月は欠けてもまた満ちる」という説をせいに言わせる脚本にして、両方紹介した。

それから四年後の1919年、泰三は北新地にある「永楽館」を買収する。これは三友派の拠点の一つで、吉本は最後に残った最大派閥も切り崩し始めた。更に彼は、三友派の主要メンバーである三升家紋右衛門を月給500円で吉本興行部に引き抜いた。ギャラ配分が非常に曖昧なシステムだった当時において、月給制というのは、天候や時候によって上下する興行の入に左右されず、実力と人気を正しく評価してくれるということで、三友派の中から追随者が続々吉本入りした。まさにイノベーションであったといえる。
「この制度は、芸人の借金を吉本に一本化し縛り付けるための方策だった」という言説を唱える人もいるが、それは偏見に基づく穿ち過ぎた意見であろう。吉本以外で借りるほうがはるかに高利で、返せないときは身の危険もあるのだから。
永楽館は名を改め「花月倶楽部」として営業することになった。

翌1920年、ともに落語反対派を支えてきた岡田政太郎が亡くなると、泰三は大改革を断行する。月給制に基づき明確な契約関係を築き、ルーズな管理をしていた芸人の借金についても厳しく管理した。出番順も芸人同士の格付けによる編成から、お客様の評価に沿って人気優先にした。今から思えば、あたりまえの近代化合理化と言えるが、当時の芸人にとっては大きな危機感を煽られたようで、翌1921年、改善を求めて70人ほどの芸人がストライキを起こしている。当然のことながら吉本はこれを拒絶、そのメンバーは吉本を去り「新反対派」を結成した。
その頃、一方では当代一の人気者である初代桂春団治を2万円の借金の肩代わりと月給700円で三友派から移籍させている。三友派の切り崩しが進むとともに、興行が上手くいかなかった新反対派も吉本に戻り合流して「花月派」は最大派閥になっていく。

そして翌1922年、大阪府保安課の働きかけもあり、三友派を吸収する形で花月派に合併し、創業から10年で吉本は大阪の演芸界を制覇したのである。
同時に、ここに関西初(日本初かどうかは知らない)の芸能プロダクションが成立したのである。


ここで吉本が最初に起こした破壊的イノベーションは、先ず、月給制を採用して芸人の生活を安定させ、劇場経営にも数値的指標を作り易くしたことである。今でこそ寄席以外にも収入源となるメディアが沢山あるので、月給制は批判の対象になるが、当時では画期的な制度であった。
そして、芸人同士の派閥によって寄席の出番、報酬、その他商慣習が決められていた演芸界を破壊し、寄席経営や所属芸人を寄席等に派遣する芸能プロダクション側に主導権を移したことである。これは、演芸会の構造を根本からひっくり返すものであり、まさに破壊的イノベーションに他ならない。
そしてこれ、マーケティング的に言えば、寄席を、芸人という供給側の論理に従った運営から、顧客である入場者、お客様本位の、そのニーズに応える形での寄席運営に変わったということだ。一流の寄席を手に入れた後も、大衆路線の端席を同じ情熱で運営してきたこともその証左となるだろう。

(2)に続く。


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