中井秀範

1981年吉本興業入社。34年間在籍後退社、2015年一般社団法人日本音楽事業者協会専…

中井秀範

1981年吉本興業入社。34年間在籍後退社、2015年一般社団法人日本音楽事業者協会専務理事就任、現在に至る。iU超客員教授、関西大学専任講師。ここに書く意見は、あくまでも個人的なもので、団体を代表して表明するものではありません。

最近の記事

再び東京へ 芸能界覇者への道 その2 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(16)

招かれざる大阪芸人 漫才ブームがあり、オレたちひょうきん族や笑っていいとも!が人気番組になっても、吉本の芸人が手放しで受け入れられたわけではない。 1980年代前半は、アイドル黄金時代であり、バラエティ番組も歌、そして歌手を中心に、それをワキで支えるお笑いタレントという位置付けであったし、バラエティ番組のプロデューサーやディレクターは、それまでに付き合ってきた芸能事務所と強い紐帯で結ばれていた。 そんなところに、突然の漫才ブームで、クセの強い大阪弁を話す芸人たちが東京の芸能

    • 再び東京へ 芸能界覇者への道 その1 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(15)

      入社一年目で東京に転勤 まことにいい加減な社風ながら、上が働かないので、新入社員の分際で結構自由に仕事ができて、それなりに居心地のよい会社員生活を送っていた。 当時の吉本は、極少数の売れっ子芸人にだけマネージャーが付けられており、それほど売れていない芸人は誰がマネジメントしても良いという不文律があったので、僕は「ひっとえんどらん」という自分と同世代の落語家のユニットのお手伝いをすることにした。メンバーは、桂小つぶ(現 二代 桂枝光)、桂三枝の弟子の桂三馬枝、笑福亭仁鶴の弟子

      • 新しいスターを創れ 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(14)

        マネージャー生活開始1981(昭和56)年7月、マネージャー生活が始まったが、桂三枝との初対面も、吉本特有のいい加減さで、好印象でのスタートとはいかなかった。 上司になった松田課長から「ワシ、会議があるさかい、先に関テレ行っといて」という大雑把でテキトーな指示を受け、「上司が同行して新入社員を紹介するのが普通ちゃうか?」と思いつつ取り敢えず関西テレビに到着したが、さあどこに行って良いのかわからない。廊下を歩いている人に「楽屋ってどこですか?」と聞けばいいのだろうが、不審者と間

        • 芸人の荷物を持つな 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(13) 

          不安の中、吉本入社1981(昭和56)年4月1日、一抹の不安を抱えながら僕は吉本興業株式会社に入社した。なぜ不安だったかというと、もちろん社会人になるという漠然たる不安もあったが、吉本興業という会社がどうもかなり「ええかげん」な会社ではという懸念があったからだ。 前にも述べたが、入社試験の面接もかなり「ええかげん」だったし、内定が決まった年末の内定者懇談会での人事担当者の対応や質問に対する回答もかなり「ええかげん」だった。同期の現謝罪マスターで元よしもとクリエイティブ・エージ

        再び東京へ 芸能界覇者への道 その2 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(16)

        • 再び東京へ 芸能界覇者への道 その1 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(15)

        • 新しいスターを創れ 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(14)

        • 芸人の荷物を持つな 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(13) 

          MANZAIブームでは終わらせない 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(12) 

          偶然か宿命か 吉本に入社することに 前章でも述べた通り、1977(昭和52)年に大学に入学し上京してからの僕は、富山で放送していた大阪ローカルのお笑い番組が観られずフラストレーションが溜まっていた。当時の東京には、土日なんか絶望的に面白い番組がなかった。たまに大阪の大学に行っている高校時代の友人のところに遊びに行くと、垂涎ものの番組が目白押しであった。その時ばかりは、関西の大学に進学すればよかったと後悔した。 そんな中、大学3年から4年生になるあたりで、80年の前半から漫才

          MANZAIブームでは終わらせない 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(12) 

          MANZAIブーム到来 東京再進出 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(11) 

          一夜にして 一晩にして売れっ子になる、マネージャーの電話が鳴り止まず、こなせない程の量の仕事が入ってくるというのは、M-1グランプリの優勝者に言われることである。ところが、一組の芸人にではなく、漫才という芸のジャンルそのものにそれが起こったのが、漫才(MANZAI)ブームだった。もちろん、一夜にして漫才師たちが一挙にスターになったわけではないが、一つの番組をきっかけに、沸々と膨張していたマグマが一瞬で噴火したように、漫才という溶岩がテレビの視聴者、劇場のお客様に火をつけてい

          MANZAIブーム到来 東京再進出 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(11) 

          ヤングおー!おー!で急成長 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(10)

          テレビ番組制作開始 前出の(8)でも述べたように、大阪の民放である毎日放送がテレビ局をオープンするタイミングで、吉本の演芸復活が時を合わせてスタートしたのは象徴的な出来事だ。 昭和初期に、ラジオというマスメディアを使って芸人、劇場のプロモーションを行い大成功した吉本が、このテレビという、人々の娯楽のみならず消費行動などライフスタイル全般までも大きく変えていくメディアに乗らないわけがない。それが証拠に、うめだ花月劇場の興行のメインの演物である吉本ヴァラエティは最初から放送する

          ヤングおー!おー!で急成長 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(10)

          若手の台頭 深夜ラジオから快進撃開始 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(9)

          松竹に追いつけ追い越せ 昭和40年代(1965〜1975年)、一般家庭ではテレビが居間に1台しか無く、家族全員でそれを観ていた。家庭内にはチャンネル権というものがあり、お父さんがナイター中継や大河ドラマを観ている間は、子供たちは他のチャンネルの番組を観ることができなかった。たまたまうちの親父は野球より喜劇や演芸が好きだったので、僕も幼い頃からそれに触れることができた。 とはいえ、吉本の人気番組として「吉本新喜劇」が健闘していたものの、落語漫才の演芸分野では、松竹の角座から中

          若手の台頭 深夜ラジオから快進撃開始 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(9)

          民放テレビ開局 そして、演芸の再開 (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(8)  

          演芸再開に向けて 映画製作は事業として失敗に終わったが、映画興行は好調を続けていた。1957(昭和32)年4月には地上3階地下1階の「梅田グランド会館」を建設し、地上を洋画封切館の「梅田グランド劇場」地下を東映系の封切館「花月劇場」とした。しかし、映画の観客動員がピークを迎えようとしている最中、社内でも演芸再開の声が上がり始めていた。 後に両者とも吉本興業の社長になる、常務の橋本鐵彦、事業部次長の八田竹男(僕が入社したときの社長)が中心となって当時社長の林正之助に直訴した。

          民放テレビ開局 そして、演芸の再開 (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(8)  

          芸人達との別れ 再びスタートラインに (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(7) 

          失われていく劇場 戦争に夢を砕かれたのは弘高だけではなかった。兄の正之助も、30年以上かけて築き上げてきた演芸王国を、戦争によって瓦解させられつつあった。 1944(昭和19)年3月20日、吉本は大阪府保安課長指令により大阪花月劇場、南地花月、新世界南陽演舞場を休業させられた。 一ヶ月後、大阪花月劇場だけは休業を取り消されたが、その一年後の1945(昭和20)年3月13日の大空襲で、舞台の一部と裏手の吉本興業の本社屋だけを残して焼失してしまった。戦時下でのお笑い興行の政府当

          芸人達との別れ 再びスタートラインに (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(7) 

          戦争に砕かれた海外への夢     (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(6)        

          吉本は世界を目指す 1934(昭和9)年、マーカス・ショウ招聘で大成功を収めた林弘高の海外進出意欲はますます高まっていった。また、興行的な成功のみならず、その当時のアメリカのライブ・エンタテインメントの最高レベルを目の当たりにして、プロデューサーとして大きな刺激を受け、日本の新しいボードビル・ショーを作ることに心血を注ぐ事になった。それが、海外展開まで視野に入れた吉本ショウである。*日本のショウビジネスの始まり参照 弘高は、マーカス・ショウ来日中に、そのマネージャーのチャー

          戦争に砕かれた海外への夢     (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(6)        

          次は映画へ。 そして戦地慰問     (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(5)        

          映画進出 マーカス・ショウを興行的に大成功させ、東京に大劇場を作り、新しい「吉本ショウ」という演物が大当たりと順風満帆の東京吉本と林弘高。また日劇でマーカス・ショウ公演があった同じ時期に、新橋演舞場で「大阪吉本特選漫才大会」(萬歳から漫才へと表記を変えた最初の公演)を大成功させていた兄の正之助。舞台実演の世界で大成功した彼ら二人が、それと並行して熱を入れて進めていた事業が映画であった。 劇場での実演は、いくら人気になっても劇場のキャパは限られていること、年に一回来るか来な

          次は映画へ。 そして戦地慰問     (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(5)        

          日本のショウビジネスの始まり    (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(4)      

          林弘高の入社 エンタツ・アチャコのコンビが解散し、春団治が亡くなった1934年(昭和9年)に、東京吉本ではアメリカから「マーカス・ショゥ(当時の垂幕を見るとショオとなっているが)」を招聘し、日劇で上演した。日本で始めて「ショウ」と名の付く興行であった。これが日本のエンタテインメント界に与えた影響はとてつもなく大きかったが、その興行を大成功させたのは、正之助ではなく、吉本せいと彼の実弟である林弘高である。 弘高は、姉のせいとは18歳、正之助とも8歳と、かなり歳の離れた末っ子

          日本のショウビジネスの始まり    (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(4)      

          萬歳から漫才へ 春団治ラジオに出る (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(3)       

          全国萬歳座長大会 萬歳人気が高まった1927年(昭和2年)12月、道頓堀にある松竹所有の弁天座を借りて「全国萬歳座長大会」を開催、大成功を収めた。 弁天座は、花月などの寄席小屋と違って、キャパ1,500人を誇る一流の劇場だった。これは、萬歳が、庶民にだけ人気がある低級な芸能ではなく、ちゃんとした大人も楽しめる芸能になった証左となり、その興行価値を高める結果となった。 自ら所有する劇場で、そのパワーを見せつけられた松竹は、興行会社として萬歳に大きな可能性を見つけ、座長大会

          萬歳から漫才へ 春団治ラジオに出る (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(3)       

          落語から萬歳へ 主力商品の転換  (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年 (2)         

          創業からわずか10年で上方演芸界を制覇し近代芸能プロダクション制度を確立した吉本だが、実は東京進出もこのとき同時に果たしている。 1922年には、東京神田の「川竹亭」を買収し、「神田花月」と改名し東京での事業を開始するのである。 1980年代初頭、東京連絡事務所を開いた頃、「漫才ブームで調子に乗って大阪者が東京出てきてチョロチョロしやがって」と放送局や東京のプロダクションの社員に言われたことが何度となくあった。だが、吉本は100年前に東京に寄席を持っていたし、この後どんどん出

          落語から萬歳へ 主力商品の転換  (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年 (2)         

          (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年 (1)      改革の遺伝子 吉本はそのスタートからイノベーターだった

          2回目の投稿ですが、初回が(序)だったので、今回が(1)です。 幸いなことに、前回の投稿が「#マーケティング記事まとめ」というマガジンに追加していただいたお蔭で、1週間で1万を遥かに超えるビューを頂いて恐縮しています。マーケティングらしいことは何も書いていないのに。 タイトルで釣りやがったなと言われないように、頑張らなければ。 そもそも吉本的マーケティングといったって、僕が入社して20年ぐらい経ってMBAとか持っている人が入社してくるまでは、社内でマーケティングという言葉が

          (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年 (1)      改革の遺伝子 吉本はそのスタートからイノベーターだった