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心斎橋  2丁目物語 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(19)

南海ホール改装

心斎橋筋2丁目劇場という名のイベントが徐々にお客様を集め始めた頃、また冨井善則から招集がかかった。今回は京都花月チームの大﨑と僕だけである。いつの間にか、なんば花月、うめだ花月のチームはフェードアウトしていた。社内のムードとしては、京都花月チームは逃げ遅れてババを引いたという捉え方をされていたと思う。
冨井からのオーダーは「来年、南海ホールを返してもらったら、きれいに改装して、吉本の新しい劇場にしたいから、どんな設備があって、どんな内装にしたいかとか考えてアイディアをくれ」だった。
このオーダーに対する答えは、この時点で既に決まっていた。ずっと大﨑と「近鉄小劇場みたいな劇場が欲しいなあ」と言っていたからだ。近鉄小劇場は、ダウンタウンが「今夜はねむれナイト」のレギュラーになった1985(昭和60)年10月にオープンした420席の演劇用の劇場である。華美な装飾は一切なく、壁面は防音になっているが、通路などコンクリート打ちっぱなしで、照明音響機材もむき出しで、座席も水道管のような鉄パイブにネジ止めされただけの簡易な椅子だった。それがカッコよくて、キャパは3分の1以下だったが、新劇場はほぼほぼそれをコピーした劇場になった。
勿論、吉本の劇場なので、テレビ放送には完全対応だ。狭いながらもちゃんとした副調整室があり、カメラ等の放送用機材も完備し、舞台中継はいつでも可能な体制になっていた。

そして、もう一つのオーダーが「新しい劇場の名前、何にする?」だったが、これも、「心斎橋筋2丁目劇場でええんちゃいますか。イベントで耳慣れてるし、ええ名前やと思いますよ。」という大﨑の一言であっさり決まったのだった。

稽古に明け暮れる日々

新劇場開場を1986(昭和61)年5月に控えながら、その3月21日に僕は結婚した。当時の手帳を見ると、3月28日(金)に新婚旅行から大阪に帰ってきた翌日の土曜日は出勤してるし、翌日曜も親戚に挨拶回りをしたあと、夕方からなんば花月で2丁目劇場の杮落しの芝居の稽古に立ち会っている。これに加えて、月に4回、京都花月の新喜劇の打合せと稽古、初日に立会い、仁鶴、文珍のテレビ・ラジオ、地方の落語会の現場、読売テレビの特番の制作というルーティンワークがある。新劇場の開場前は週に二三回稽古で徹夜していた。手帳に「7時10分帰宅」とか書いてあるのを見ると、当時の自分を憐れんでしまう。とんでもない新婚生活だった。

とはいえ、開場の日はどんどん近づいてくる。しかも、杮落とし公演の初日と二日目がダウンタウン中心の芝居「心斎橋2丁目物語」(芝居の方はタイトルに「筋」が入っていない)で、三日目に憂歌団のライブ、そして四日目にもSAMMA劇団というこれも芝居である。
SAMMA劇団は、MBSラジオのヤンタンで募集した座員なので、ほとんどが舞台に出るのが初めてという素人である。ラサール石井の脚本は、プロの若手芸人が演じることを前提に書かれているので、素人には、なかなかその通りにはできない。そもそも芝居の基礎も何もできていないのだから。演出の湊由美子が演技指導に力を入れてくれたが、彼女は2丁目物語も担当していたので、どうしてもスケジュールはそちらが優先になり、SAMMA劇団の稽古は、主役の村上ショージと僕とで進めることが多くなった。
2丁目物語も、出演者たちにとって初めての長尺の芝居ということで、稽古の時間はいくらあっても足りなかった。直前には、勿論、毎晩深夜まで稽古は続いたが、出演者を返してからも裏方の仕事は続く。道具の操作や、照明の切り替え、SEのきっかけ合わせなど、朝までテクニカルリハーサルは続く。僕は全員のセリフも舞台の出捌けも全て覚えていたので、演出の湊由美子と二人で立ち会った。ある日の朝方、ゴーッゴーッという大きな音がしたのでなんだろうと思ったら、客席通路のリノリウムの床で大﨑が大鼾をかきながら寝ていた。

心斎橋2丁目物語は、地元の幼馴染のヒロボン(ヒロタのシュークリーム屋のアホボン 松本人志)と浜ちゃん(浜田雅功)、その友達の、ますいわ屋(吉本本社の1階にあった呉服屋)のゆうた(岡ゆう太)、本町の0Lのシルク(非常階段シルク)、道具屋筋のOLミヤコ(非常階段ミヤコ)、アイドル志望のミチ(ピンクダック ミチ)、泉大津のヤンキーレイコ(ピンクダック レイコ)、そして道頓堀を挟んだ川向いの松竹館(当時、吉本の本社は道頓堀の北側の心斎橋筋2丁目にあり、道頓堀南に松竹芸能の本社と角座があった)のドラ息子のけんた(岡けん太)とその手下の板尾(板尾創路)、浜ちゃんのあこがれの人である松竹館のダンサーやすえ(未知やすえ)とそのマネージャーの内場(内場勝則)という登場人物で、心斎橋から道頓堀界隈を舞台にした青春群像劇だ。毎回、けんたが悪さを仕掛けてきて2丁目の仲間がピンチになると、ヒロボンがグリコのおっさんに変身して(その時はセットのグリコの看板からおっさんが消える)皆を助けるというストーリーが基本の枠組みになっていた。
音楽はすべてオールディーズで、ダウンタウンも踊るし、毎回踊るやすえと内場のペアダンスはなかなかのものだった。すべてのダンスの振付は、泉五十四郎。松本が、ごっつええ感じで演じている「はい、舞うでぇ〜」「次、ボックスやでぇ〜」と言うアフロヘアーとサングラスがトレードマークのダンスの先生のモデルである。2丁目物語でも、最終話で共演している。


前日に本読みと立ち稽古、当日の朝に舞台稽古して、その日に初日の本番というスケジュールで進む吉本新喜劇に慣れていた若手芸人には、稽古に1ヶ月かける芝居はいろんな面で随分負担が大きかったのだと思う。

浜田失踪

そんな稽古漬けだったある日、浜田が開始時間になっても現れない。当時はもちろん携帯電話もないので連絡の取りようがない。行きそうなところに電話してもいない。
皆で心配していたときに、稽古場のインターホンから「松本くん、電話やで」とお茶子(楽屋番)さんからの呼び出し。「おお」と稽古場の空気が期待に動いた。
数分後、怒りながら松本が稽古場に帰ってきた。
「おかんでしたわ。」
「なんて?浜田のことか?」
「ちゃいます。年金払えって通知来てるで。大丈夫か?って。こっちはそれどころちゃうねん、そんなんどうでもええわ、って言うたら、おかんが、おまえお上に逆らうんか?やて」
皆は落胆しつつ爆笑してしまった。そして、松本の独特の言語感覚はお母さんから受け継いだんだなあと思ったことを妙にハッキリ記憶している。
その日、浜田は、結局稽古には現れなかった。
翌日は、2丁目物語のプロモーションのために、お昼のABCラジオ聞けば効くほどやしきたかじん」に出演する予定だったので、どう言い訳しようかデスクで考えていると浜田から電話がかかってきた。
「中井さん、すいません」
「いや、昨日のことはええねん。今日のラジオは来てくれるな?」
「はい。すいませんでした」
ということで一安心したものの、胸騒ぎは収まらず、未知やすえと一緒に松本の車に乗って朝日放送に向かった。
局から300メートルほど手前の信号で停車したら隣が浜田の車だった。
「あっ、浜田や!」と僕が言うやいなや、やすえが松本の車から降りて浜田の車に飛び乗った。
現場に行くと、やしきたかじんが「なんや、中井ちゃんも来たんかいな。スタジオの中入りいな」と言うので、マイクの前に座らせてもらった。たかじんとは、彼が、同じABCラジオの「文珍のおもしろラジオ」のレギュラーだったころからの付き合いで、とても可愛がってくれていた。
一通り芝居の話をさせてもらったあと、たかじんが突然こう言った。
「自分ら絶対売れるで。なんでか分かるか?」
「え」
「中井ちゃんがマネージャーやからや」
ダウンタウンの二人は、何言うてんねんこのおっさんという顔をしていたが、たかじんはお世辞やベンチャラを言う人ではないので、僕は素直に嬉しかった。これは一生忘れない。
番組終了後に四人で和気藹々と昼ご飯を食べて、なんば花月の稽古場に向かった松本の車の中で、
「浜田怒ったろとか、休んだ理由聞いたろかと思ってたのに、いきなり番組で盛り上がってしもて、おまけにメシまで食ってしまったから、完全にタイミング逃してしまいましたね」
「せやな。なんか、もう聞きにくいもんなあ」
という話しを二人でした。
今となっては、稽古を休んで神戸で海を見ていたということしか分からない。今更、あのとき何で稽古休んだんやと聞く必要もないだろうし。

心斎橋筋2丁目劇場オープン

そんないろんなことを乗り越えて、1986(昭和61)年5月16日、心斎橋筋2丁目劇場はオープンに漕ぎ着けた。
心斎橋2丁目物語は、キャパ114席の劇場をほぼ満杯にしてスタートした。翌6月から7、8、9、12月と全6話を上演したが、1回毎に動員数は倍々ゲームになっていった。
消防署に怒られてしまうが、座席を付けたままにしておくと、立ち見と劇場2階のバルコニーにお客様に入っていただいても、せいぜい170人程度しか入れない。公演回数も増やしたがすぐに売り切れてしまい、問い合わせが殺到する。
そこで思いついたのが椅子外しという荒業だった。僕はもちろん技術スタッフやもぎりのアルバイトまで裏方総動員で、全員L型のナットレンチを持って座席を外し、残った並行のパイプの間に茣蓙を敷いてお客様に床に座っていただく。そうすると定員の倍以上のお客様に観ていただけるのだ。あまり誉められたやり方ではないが、一人でも多くのお客様に2丁目物語を観ていただきたかった。
2丁目物語が10月と11月にお休みしているのは、11月に他流試合に出ていたためだ。確か阪急ファイブの15周年記念のオレンジルームのプロデュース公演で、いのうえひでのり演出の「虹の彼方に」出演した。ご存知の通り、いのうえひでのりは劇団☆新感線の主宰である。ダウンタウンは1986(昭和61)年11月1日、2日に、新感線のメンバーと一つの舞台に立っていた。タイトル通りオズの魔法使いのキャラが出てきて、松本が詐欺師の役で、ブリキマンの姿の浜田と踊っていたような記憶がある。しかしそれは定かではない。この頃の僕は、忙しくて、稽古を見に行くことが少なかったからだ。僕が現場に行かないのをいいことに、随分稽古をさぼったらしい。30数年経って、梅棒の舞台を観に行ったら隣がいのうえひでのりさんだったので、その時のことをお詫びしておいた。

また、ちょうどこの頃、大﨑が「2丁目物語に協賛していただけませんか」とグリコにお願いに行ったら、「なにを勝手にうちの商標を使ってるんだ。協賛どころか、こちらがロイヤリティをもらわなければならないくらいだ。舞台でどんな使い方をしてるかビデオを持って来い」と言われ、僕が徹夜で編集して下ネタを全部カットしたこともあった。
劇場がオープンしたとき、大﨑32歳、僕27歳、ダウンタウン22歳だった。

若いし細くてメガネも掛けてない僕

赤字を減らせ

無事オープンして、2丁目物語だけでなく、レギュラーイベント「2丁目お笑い探検隊」もスタートした。メンバーは、ダウンタウンハイヒール圭修今田耕司東野幸治130R非常階段まるむし商店岡けん太・ゆう太ボブキャッツリットン調査団などなど。一度は大学受験のため「芸人になるのは辞めますわ」といって去っていった東野が、受験に失敗して「やっぱりやらしてください」と帰ってきていた。ホンコン・マカオは解散して、ホンコンが板尾創路と組んで130Rになっていた。NSC出身者だけでなく、圭修、非常階段、まるむし商店、リットン調査団などは、大﨑と僕がパーソナリティをやっていたラジオ番組OBCわしらはお笑い探検隊」のオーディションや飛び込みで2丁目劇場に入ってきた。ただでさえ、師匠のいないNSC出身者に風当たりがまだ強かったのに、「なんや2丁目劇場は、素人がいきなり舞台に出るんかい。学芸会やな」と陰口を叩かれたが、そんなことは気にせず、「アンチ花月」「アンチ吉本」「漫才はしない」「毎週新ネタをやれ」を掛け声に疾走した。

32歳の大﨑と27歳の僕に、小さいとはいえ劇場を一つ任せるとは吉本は懐が深いと思われがちだが、小劇場なんて儲からないから皆が興味がなかったのと、上の社員が全く働かなかったから自由にできたにすぎない。

早速、いつになったら黒字になるんや?と言われ、放送局から制作ごと受注するユニット番組の制作に名乗り出て、収録を2丁目劇場にむりやり持ってきて収入を劇場で計上するとか、ダウンタウングッズ(手帳に貼ってるステッカーなど)を作って売るとかの商売を始めた。1,000円から1,500円程度の入場料で客席数が114席しかない劇場では、やや焼け石に水ではあったが。

ただ、この程度の赤字は、後にダウンタウンが吉本にもたらせた莫大な利益に比べれば微小なものにすぎないのだが、これはもう少し先の話。


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