落語から萬歳へ 主力商品の転換  (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年 (2)         

創業からわずか10年で上方演芸界を制覇し近代芸能プロダクション制度を確立した吉本だが、実は東京進出もこのとき同時に果たしている。
1922年には、東京神田の「川竹亭」を買収し、「神田花月」と改名し東京での事業を開始するのである。
1980年代初頭、東京連絡事務所を開いた頃、「漫才ブームで調子に乗って大阪者が東京出てきてチョロチョロしやがって」と放送局や東京のプロダクションの社員に言われたことが何度となくあった。だが、吉本は100年前に東京に寄席を持っていたし、この後どんどん出てくるが、戦前の東京のショービジネスをリードしていくのだ。いわゆる「芸能界」ができる何十年も前から吉本は東京で芸能を商っていたのである。

先に、創業から10年で上方演芸界を制覇したと書いたが、正確には、演芸界の中心である落語というジャンルを吉本に統一したということであり、明治の終わりごろから勢いを増していた浪花節にはまだ手をつけられていなかった。
もちろん手を拱いていたわけではなく、浪花節のの席(劇場)をなんとか買収しようとしていたが、当時一番勢いのあった浪花節の席は高い収益を上げており、経営不振に陥った落語の席を買収するようには簡単にいかなかったようだ。しかし、1919年、吉本は松島、堀江の広澤館を買収し、更に新世界花月亭を浪花節の常設館とし、三館体制で浪花節興行に参入した。
といっても、席主として興行するだけで、浪花節の芸人は吉本所属ではなく、浪曲師のユニオンである親友派組合の所属であった。後に、林正之助はこの組合の役員になり、それだけで本が一冊書けそうな確執があったりするのだが、浪花節と吉本は、お互い欠かせない存在になっていたということが言える。

ここで、吉本の成長にとって最も大きな要因となった萬歳についても語るため、一旦、時代を吉本創業、文芸館がスタートした年、1912年に戻そう。この年、神戸では「卑猥低俗で風紀上問題あり」として上演禁止になっていた萬歳が解禁となる。上演禁止になるくらいだから、相当酷い内容だったのだろうし、お上が禁止しなければいけないほど流行っていたということであろう。
萬歳のルーツは、家々を回って祝福する門付芸である。太夫と才蔵が歌や台詞を掛け合いで新春を寿ぐという芸能であった。萬歳そのものは、いろいろな地方で演じられてきたが、元を辿れば三河や尾張から伝わったものが多い。
しかし、演芸としての萬歳は、明治の半ば頃に大流行した江州音頭の音頭取り玉子家円辰によって始められたとされている。名古屋で覚えた萬歳をアレンジして「名古屋萬歳」という看板で演芸の新ジャンルがスタートした。
庶民には、旦那衆の楽しむ落語より、分かりやすくて理屈抜きに笑える萬歳が、品性下劣と言われながらも受けが良く人気になっていく。


庶民の人気を得たは良いが、あまりに卑猥で低俗ということで神戸で上演禁止になったというのは既に述べたが、これを何とかちゃんとした演芸にしたいと努力したのが砂川捨丸だった。
彼は、他の萬歳師とは異なり、紋付きに角帯という姿で舞台に立ち、見てくれから威儀を正した。もちろん、外見だけでなく、そのネタも野卑に流れることなく庶民の成人男子以外の層にも受け入れられるよう努力を続けた。その努力の結果、上演禁止の禁が解かれたといって良いだろう。
1916年(大正5年)捨丸は東京の浅草で萬歳の興行を行い大成功している。それを期に「名古屋萬歳」から「高級萬歳」とジャンル名も変えている。このあたりにも、彼の改革意識が表れている。この捨丸さんは、僕が小学生の頃まで、現役で捨丸・春代のコンビで舞台やテレビに出ておられた。


落語家達が派閥抗争に明け暮れている最中、萬歳は人気を高めていった。
この頃、笑福亭吾竹門下の雁玉が漫才師に転向して、芦乃屋雁玉と名乗り、後に吉本入りして大活躍することになる。

そして、萬歳人気が高まっている正にその状況の中で、せいの実弟の林正之助が吉本に入社した。
彼の入社には、本人も、泰三も乗り気ではなかったようだが、これがその後の吉本の運命を大きく変えていくことになる。
本人によると、入社当時は、雑用をこなしながら、直営の寄席「花月」5館を自転車で回り、来客数を調べ、売上に誤魔化しが無いかチェックしたり、泰三の代わりにヤクザに対処したりしていたらしい。ちゃんとした票券もない時代だから、売上は支配人の申告を信じるしかなかったときに、身内の正之助が入ったことで、せいも安心できたのではないだろうか。

吉本の「荒事」を任されていた正之助が、プロデューサー、プロモーターとして、初めてその才能の片鱗を見せたのが、入社5年目の1922年の出雲出張である。

その頃、大阪ミナミの興行街で人気が出始めていたのは「安来節」であった。
安来節といえば「どじょうすくい」のイメージが強く、もちろんそれも笑いを取る為に大事な演物だが、もうひとつの呼び物は娘たちの踊りであった。銭太鼓を使った踊りの他に、どじょうすくいの女踊りでは、赤い腰巻きをのぞかせた紺絣の着物の裾をはだけながら踊り、時折垣間見える白いふくらはぎが男性客の劣情を煽り立てたのである。
卑猥で低俗と言われた萬歳と同様、「笑い」と「お色気」が庶民の心を掴んで人気になったと言える。

落語の人気が低落傾向にあり、萬歳という芸がまだそれに取って代わるほど確立されていない中で、大正に入り急成長した活動写真の隆盛に押されて興行成績が下降気味になってきた吉本が、そんな優良コンテンツを放っておくわけもなく、正之助は泰三に命じられて、初めて洋服を着て出雲にスカウトの旅に出たのであった。
本人談によると、駄菓子屋で一本十銭のラムネを買って十円札を渡して「釣りはいらん」といって吉本の気前の良さを見せつけ話題にさせて、より良い歌い手、踊り手を獲得しようとしたらしい。真偽の程は分からないが、ブランディングが上手かったと言えなくもない。
ただ、正之助がスカウトしてきた安来節の一座が、大人気となり、大阪で大流行を巻き起こし吉本の救世主となった事実を見れば、正之助がプロデューサーとして非凡な才能を持っていたと言って間違いないだろう。
矢野誠一は「新版女興行師 吉本せい」の中で、戦前吉本所属だった四代目三遊亭圓馬の言葉を次のように紹介している。
「吉本は、死んだご亭主(吉兵衛)も、ご寮ンさん(せい)も、じつによく藝のわかったひとだった。けれども正之助というのは、金勘定だけのひとで藝はまるでわからない。義太夫と長唄のちがいぐらいはわかるけど、長唄と清元の区別がつかない。ところが、こういう藝のわからないひとが、いいといったものが当たっちゃうから、おかしなことになる・・・」
お客様の目線に立って芸を判断するから、ヒットも出しやすかったのだろう。
吉本では、僕もよく「社内に評論家はいらんねん。お客さんが面白いというもんがええ作品や」と言われた。
一方この頃、砂川捨丸が浅草の観音劇場という大劇場にも出演するなど、萬歳も東京に乗り込んで人気になり始めていた。

そして、吉本興行部という名前の会社組織も、その体裁を整えていった。
中でも注目すべきは、「宣伝部」と「余興部」である。

宣伝部というと、自社の劇場、芸人を社会に向かって宣伝する部署だと思われそうだが、当時の吉本の宣伝部は他社の事業の宣伝、特に政府関連など公共事業のプロモーションなどを受託、実施する部署だった。広告代理店がやるような仕事を、豊富な芸人というアセットを使って効果的な宣伝をしていたのだ。
例えば、1925年の第二回国勢調査では、大阪市から宣伝業務を受託し、落語家、萬歳氏等を動員し、その調査の趣旨、申告書の記入方法などを分かりやすくかつ面白く紹介し、高い評価を得た。
僕が入社して何年か後に、セールス・プロモーション部というのができて「代理店みたいやなあ」と言っていたが、実は100年前に既にやっていたのだった。

「余興部」は、カスタムメイドのイベントを企画、催行する部署である。

1926年発行の「吉本興行部『記念興行』パンフレット」から引用すると、

私どもは各種多様の演芸者を専属に、活動写真館の経営もいたしておりますから多年の経験が産みました趣向のもとに出来る限り低廉なる費用でもっとも完全なるプログラムを編成いたしまして宴会余興及び慰安の趣向を徹底させます。
「バザー」「園遊会」の趣向についてのご相談は一切無料で応じますから、どうぞご遠慮無くご下命をお願いします。

最大手の芸能プロダクションが直接手掛けるから、好みの芸人をブッキングできて、かつ中間マージンもないから他所に頼むより安くできる。何より「相談無料」である。イノベーションではないが、大阪らしい「良いものをより安く」という顧客最優先のマーケティングといえよう。
1924年1月21日、大阪毎日新聞の発行部数百万突破祝賀デーの堺公会堂でのイベントを吉本の余興部が仕切っている。オリジナルの「百万デー踊」も披露されたようだ。


着々と関西演芸界での地位を揺るぎないものとしつつあった、1923年9月に関東大震災が発生した。
吉本は、すぐに「慈善演芸会」を大阪で開催し、その収益で毛布200枚など救援物資を購入し、震災から約一ヶ月後、林正之助以下3名が東京の演芸人を救うため東京に向かった。
「出る寄席も無くなったんやったら、大阪に来て花月に出はったらどないですか」
という正之助の言葉に、柳家小さんや講談の神田伯山など東京の演芸界の大スターたちが来阪し花月に出演、大入りの人気となった。
もちろん、震災罹災された芸人さんたちに心から深く同情し、その生活を助けるということが第一義であったが、その善意が、大阪での興行の大成功と東京の演芸界との強い絆を生んだのも事実である。

そして、年が明けた1924年2月、吉本泰三が急逝する。37歳という若さだった。吉本の経営は、34歳で未亡人となったせいとその実弟である林正之助の双肩にかかることになった。
ここで大きな混乱が起きず、むしろ勢力を拡大していったのは、これまで述べてきたように、泰三はただただ拡張主義を貫いてきただけでなく、それに耐え得る組織体制を整え、旧弊を改革し経営を近代化していたからに他ならない。
その証拠に、泰三が次に取り掛かろうとしていた映画興行への参入は、彼が亡くなって僅か5ヶ月後の同年7月に、福島花月を改装して「キネマ花月」として開館し第一歩を踏み出している。

翌1925年、第二次市域拡張によって、大阪市の人口は211万人となり、東京府東京市を上回る、日本一の、そして世界第6位の大都市となった。 
そして、浪花節、安来節の人気は相変わらずであったが、肝心の落語はその人気に翳りが見えてきた。多くの人が大阪に流入してきて、コンシューマーの中心が工場労働者層に移って行ったことも原因の一つかもしれない。
そこで吉本は、自社でコントロールでき、競合の少ない独自路線として、新しい収益源として萬歳に本格的に取り組み始めた。
1926年、大八会から花菱アチャコ、千歳家今男のコンビを引き抜き、専属契約を結んだ。
同年発行の記念興行パンフレットには、

大衆娯楽として老若男女総ての階級に迎合さるる萬歳の芸術化とその向上発展にも微力を注ぎ、千日前三友倶楽部と新世界芦辺館、千日前南陽館の改築を断行し、昼夜破格の低廉なる入場料にて商人ならば先ず薄利多売主義で社会奉仕として、すでに南大阪の名物と推賞され、社会事業関係者から共鳴して頂いている位であります。さらに京都芦辺館も旧臘よりこれの専門演芸場といたしました。

とあるが、ここに吉本のDNAが刻まれている。

・世代や性別、その他の違いを超えて、総ての人々を対象とする。
・コンテンツは、それがたとえ十分な人気になっていても、時代に応じて常にアップデートする。
・指針が決まればすぐに動く。たとえまだ利益が出ていても、業態転換することに躊躇しない。
・社会のニーズに応える。自社の都合よりお客様の求めているものを優先する。

これは、今の吉本興業の事業にもそのまま生きている。

また同年、花月乙女舞踊団をデビューさせた。これは、宝塚や松竹の少女歌劇とは違い、安来節や萬歳の合間のアトラクション的な扱いだったようだ。成否はともかく、トレンドに便乗してすぐに動くという吉本らしさが発揮されている。
そして、トレンドといえば、この頃から出囃子を和洋楽器を取り混ぜた編成にしたり、マイクを使い始めている。

このマイクを使うということが、寄席劇場の規模や、演芸の見せ方が大きく進化することになる。
地声だと、せいぜい200から300人キャパの劇場でしか演じることができないが、マイクがあれば1,000人規模の大きな劇場で上演してもお客様に楽しんでいただけるのだ。いくら人気があってもキャパ以上にチケットを売れないのが、ライブエンタテインメントの辛いところだが、それを補ってくれたのがマイク、PAだった。

次の(3)では、ようやく時代が昭和に入り、春団治とエンタツ・アチャコが演芸界と吉本に革命を起こす。


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