次は映画へ。 そして戦地慰問     (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(5)        

映画進出

マーカス・ショウを興行的に大成功させ、東京に大劇場を作り、新しい「吉本ショウ」という演物が大当たりと順風満帆の東京吉本と林弘高。また日劇でマーカス・ショウ公演があった同じ時期に、新橋演舞場で「大阪吉本特選漫才大会」(萬歳から漫才へと表記を変えた最初の公演)を大成功させていた兄の正之助。舞台実演の世界で大成功した彼ら二人が、それと並行して熱を入れて進めていた事業が映画であった。

劇場での実演は、いくら人気になっても劇場のキャパは限られていること、年に一回来るか来ないかの地方公演を除けば、東京や大阪に来ないと観られないというメディア特性、弱みがある。*(本稿(3)「萬歳から漫才へ 春団治ラジオに出る」参照)
初代桂春団治がいくら人気でも、上記の制限があるので、せいぜい一日に千人程度のお客様ににしか観てもらえないし、大阪の劇場に来てもらわなくてはならない。レコードが成功していたので、ラジオで日本中のお茶の間で自分の落語を聴いてもらえたらという希望も彼の中にあったのかもしれない。もちろん、高いギャラに惹かれたということ、純粋に好奇心からというのも大きな要素だと思うが。

映画ならば、レコードやラジオのように音声だけではなく映像も観られるし、映画館がある所なら日本全国どこでも観ることができる。また、キャパ200名規模の映画館100館で1日に5回上映されれば、一日に観てもらえるお客様の数は10万人になる。
映画は、芸人をプロモートするのには当時としては最高の媒体であり、且つ、集客力ナンバーワンの娯楽で、収益力も寄席とは段違いである。
そんな美味しいこと尽くめの分野に、吉本興業が手を出さないわけもなく、また、前章でも述べた、弘高が目指していた、自社劇場以外の出演機会の確保、収益化を図るためのエージェント業務の拡大も念頭に置いていたに違いない。

具体的には、マーカス・ショウ開催の前年1933(昭和8)年に、太秦発声映画及び日活と提携し、翌年には寿々木米若の浪曲入りトーキー映画「佐渡情話」を全国一斉公開する。これが吉本興業による映画の第一作目となり、大ヒットとなる。翌1934(昭和9)年には、後に東宝に合流するJ.O.スタヂオとの提携による「新佐渡情話」「紺屋高尾」などの作品を製作し、当時の人気演芸である浪曲と大衆娯楽の王様になっていた映画を結びつけた興行会社らしい作品で映画界に存在感をアピールした。

東宝との提携

1935(昭和10)年には東宝の前身の一つであるP.C.L映画製作所と提携し、翌1936(昭和11)年浪曲トーキー映画とは別路線の、吉本の人気者を主演とした映画の製作にも挑戦する。既に二年前に解散していたエンタツ・アチャコをスクリーンで共演させ、「あきれた連中」を公開した。一世を風靡したエンタツ・アチャコの漫才は、既に舞台では観られなくなっていたが、スクリーン上での二人の軽妙な会話が見事に漫才に昇華されている。吉本としても、自社の芸人で映画を作りヒットさせることができると確信できた記念碑的作品と言える。

下の作品は、疑似カラー&擬似ステレオに加工してあるが、モノクロのオリジナルだと良い画質のものがないので、こちらでお楽しみいただきたい。公開から80年以上経っているので著作権は切れているので安心して御覧ください。

この「あきれた連中」が公開された年、前年に提携していたP.C.L映画製作所に東宝を加え三社の提携が成立した。

吉本にとってこの提携は、日劇など東宝所有の都心の大劇場を借り受けて興行したり、自社の演者を東宝の劇場に出演させたりできるという有利な取り決めがあっただけでなく、東宝による錦糸町の開発に参加し、一角を借り受け江東花月をオープンする等、有形無形の大きな利益があった。浅草に封切館を持たなかった東宝には、東京花月劇場を借り受け映画上映を行うというメリットがあったものの、少々不利な条件であっても、松竹への対抗上、吉本を味方に付けておきたかったのだろう。
この動きに大きな危機感を持ったのが東宝吉本の提携により孤立化する松竹だ。1939(昭和14)年に傘下の新興キネマ演芸部を使って、大々的な吉本芸人の引き抜きを始めた。当時大人気のミスワカナ・玉松一郎や、川田義雄を除くあきれたぼういずらが何の予告も通告もなく吉本の劇場から姿を消し、新興に移籍した。
これについては、映画事業の危機感は分かるが、何でそれが吉本芸人引き抜きにつながるのだという疑問もあると思うが、一本あたりかなり大きな予算をかけても当たり外れのある映画に比べ、人気者を抱えておけば興行の数字が読める演芸はリスクが少なく、またその芸人を映画に出演させれば集客にもつながるという思惑があったのではないか。そしてその背景には、当時の吉本が演芸会においては寡占状態で、所属芸人の数も多すぎてなかなか頭角を現せない、ギャラもなかなか上がらないという状況があった。
あきれたぼういずのメンバーで新興に移籍した坊屋三郎が、「吉本では10日毎に新ネタを要求されていたのが、新興では新ネタは1ヶ月毎でよくなりきちんとした作家も付く。独立したショーが用意され一流のバンドやダンサーもつく。おまけに月給も90円から300円に上がるとなると、これでOKしないのはバカだよ」と語っているが、一流のバンドやダンサー、そして作家も吉本は提供していたので、やはり高いギャラとネタ作りが楽だというところに惹かれたのだろう。
僕が心斎橋筋2丁目劇場の担当をやっていたときは、出演芸人たちに毎週新ネタを要求していた。その時のメンバーが今のテレビバラエティ番組でメインMCを務めたり独自のポジションで皆活躍しているのは決して偶然ではないだろう。
(昭和2)年、弁天座での全国萬歳座長大会後に松竹が引き起こした引き抜き騒動後、「吉本の芸人は引き抜かない」という約束をしたにもかかわらず、それを反古にした行為に吉本側は激怒し、法廷闘争まで発展した。
当時の都新聞によると、

「吉本興業では新興演芸部に入社したあきれたぼういずの益田喜頓、坊屋三郎に対し契約期間中の転社は違反であると、東京民事地方裁判所へ訴訟を提出、その結果右両名は吉本との契約期間中、吉本チェーン以外の劇場、その指定以外の映画、レコード、ラヂオ出演、吹込みを禁止する旨の仮処分が決定したが、一方新興演芸部では物品と異なり、人間に対して仮処分は出来ぬ、法の不備もあるが、かかる場合に人間に対しての拘引や差押へは不可能であると、仮処分解除の応訴を提出し、飽迄抗争を続けると云って居り、今後の成行は益々注目されるに至った、右に就き新興前田支配人は語る『物件に対しては仮処分は出来ても人間に対しては執達吏が拘引出来るものではない、吉本側では流血の惨事が起るかも知れぬと警察へ言ったとの事であるがこれこそ殺人予備罪を構成するものではないか芸人がかゝる暴力的行為に屈しないためにもあくまで抗争するつもりである』(昭和14年4月21日)」

とある。
「流血の惨事が起るかも知れぬ」って警察に言う会社てどんな会社やねん!と思うが、当時の雰囲気を良く伝える記事だったので引用した。
血の雨が降るかと思われた騒動だったが、日中戦争激化の影響もあり、大阪、京都の警察が仲介し和解が成立した。

吉本の映画事業は、業界内に大きな波紋を呼びながらも順調なスタートを切った。

戦地慰問の始まり

東京、大阪での大劇場建設や映画への進出、アメリカからマーカス・ショウを招聘を準備するなど拡大を図る吉本にも、当然のことながら戦争の影がしのびよっていた。
1931(昭和6)年、満州事変が起こって間もなく、第一回目の戦地慰問が行われた。この前年、初代桂春団治のラジオ出演を巡っての騒動の際には、春団治とNHK側について吉本を糾弾した朝日新聞との提携であった。
その二年後の1933(昭和8)年、陸軍省から「芸術家及演芸人派遣計画案」が出された。目的は、戦地の将兵を慰問することのみならず、戦地の様子を内地の国民に知らしめることであったが、満州への移民を奨励するための意味合いも強かったと思われる。戦後筆舌に尽くしがたい苦労の末引き上げてきた僕の母方の伯母も、満州に移住して牡丹江に住んでいた。

この計画案を知った弘高は、陸軍省に赴き協力を申し出た。
軍の派遣基準は「一流」の芸人ということであった。戦地での将兵の盛り上がりや、帰国後の広報活動の影響力を考えれば当然であろう。吉本で陸軍から指名があったのは柳家金語楼ただ一人であったが、「自発的な申し出」にも応じるとの態度であったため、弘高が進んで申し出て、横山エンタツ・花菱アチャコ、そして石田一松の芸人3名と、社員の橋本鐵彦(引率)の4名を派遣している。

政治思想的にはリベラルであった弘高が、何故陸軍に自ら協力を申し出たのかという疑問はあるが、劇場の演物にも統制が益々厳しくなっていくだろうから、国に対する忠誠の姿勢を見せておこうという商人としての打算があったのではないかと思う。

1937(昭和12)年、日中戦争が始まり、弘高の懸念通り様々な表現活動に統制が強化され始める。その年の8月の吉本ショウのタイトルが「軍事読本」、「祖国」、そして柳家金語楼の「陸戦隊」と戦時色を反映している。同年8月25日、興行界の各社代表15名が警視庁保安部に懇談に招かれ、その席上で保安部長から「時局を反映した作品は結構だが、観客に過度の刺激を与えないように」と注意を受け、「レビューが一番問題だ」との指摘もあったようだ。
この後、戦局の激化に合わせて規制も激しくなって行ったが、太平洋戦争が始まっても、「吉本ショウ」を「吉本楽劇隊」と名を変えて、敵性音楽のジャズを中心に歌と踊りの舞台を作っていた弘高の胆力、政治力そして先見性は当時の興行界にあっては群を抜いていた。


わらわし隊

1931(昭和6)年の第一回戦地慰問に続いて、朝日新聞社との提携による慰問演芸団派遣が1938(昭和13)年1月に行われた。それは、わらわし隊と名付けられ世間の耳目を集めた。海軍航空戦闘隊が荒鷲隊と呼ばれていたことに因んでのネーミングであるが、「我々は、銃ではなくお笑いで前線を支援する」という意志の表れで、非常に象徴的であると思う。
第一陣は、北支と中支の二班に別れ、それぞれ現地に向かった。北支班は、大連、天津、北京、石家荘へ、中支班は上海、南京、蘇州、杭州へ慰問の旅に出た。
北支班のメンバーは、東京から柳家金語楼柳家三亀松、大阪からは花菱アチャコ・千歳家今男、京山若丸、そして引率に社員の仲沢清太郎が加わった。中支班は、石田一松、横山エンタツ・杉浦エノスケ、ミスワカナ・玉松一郎、神田ろ山、引率は林正之助自らが行った。
中国の旧正月の時期にあたり前線の将兵も望郷の念が強まる時期に、日本の日常生活の匂いがする「お笑い」慰問は、ひととき将兵たちの心を和ませ潤わせ、各地で大歓迎された。
約1ヶ月後に日本に帰国した一行は、ゆっくり休む間もなく、大阪を皮切りに、京都、名古屋、東京、横浜で開催された「帰還報告会」に出演した。これは戦況や前線で活躍する将兵の様子を、出征させている家族や一般のお客様に伝えるという宣伝的な意味合だったが、すべての公演が大入の大盛況だった。この時に得た利益5,000円を朝日新聞社を通じて軍用機献納金として寄贈した。

その後も、戦火拡大に伴い、わらわし隊の派遣は何度も派遣された。

わらわし隊ではないが、演芸慰問に参加した桂金吾と夫婦コンビを組んでいた花園愛子が、現地での移動中に撃たれ死亡している。彼女は戦死者扱いとなり靖国神社に合祀されている。

慰問は戦地だけに限らず、国内でも行われていた。
1941(昭和16)年6月、大政翼賛会と内閣情報局の指導の下「日本移動演劇連盟」が結成されている。その目的は「国民の士気を高揚し、戦力の増強を図るためには、銃後にあって生産力の拡充に総力を挙げて挺身しつつある勤労者に健全明朗な娯楽を提供する」というものだった。
これを機に吉本は「吉本移動演劇隊」「関西吉本移動演劇団」「吉本移動演芸隊」を組織したが、既にその前年から、軍需工場で働く人達のために、「新体制早分かり」という国策宣伝のための移動演芸隊を作って活動していたから、政府のほうが吉本の動きに乗ったのかもしれない。

そして同年、大阪の吉本にとっては苦渋の選択であったが、所属の落語家や漫才師が率先して「演芸自粛同志会」を結成、戦勝祈願や銃後に相応しい行事を行った。花月の営業停止や、演芸活動をやめたわけではないが、芸人、社員ともに、その悔しさは如何ばかりであったであろうか。深く深く同情を禁じ得ない。

何れにせよ、国民にとってはもちろん、お笑いにとって、吉本にとって最も辛い時期であった。


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