日本のショウビジネスの始まり    (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(4)      

林弘高の入社

エンタツ・アチャコのコンビが解散し、春団治が亡くなった1934年(昭和9年)に、東京吉本ではアメリカから「マーカス・ショゥ(当時の垂幕を見るとショオとなっているが)」を招聘し、日劇で上演した。日本で始めて「ショウ」と名の付く興行であった。これが日本のエンタテインメント界に与えた影響はとてつもなく大きかったが、その興行を大成功させたのは、正之助ではなく、吉本せいと彼の実弟である林弘高である。

弘高は、姉のせいとは18歳、正之助とも8歳と、かなり歳の離れた末っ子である。旧制中学を卒業後、東京の中央大学専門部商科に入学し、卒業後、1928年(昭和3年)吉本興業部に入社。弱冠21歳で東京の責任者となる。
弘高は、早速、当時日本のエンタテインメントの中心である浅草に本拠を置くことにする。
エンタツ・アチャコがコンビ結成、春団治がラジオ出演して大騒ぎになった1930年(昭和5年)、浅草に念願の劇場「萬盛館(後に万成蓙)」は開場した。

そして、その頃の浅草のトレンドは、エノケンこと榎本健一を中心とする「カジノ・フォーリー」や、その解散後できた「プペ・ダンサント」等の、歌と笑いと踊りを取り入れた軽演劇(レビュー)であった。大正期に流行した浅草オペラから、その流れをくむ浅草レビューに関しては、研究心を唆られるが本稿の目的ではないので詳述は避ける。
そのトレンドを弘高が見逃すはずもなく、大阪で活動していた白鳥歌舞劇団を東京に呼んで万成座に出演させ好評を博した。そして、それに飽き足らず、ロボットを舞台に出すというレビューを上演し、江戸っ子を驚かす。ロボットと言っても機械仕掛けではなく、ブリキの張りぼての中に大倉寿賀若という漫才師が入って演技していたのだが。本物のロボットは、1928年(昭和3年)に大礼記念京都博覧会に出展された「學天則」が東洋初である。余談だが、この製作者の西村真琴博士の次男は、二代目水戸黄門の俳優の西村晃氏である。
レビューとロボットという、そのときに話題になっていることを組み合わせただけの安直な演物と思われるし、実際そうなのかもしれないが、お客様が観たいと思うものを観せるのが興行の基本であり、観たいものが無ければそれを作れば良いというのが吉本のDNAである。

この成功で、弘高は吉本独自の「ショウ」を作ろうと思い立ち、「新声劇」の文芸部に所属する橋本鐵彦をスカウトする。「万歳」を「漫才」という表記に変えた人で、後に吉本の社長になる人物である。だが、二人で将来の吉本ショウの構想を練り始めてさほど月日が経たないうちに、橋本を気に入った正之助に大阪本社に取られてしまった。1932年(昭和7年)のことである。
この年の3月1日、吉本興業部は吉本興業合名会社と改組する。奇しくもこの日は、清朝の廃帝ラスト・エンペラー愛新覚羅溥儀が執政(後に皇帝)となる「満州国」建国が宣言された日でもあった。吉本興業が創業したのが、辛亥革命を起こした孫文による中華民國臨時政府が成立した1912年(明治45年)だから、その歴史は東アジアの激動の時代に見事に重なっている。そして、リットン調査団が満州に現地調査に入ったのも、犬養毅首相が海軍の青年将校らに暗殺された五・一五事件が起こったのもこの1932年(昭和7年)である。そして翌年、日本は国際連盟を脱退する。世界で孤立し、軍国主義化が進み、日本社会は右傾化していった。

マーカス・ショウ開催

警察も配下に収める排外的な態度の内務省が警戒する中、1934年(昭和9年)2月23日、60数名のマーカス・ショウ一行は横浜港に上陸した。
公演前に警視庁興行係員の検閲によって、「ズロースの丈は股下二寸以上にしろ」等の難癖をつけられ衣裳の改変などを余儀なくされたものの、3月1日には、当時の日本のエンタテインメントの最先端であり中心である日本劇場で初日を迎えることになった。
そこでは、それまで日本の観客が見たことのない舞台が展開されていた。
絢爛たる色彩豊かな舞台セット、綺羅びやかな衣裳、創意を凝らした照明。オケピットに陣取るジャズバンドの生演奏にのせて、歌と踊り、バレエ、タップダンス、そして寸劇、パントマイム、コントーション(曲芸)などが素早い転換でテンポ良く繰り広げられていく。その中には、後にハリウッドの大スターになるダニー・ケイの姿もあった。世界最高レベルのショウを吉本は招聘し、初日から4月半ばの千穐楽まで超満員を続け興行を大成功させた。

当時の劇評を見ると、「・・・これ程まとまったレビュー団の来朝したことは、最初のことなのであるから、かなり大きなショックと収穫を日本人に与えたことは確かである。先ず第一に従来の宝塚・松竹の少女歌劇などのいわゆる『レビュー』がいかにつまらないものであるかということである。あの息もつかせない踊りからコミックへ、歌からアクロバティックにアダジオに、変化してゆく舞台面は、ただ踊りと歌の連続にしかすぎないわれわれの概念としてをしえられていたものとくらべてどんなに面白いかしれない・・・(東京日日新聞3月18日朝刊所蔵 三宅英一)」と絶賛されている。勿論、吉本が残している劇評なので好意的なものばかりなのかもしれないが、たとえ批判があったとしても、大きな衝撃を与えたことだけは間違いないと言える。
古川ロッパは、「人数は多いが同じような繰り返しばかりで感心しない」というようなことを言ったらしいが、これは、吉本と競合関係にあった「笑いの王国」の中心人物の負け惜しみではないかと思う。

エンタテインメント業界で海外から最先端のショウを招いたその同じ年、スポーツ界でも大きな動きがあった。当時読売新聞社長であった稀代の興行師正力松太郎が、米メジャーリーグ・オールスターズを日本に招聘し、全日本軍と16試合対戦させた。1931年(昭和6年)以来2度目であるが、今回はベーブ・ルースが加わっていた。全日本軍は、当時の野球統制令に従い日本側はプロであってはいけなかったため、アマチュア球団として組織されたものの、この大会終了後、正力によって大日本東京野球倶楽部(後の読売巨人軍)が結成された。この時、吉本もしっかり出資(2百株)している。
ただ、日本のプロ野球は、親会社から独立している法人ではあるものの、チーム名の頭にオーナー企業の名前が付くという点においては、いわばノンプロという社会人野球の延長として運営されていたと言ってよく、その関係性に置いても親会社の宣伝広告としての役割も大きい。吉本は、新聞、電鉄などの本業が別にあるわけではなく興行が本業なので、日本のプロ野球の草創期では利益を得るまでに至らずという判断があったのだろう。巨人は、読売新聞の販促に大いに貢献したが、吉本的にはメリットがなかったのだろう。
しかし、この時の出会いが、戦後の日本国民を熱狂させるプロレス興行、放送につながっていく。

吉本百年物語6月公演では、林弘高役をミュージカルの大スター中川晃教が演じた。まさか引き受けていただけるとは思わなかったが、「NGKに出られるなんて光栄です」と快諾をいただき、素晴らしい歌と演技をお客様にご覧いただくことができた。公演を観た、弘高の息子の英之(吉本株式会社 代表取締役)は、「中川くんがよく出てくれたねえ。彼は『モーツアルト』のときから応援してるんだよ。でも、この芝居、良いのは彼だけ。それ以外は、どっちつかずで全然駄目」との感想をいただいた。

マーカス・ショウの大成功で、「やはり吉本の劇場でもショウをやらなアカンな」と意を強くした弘高だが、彼にはもう一つの大仕事が残っていた。
それは、東京に大劇場を作ることである。大阪と東京に吉本の旗艦となる大劇場を、というのが姉せいの夢であった。
実現しなかったが、当時から既に交通の要衝として賑わっていた新宿もその候補地に入っていた。場所は伊勢丹脇の市電車庫跡である。現在の吉本興業東京本社の目と鼻の先だ。
そのことを報じた当時(マーカス・ショウの上演期間中)の新聞には、
「・・・吉本女社長の有する私財だけでも四、五百万円と取り沙汰されて今関西興行界では隠然たる勢力をもっている同興行部(著者注:このときには既に吉本興業合名会社になっているが、東京の記者は知らなかったと思われる)のこととて本気でやるときには案外簡単にその手に落ちるであろうが、とにかく同興行部が大劇場経営に割り込まんとしていることは他の大劇場にとって『一大敵国の出現』たることを失わず、同興行部こん後の躍進は早くも演劇界にセンセーションを巻き起こしている訳である」(都新聞 1934年昭和9年4月5日)
と、その資本力やマーカス・ショウを成功させた実績を認めながらも、大阪の他所者が帝都を侵略し始めたというトーンで「敵国」と表現しているあたり、今の芸能界とそう変わるところがないのが大変興味深い。元々関西の会社である松竹と東宝(阪急グループで東京宝塚の略だから、ルーツは関西)が敵扱いされず、何故吉本だけが敵扱いされるのか、誰か理由を説明してくれないだろうか。

東京花月劇場

新宿も候補に上がってはいたが、結局、浅草のしかも万成座の隣に、東京花月劇場はオープンした。マーカス・ショウの翌年、1935年(昭和10年)11月のことである。
弘高は、その抱負を吉本興業発行の雑誌「ヨシモト」昭和10年12月号に、以下のように語っている。

「東京花月劇場も、ここに、やっと竣成致しました。
『吉本』が東京に於ける歓楽地帯、浅草興業陣の本拠として私達の抱負なり希望を実現させる活舞台として、今後の御助援をお願いし、御期待を乞うものです。
私達は、時代は何を求めているか、何を提供すればよいかと言う事を、寸時も忘れず大衆と共に真摯なる研究をなし、今日まで私達『吉本』の方針は、それがために、大衆の前に成功し得た事を経験しました。
大衆の娯楽欲も十人十色、その誰にも満足して貰えるものの提供にあります。そしてどんな要求にも応じ得るだけの用意がある事を誇りとしています。いやしくも大衆の意志と背馳するようなことは、『吉本』の最も排斥する所であります。
花月劇場は、この吉本の政策発表機関の一つであり、大衆への責任を具体化す私達の研究室であります。
重ねて御支援を願い、厳正なる御批判を待つ次第であります。」
ここでは、創業以来ブレることなく続く、世代ほかの属性を一切を問わず、大衆の欲するエンタテインメントを提供するのが吉本の使命ということを宣言しているだけでなく、劇場をR&Dの場所として位置づけているのが、劇場の興行収入が収益の源泉である興行会社としては異例である。それどころか、興行会社のアイデンティティを完全に否定しているぐらいの発言である。
弘高は、何故このような発言をしたのか。
全くの推測に過ぎないが、弘高は、所属芸人たちを劇場だけでなく、トーキー発明で声も付いて大衆娯楽としてあっという間に一番の人気になった映画に出していくことによって、今までの何百倍ものお客様に観てもらい応援してもらう事を考えていたのではないかと思う。その為の、コンテンツ作り、役者の修練の場としての劇場と位置付けたのではないか。
それが証拠に、この東京花月劇場オープンと並行して、PCL映画製作所との提携も行っている。翌年、東宝も入った三社協定となるのだが、これが後述する芸人引き抜き事件再発の火種となる。
そして、更には、自社劇場以外の場、メディアに所属芸人たちを出演させるということは、興行会社に留まらず、エージェント業務を拡充していくことに他ならない。

吉本ショウ

東京花月劇場のメインの演物は「吉本ショウ」と名付けられた。漫才落語中心の大阪の花月の演物とは全く違う、「笑いとスリルとジャズの超特急」という名の通り、歌と踊りコント等を交えたモダンなボードビル・ショーだった。
この原型となったのが、東京花月劇場の隣の万成座で公演されていた「グラン・テッカール」である。後に美空ひばりの師匠とも評される芸人である川田義雄をメインとして、ファース、リリカル、ナンセンス、バラエティの4本立てで構成し、専属バンドもいれて上演されていたものだ。
吉本ショウは初演から好評だったが、翌年、鳴物入りでアメリカから帰国したダンサー中川三郎が参加し、その人気は不動のものとなった。中川三郎については、東宝と争奪戦になったが、弘高が東宝の三倍以上の破格の条件を提示し獲得した。
音楽評論家の瀬川昌久は、吉本百五年史への「わが青春の憧れだった吉本ショウ」と題した特別寄稿で、戦前最高のアメリカ流ジャズ・ショウと絶賛し次のように語っている。
「吉本ショウは、1941(昭和16)年「吉本楽劇隊」(筆者注:敵性語としてショウという言葉が使えなくなったため)と名を変えて戦中も続けられ、戦前の音楽芸能史において、最も多彩で面白くかつユニークなエンターテインメントを提供し続けた。私は1944(昭和19)年夏、学徒出陣で応召されるまで、学業の合間に時間さえあれば、浅草花月の吉本ショウをのぞくのが常だった。吉本の舞台には、ハリウッドの音楽映画やアメリカのジャズ・レコードから見聞する、モダンでハイカラな気の利いた歌と踊りとコントとギャグが、他のどのショウよりも一杯つまっていたからだ。」
名前を変えながらも、戦時中ずっとジャズ・ショウを上演していた弘高の興行師としての矜持、それを実現させた政治力はただならぬものであったと思う。

あきれたぼういず

更に、吉本ショウは演芸に新しいジャンルも創造する。洋楽器を持ってコミカルな歌をうたいながらモノマネや声帯模写、コントを演じるボーイズと呼ばれる形態である。僕の意見ではなく、Wikipediaに「その系譜はクレージーキャッツドリフターズにも繋がっている」と書いてある。
益田喜頓芝利英がの二人が楽屋でギターを引きながら、今で言う歌ネタを作っているを吉本の文芸部員見つけ、芝の実兄の坊屋三郎、それに前出の川田義雄が加わりあきれたぼういずとして東京花月にデビューするや、またたく間に大人気になった。彼らの名が日本全国に知れ渡るのに半年もかからなかったと、益田喜頓本人が後に語っている。

しかし、それは2年も続かなかった。1939年(昭和14年)、新興キネマ演芸部による大掛かりな芸人引き抜き騒動があり、あきれたぼういずは新興に移籍してしまったのである。川田義雄だけは誘いを断り吉本に残った。引き抜きはしないと約束した松竹が、あきれたぼういずやワカナ一郎等の人気者を一斉に引き抜き、また引き起こした騒動であり一触即発の危機だったが、一方で吉本側の現場は冷静に対処していたようだ。
瀬川は前出の吉本興業百五年史の特別寄稿の中で「しかし吉本はあわてず、早速、川田義雄をリーダーとするミルク・ブラザースを結成したので、新興のあきれたぼういずとの競演がいっそう話題となった。河田の『地球の上に朝がくる』や『ダイナは何だいな・・・」が大ヒットしたり流行語になったりしたのが、この頃だった」と語っている。

余談だが、瀬川昌久先生とは「大衆音楽の殿堂」顕彰者選考委員会で委員として同席させていただき、謦咳に触れさせていただいた。吉本興業出身であることを告げたら、本当に楽しそうに吉本ショウの思い出話を語ってくださった。江利チエミの両親が吉本所属だったという話をしたら、「若いのに良くご存知だ。森山良子の両親も吉本ショウにいたんだよ」と教えていただいた。
明るくお話されていたが、当時の時代背景は「ショウ」という言葉すらつかえない戦時下であった。お笑いにとっては最も厳しい時代だったのだ。

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