MANZAIブーム到来 東京再進出 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(11) 

一夜にして

一晩にして売れっ子になる、マネージャーの電話が鳴り止まず、こなせない程の量の仕事が入ってくるというのは、M-1グランプリの優勝者に言われることである。ところが、一組の芸人にではなく、漫才という芸のジャンルそのものにそれが起こったのが、漫才(MANZAI)ブームだった。もちろん、一夜にして漫才師たちが一挙にスターになったわけではないが、一つの番組をきっかけに、沸々と膨張していたマグマが一瞬で噴火したように、漫才という溶岩がテレビの視聴者、劇場のお客様に火をつけていった。それは、燎原の火のごとく、日本全国を巻き込んでいった。
その番組は、1980(昭和55)年1月20日にフジテレビ系列(関西テレビ発)で放送された花王名人劇場の「激突!漫才新幹線」であるということに異論はないだろう。制作は東阪企画で、プロデューサーは朝日放送時代に空前のヒットとなった「てなもんや三度笠」の演出を手掛けた澤田隆治だった。出演は、横山やすし・西川きよし星セント・ルイスB&B 島田洋七・洋八の三組で、MC無しで、一組あたり10数分たっぷりネタを視聴させるだけの番組だった。これは当時でもかなり思い切った演出であった。普通の演芸番組は、MCがいて、ネタの放送時間は一組あたり売れっ子でも7〜8分、若手は3〜4分というサイズだった。
この、日曜21時から21時54分という時間は、裏にTBS系列の東芝日曜劇場(現在の日曜劇場)という強力なドラマ枠があったにも関わらず、関東では15.8%、関西では27.2%の高視聴率を獲得した。
漫才だけでも高視聴率を稼げるという事実は、キー局のフジテレビだけでなく他局にも影響を与え、競って漫才番組が制作されるようになり、ブームに繋がっていった。

ブーム前夜

1980(昭和55)年に巻き起こる漫才ブーム前夜はどのような状況であったかと言うと、前章で述べた通り、大阪では若手芸人が数多く育っており、既にタレントとしてある程度の人気を獲得していたが、上方漫才界はといえば沈滞期であったといえる。
僕は、1977年4月に大学入学を機に東京に引っ越してしまったので、上方演芸から遠ざかってしまったのだが、夏休みとかに京都回りで帰省して京都花月で観劇してから実家に帰ったり、実家では富山局にネットしている在阪局の番組を貪るように観ていたが、当時漫才で目立って勢いがあったと記憶に残っているのはやすし・きよしWヤング 平川幸雄・中田治雄だった。特にWヤングの話術のテクニックとネタの面白さは群を抜いていた。ビートたけしをして「Wヤングさんにだけは勝てないと思った」と言わしめたほどであった。
当然のように澤田隆治は「激突!漫才新幹線」のメンバーにWヤングを予定していた。1979(昭和54)年10月22日時点のプログラムには、12月5日国立演芸場激突!漫才新幹線」のメンバーは、あらんどろんB&BツービートWヤングとなっている。ところが、Wヤング中田治雄が熱海で自殺してしまって、この企画は変更を余儀なくされた。自殺の原因は、野球賭博に手を出したのと事業の失敗による借金であった。
メインに予定していた漫才師を失った澤田は、急遽、やすし・きよしをメインとして星セント・ルイスB&Bの三組にメンバーを組み直し、同年12月22日に収録した。この番組が漫才ブームのきっかけとなったのであるから、そのブームのリーダー的な立場はやすし・きよしが担っていくことになる。
歴史にタラレバはないが、もし、この企画が半年早く実現していたら、中田治雄も自殺することはなく、今も上方漫才の大御所として君臨していたかもしれない。

THE MANZAI

花王名人劇場と並んで漫才ブームの推進役となったのが、フジテレビ火曜ワイドスペシャルの枠で放送されたTHE MANZAIである。第一回は、1980年4月1日に放送された。プロデューサーは横澤彪。出演者は、ツービート紳助・竜介B&B 、やすし・きよしザ・ぼんち星セント・ルイス中田カウス・ボタンだった。
このメンバー構成が、後に漫才ブームを吉本ブームと言わしめる起点になったことは、ここで語っておくべきだろう。当時の担当者である木村政雄のブログ「木村政雄の私的ヒストリー」から少々長いが、リアルな交渉の臨場感を味わってもらうために引用させていただく。因みに、僕はこの二年後、彼の部下になる。
このTHE MANZAIの第一回目を始めるにあたり、プロデューサーの横澤彪とディレクターの佐藤義和が出演者の交渉のため木村を訪ねて来阪したときの話である。

 従来の演芸番組のスタイルを捨てて、司会者も置かず、ポップな、若者に向けた新しい漫才番組を創りたいという企画の意図をお聞きした後、話はキャスティングへと移りました。フジテレビさんから出された要望は、「東京からは3組、ツービート、セントルイス、B&B」。これはまあ妥当なところだからいいとして、肝心なのは大阪からのメンバーです。「吉本さんからは、やす・きよさんは是非ものとして、他に2組を!」。その後、やや間があって「残りの1組を、松竹芸能のレッツゴー三匹さんにお願いしようと思っています」と、言葉が続きました。

 「うーん、レッツゴー三匹ですか・・・」曖昧な返事を返しつつ、私の頭の中はフルに回転をしていました。〜やす・きよさんのブッキングをマストという以上、彼らを外すことは絶対できないはず、それに、かってやすしさんが事件を起こした時に、松竹芸能の石井さんから「これで、うちの勝ちやな」と言われた積年の恨みもある~ ここは乾坤一擲の勝負を賭けてみようと、「わが社の看板であるやす・きよさんを是非にとおっしゃるのでしたら、大阪からの4組は、すべて吉本からにしていただけませんか?」と言ってみることにしました。もしその案が受け入れられない時には、この番組からは手を引くつもりでした。

 さて今度は先方が困る番です。しばしの沈黙の後「…わかりました、じゃ、それで結構です」という返事が返ってきた時には張りつめていた気分も緩み、ホッとしたのを覚えています。レッツゴー三匹さんには何の恨みもないのですが、この時の決断が、その後の両社の盛衰を分けるきっかけになったことを思えば、あながち間違いではなかったということかもしれません。

 そのあと、場所をミナミへ移して、河畔の夜景をながめながら、道頓堀の浜藤で食べた「てっちり」がいつにも増して美味しかったのを、今でも鮮明に憶えています。

木村政雄の私的ヒストリー第50話

後々、吉本のパッケージ商法とかバーター戦略とか悪い文脈で言われることが多くなったが、この当時は、たとえやすし・きよしがいても、出演者3組を4組に増やすのに「乾坤一擲」の覚悟が必要だったのだ。木村の賭けは吉と出て、漫才ブームは吉本主導で動いていくことになった。
ここでも、歴史にタラレバはないが、横澤が「レッツゴー三匹さんは外せません」と言って、木村が「じゃあ無かったことで」と手を引いていたら、この番組の成功はあったのか、吉本抜きの漫才ブームは起こっていたのかと考えてみるのも面白い。もちろん、その当時、やすし・きよしを外す選択肢は考えられなかったと思うが。

この第一回から、1982(昭和57)年6月放送の最終第十一回までに出演した吉本の漫才師は、横山やすし・西川きよし中田カウス・ボタン今いくよ・くるよザ・ぼんち西川のりお・上方よしお島田紳助・松本竜介 オール阪神・巨人太平サブロー・シローやすえ・やすよ明石家さんまも1回出演している)と、毎回出演者の7割以上を占めたのに対し、松竹芸能春やすこ・けいこ一組が、数回出演しただけだった。東京組もツービートB&B(ブーム直前まで吉本)の二組がレギュラー的に出演していた他は、星セント・ルイスおぼん・こぼんがたまに出演し、81年に入ってからは、オレたちひょうきん族のレギュラーだったヒップアップが出演するようになっただけである。漫才ブームは吉本興業ブームだったと言われる所以である。

THE MANZAIが他の演芸番組と一線を画していたのは、電飾を沢山使った派手な舞台セットや、小林克也によるDJ風のメンバー紹介、洋楽を使った出囃子等そのポップな演出方法だとされている。しかし、花王名人劇場がストレートな劇場の舞台中継で漫才という芸の凄みすら感じる魅力を伝えたのに対して、THE MANZAIは漫才という芸が本来持っているポップさに着目し、それを表現するためにこの舞台装置が必要だったのだと思う。横澤や佐藤の狙いはまんまと当たり、若い視聴者の圧倒的支持を得るに至り、「笑ってる場合ですよ」(1980〘昭和55〙年10月1日スタート)や「オレたちひょうきん族」(1981〘昭和56〙年5月16日)に繋がっていく。

第三の男 中島銀兵

漫才ブームの仕掛け人といえば、花王名人劇場の澤田隆治とTHE MANZAIの横澤彪というのが定説になっているが、ブーム当初はもう一人の仕掛け人として日本テレビの中島銀兵も名前を挙げられていた。
中島は、「笑点」を皮切りに日本テレビで演芸・お笑い番組を手掛けてきたプロデューサーだった。THE MANZAIとほぼ同時期に「お笑いスター誕生!!」をスタートさせており、10週連続勝ち抜きでグランプリを達成した漫才師としては、B&Bおぼん・こぼんがおり、その後、とんねるずウッチャンナンチャンもこの番組をきっかけに名前を知られるようになるなど、番組自体も成功した。
これだけでも資格は十分だと思うが、何故、後に漫才ブームのし掛け人として名前が残らなかったのか。それは、この漫才ブームが、単に漫才という演芸のジャンルが爆発的な人気になったということだけでなく、フジテレビブームであり吉本興業ブームであったということだ。日本テレビ東京の芸人を中心に番組作りをしていた中島の活動が、その影に隠れてしまったというのは大袈裟だが、メインストリームたり得なかったのは事実だと思う。

この三人の大プロデューサーとは直接お会いしてるし仕事もご一緒させていただいたこともあるので、その人となりや三人との不思議な関わりについては次章以降、僕が入社後の話として語るつもりである。

制作部東京連絡事務所

東京での仕事の激増に対応するため、1980(昭和55〙年10月1日、再び東京に拠点を持つこととなった。ただ、華々しく東京に打って出たという印象ではない。それは、吉本興業東京支社ではなく、吉本興業 制作部東京連絡事務所というネーミングに表れている。あくまでも大阪本社の、しかも一部署の出先機関という位置づけである。前出の木村政雄の肩書は支配人であった。京都花月などの所有劇場と同じ並びだと考えていたことの証左である。一緒に赴任した社員は、後に吉本興業HDの社長、会長になる大﨑洋ただ一人であった。
木村は、歓送会すらなく東京に送り出された自らをファーストペンギンになぞらえて、次のように語っている。

 普通なら、「初年度の売り上げ目標は、これこれで・・・」などと、細かく指示をされるのでしょうが、そんなこともなく、ただ放り出されたという状態でした。こういうと、誰しも不安に思うものですが、私はどうもそういう質(たち)ではないようで、「何も指示されないということは、何をやってもいいということだ」と考える癖があるようなのです。「よし、これから東京局の仕事は、全てこの東京セクションで仕切ることにしよう」と密かに決めたのです。

 当然、単なる出先機関だと思っている大阪本社のスタッフから反発が起きることは予測されましたが、それに構っている余裕はありませんでした。7月1日放送の「THE MANZAI」第3弾が27.2%もの視聴率を稼いだこともあって、各局によるタレントの争奪戦が始まっていたからです。開業間もない事務所は、連日押し寄せるテレビ局のプロデューサーへの対応に忙殺されていました。打ち合わせがてら、仕事を終えたタレントさんたちと、マネージャーを交えて食事をとるのが深夜に及ぶこともしばしばありました。宿舎の隣のホテル陽光でモーニングを食べてから寝るなんてことも、珍しくはなかったと思います。

木村政雄の私的ヒストリー第56話より

このような状況は、僕が異動で東京事務所に赴任した1982(昭和57)年7月ごろも忙しさとしては変わりなく続いていた。

吉本興業入社内定

いよいよ漫才ブームが本格化し、笑ってる場合ですよが始まり、THE MANZAIの第四回が放送された頃、僕はといえば自分の将来について悩んでいた。京都大学の大学院入試直前に体調を崩し受験できず、かといって就職準備も全くしておらず就活は完全に出遅れていた。商社やメーカーはもう始まっていたし、解禁が遅いマスコミは付け焼き刃では通らないだろうし。電通の会社説明会に行ったら、人事の人が「うちに入って10年経てば、宝くじに当たらなくても半年に一回100万円もらえます」と言うので、コネも何もない僕にとっては、まさに入社は宝くじに当たるくらいの確率しかないなと思い断念。音楽が大好きなのでレコード会社も考えたが、楽譜が読めないのでこれも断念。後にこの世界に入ってレコード会社の社員たちと付き合うようになって「何や、俺より音楽のこと知らんやんけ」と思ったことが何度もあった。CBSソニーを受けていれば良かった。
そんなある日、三田の西校舎を歩いていたら、何百枚も貼ってある求人票の中の一枚が目に入った。吉本興業株式会社と書いてある。当塾出身者0。そらそうやろ。業務の内容「舞台、テレビ・ラジオ番組の制作」これや。まさに運命的な出会いである。願書を出した。当然のように内定。だって宿命なのだから。
役員面接で中邨部長(後に社長、会長になる中邨秀雄)に「君、吉本に入って何がしたいねん」と聞かれ、「吉本新喜劇の台本が書きたいです」と答えたら、「ほー」と曖昧な反応で、そのまま次の質問に移ったのだが、あまり気にしていなかった。入社後にわかったのだが、台本は文芸部という専業の作家さんたちが集まっているところで作っていて、社員の仕事ではなかった。嘘までついて、いや聞こえないふりをしてまで僕を吉本に入れたかったのかと思うことにした。

次章からは、僕自身が経験したことを軸に、吉本が起こしてきたイノベーションについて記述していきたい。ここからが長くなりそうだ。


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