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新しいスターを創れ 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(14)

マネージャー生活開始

1981(昭和56)年7月、マネージャー生活が始まったが、桂三枝との初対面も、吉本特有のいい加減さで、好印象でのスタートとはいかなかった。
上司になった松田課長から「ワシ、会議があるさかい、先に関テレ行っといて」という大雑把でテキトーな指示を受け、「上司が同行して新入社員を紹介するのが普通ちゃうか?」と思いつつ取り敢えず関西テレビに到着したが、さあどこに行って良いのかわからない。廊下を歩いている人に「楽屋ってどこですか?」と聞けばいいのだろうが、不審者と間違われそうだし、「吉本の新入社員ですけど」と言えば、「吉本は楽屋がどこかも教えてへんのかいな」と思われても良くないしなどと考えながらスタジオを見つけた。スタジオは3つあったが、テレビで見覚えのある爆笑美女対談のセットがあったので、そのスタジオで待つことにした。小一時間待ったところで、照明に灯が入り観覧のお客様が着席したところで、スタジオの入口にADに先導されて桂三枝が現れた。
「おはようございます。新入社員の中井です。今度、松田さんの下で三枝さんの担当をさせていただくことになりました」
「おお、そうか。よろしく。しかし君、こんなとこで待ってんと、楽屋に来なアカンで」
「すいません」
これは、僕が悪いのだろうかと、また会社に不信感がつのった。
しかし、若干不幸な始まり方のマネージャー生活も、劇場研修と同様の緩いものだった。仕事に関する交渉やスケジュールを管理している桂三枝の正マネージャーは上司の松田課長で、身の回りの世話は弟子の桂三太(現 三代 桂枝三郎)がやってくれるので、僕の仕事は、一緒に付いて回って移動の間の話し相手になる程度だ。劇場研修に続き、「こんなんで給料貰ってええのかな」と思う日々だった。唯一役に立っていたのは、「三枝の国盗りゲーム」などのクイズ番組の打合せで、問題と解答のチェックぐらいだった。雑学は得意だったので、番組担当ディレクターの菊池さんに「中井くん、何でもよう知ってるなあ」と感心されたものだ。
また当時、桂三枝はレギュラーだけですべての曜日が埋まっていたので、正にサラリーマンのように規則正しい生活だった。ましてや、隔週日曜日に収録があったTBS「三枝の連続クイズ」には、松田課長いわく「お師匠はん(師匠と呼んでるがな!)には一人で東京に行ってもろてんねん」とのこと。吉本の大看板で売れっ子の桂三枝を誰もフォロー無しで東京の番組に行かせるなんて、えらい無茶な会社やなあと思ったが、その御蔭で、落語会やイレギュラーの番組がない限り本来は休みなのだ。
とはいっても、毎月10、20、30日はそれぞれ上席、中席、下席の千秋楽で、次の回の新喜劇の稽古があってなんば花月に詰めたり、初日は朝から劇場に張り付かなければならないし、31日は特別興行なのでその準備や本番もあり、空いてる日には先輩方から仕事を振られるので、劇場研修のときのように定期的な休みはなく、半年ぐらいは休み無しだった。同期の黍原と、「僕は休み無し183日目や」とか言いながら休んでない自慢をしていた記憶がある。このあたりから、普通の会社員の感覚を既に失い始めていた。
上司の松田課長に「どっか行きたいとこないか?」と聞かれ、「北海道はまだ行ったことないんですわ」と答えると、「ちょうどええのあんねん。今週末、(月亭)八方ちゃんと札幌へ行ってきてくれるか?」ということで、吉本に入社して初めての地方営業に行った。場所は札幌グランドホテル。N音企画というイベンターの仕事で、全国の資生堂(ではなかったかもしれない)の優秀販売員の表彰と慰安旅行の宴席で20分ほど漫談をするというものだった。仕事終わりで、八方が連絡を取って、遠征で札幌に来ていた中日ドラゴンズの牛島投手と合流し、生まれて初めて、器から零れそうなくらいたっぷりイクラが乗った丼を食べたのを覚えている。月亭八方は、温厚な人柄で、気難しいところが一切なく、マネージャーにとっては本当にやりやすい人だ。初めての地方営業は幸せを感じながら無事終了した。

宣伝広報に配属された竹中を除き制作部に配属された4人の中で、間違いなく僕が一番楽だった。京大卒の谷は、横山やすし・西川きよしの現場で毎日のように東京ー大阪を往復していたし、今いくよ・くるよのマネージャーになった黍原、大平サブロー・シローのマネージャーになった玉利の二人は、いきなり正マネージャーだったし、漫才ブームで大忙しだった。僕は落語の大御所の現場だったので落ち着いたスケジュールで仕事をしていた。
ただ、いきなり会社一番の売れっ子の現場マネージャーになりとても良かったのは、放送局のプロデューサーやディレクターだけでなく、新入社員の分際で部長や局長ともお会いしたりお話したりする機会が多かったことだろう。漫才ブームを作った澤田隆治横澤彪、そして中島銀兵とも、早々に知己を得ることができた。

創作落語の会

落ち着いたスケジュールとはいえ、漫才ブームで殺人的なスケジュールをこなしている人気漫才師たちに比べてというだけで、決して暇ではなかった。日本テレビ昼の帯番組の「三枝の爆笑夫婦」TBS「三枝の連続クイズ」関西テレビ「パンチDEデート」「クイズDEデート」「三枝の爆笑美女対談」「三枝の愛ラブ!爆笑クリニック」読売テレビ「ザ・恋ピューター」朝日放送「三枝の国盗りゲーム」「新婚さんいらっしゃい!」「なにわなんでも三枝と枝雀」、レギュラーだけで10本(そのうち1本は帯番組)あったのだから。
そんな忙しい中でも、桂三枝は創作落語も発表し続けた。創作落語というのは、いわば新作落語なのだが、現在残っってる古典落語も始まりは新作だったわけで、そのあと練に練られて古典として残ったのだから、いま創作したものは未来の古典だという思いで、新作ではなく創作と桂三枝によって名付けられたものだ。
創作落語の会は、僕が入社する直前の1981(昭和56)年3月に始まった。当時の主なメンバーは、月亭八方桂文珍笑福亭仁智、初期には明石家さんまもメンバーだった。後に上方落語界や吉本の落語部門を支える顔ぶれである。吉本以外では笑福亭福笑桂春輔(2代目)など、松竹芸能の社風に合わない破天荒な落語家が参加していた。
三枝は忙しいスケジュールをこなしながら、常に新しい作品の構想を練っていた。移動の車内などでその概略を聴かせてもらい、「ここは今の若い子やったら何て例えたらウケるやろ」などと意見を求められるのが嬉しかった。ちょっとクリエイティブな部分に関わっているという感じがして、普段の仕事にはない充足感があったのだ。
そのうち、劇場やテレビ局の楽屋などで会うと、八方文珍からもネタに対する意見を求められるようになった。二人は対照的なネタの作り方だった。口建てで一切文字にせず、身振り手振りを加えてネタの流れを語る八方、原稿用紙に几帳面な文字でネタを書き込んで、「中井ちゃん、ちょっと読んでみてくれる」という文珍、どちらも抜群に面白かった。
中学時代、ヤングおー!おー!で観ていていた人気芸人たちが、素人同然の新入社員に相談してくれるなんて、この人たちは何て頭の柔らかい、フラットな人たちなんだろうと感動した。

これは、漫才ブームの仕掛け人の澤田隆治横澤彪もそうだった。
二方とも、僕が知らないことについては、「それはこういうことなんだ」と教えてくれたり、「僕はこう思っているけど、君はどう?」と、吉本興業といえども新入社員に過ぎない僕に、意見を求めてくれたりした。澤田隆治などは、番組収録後に劇場の外で立ち話を1時間以上してくれたことがある。時代を作る人はこういう人なんだな、将来偉くなっても(ならなかったが)若い人に偉そうにはしないでフラットに付き合おうと決意した。中島銀兵は、地元の先輩ということもあってか、偉そうに言われた記憶しかない。後で知ったことだが、誰にでも偉そうだったらしい。明石家さんまは、それが原因で日本テレビから離れたくらいだ。澤田隆治は大阪出身だったが、親が私と同じ高岡市の出身で彼自身も戦時中に疎開で高岡に住んでいたこともあり、大変目をかけていただいた。澤田より5歳ほど年下だが、高岡の近くの福野(僕の父の出生地)出身だったこと、同じお笑いというフィールドで戦っているということ、「目方でドン(MC明石家さんま、いくよくるよ)」という澤田が企画した番組の日テレ側のプロデューサーつまり発注者側ということもあり、大変なライバル心を持っていた。しかしながら、前述の通り、東京の漫才を中心にしたため、フジテレビ、吉本興業ブームであった漫才ブームの歴史には残念ながら残らなかった。キャラクター的には決して嫌いではなかったが。

梅田の百又ビル地下のバーボンハウスというライブハウスで開催されていた創作落語の会は、出演者の豪華さや演出の斬新さもあり、作家の香川登志緒や朝日放送の岩本靖夫のサポートで、すぐにメジャーなイベントになり、会を始めて3年目の1983(昭和58)年には、桂三枝芸術祭大賞を受賞するに至る。
古典では桂枝雀に勝てないから、三枝は創作に転じたという人もいるし、本人もそのように語ったりもしているが、僕は、スマートな芸風の三枝は、コミカルな表情で顔を作ったり、素早いテンポでセリフにメリハリをつけて世界を創る枝雀と同じ古典の舞台で戦うより、より自分にあった現代的な社会を描く方を選んだのだと思う。この二人に優劣をつけようとするのはナンセンスだ。

僕がライツ処理して商品化した作品集

もっと才能ある若手芸人を

前章でも書いたが、漫才ブームで売れっ子になった若手人気芸人達は日本中を飛び回り、劇場に穴を開けてしまう。休演しても、それに代わる同等の人気芸人がいたり、キャリアも腕も遜色ない代演者が出たとしても、自分の推しの芸人が出ないとなるとファンはもちろん、一般のお客様も「ポスターとちゃう奴ばっかり出とるやないか」と信用問題になってしまう。ましてや、そう都合よく代演に相応しい芸人のスケジュールが空いているわけもない。
才能があって人気の出そうな若手芸人を育てることが急務となった。

それまでは、基本的に芸人になろうと思ったら、まず師匠にお願いして弟子入りをしなければならなかった。弟子に入って、二年から三年師匠について身の回りの世話や家の仕事をこなさなければならない。ときには理不尽な師匠の行動にも耐えなければならない。
ただ、これでは間に合わない。
そして、優れたお笑いの才能があっても弟子生活をこなすのが苦手だったり、更に言えば弟子に向いてない若い人たちを、余すことなく吉本の戦力にしなければならなかった
ダウンタウンは、もし誰かに師事して弟子生活を始めても3日と持たなかっただろう。
吉本興業は師匠なしの芸人を育成することにした
本稿の序章でも述べた「吉本はブランド」という地位を獲得していたから、芸人の屋号(まさにブランド)が無くても、芸人として成立させることができるという読みがそこにはあった。
担当は、当時の制作部課長の冨井善則、そして僕と同期で宣伝部に配属されていた新入社員の竹中功だった。吉本らしく、二人でのプロジェクトスタートだった。

NSCとは、New Star Creation(ニュー・スター・クリエイション)の略である。当時の取締役制作部長だった中邨秀雄が命名したが、誰も正式名称で呼ぶものはいなかった。少々恥ずかしかったからだ。

競艇選手養成学校の入試に失敗し、何をしようか悩みながらうめだ花月の前を通りかかったら「吉本総合芸能学院NSC 願書受付中」のポスターが目に止まり、「これや」と思った浜田雅功が、印刷会社に就職の決まっていた松本人志に「一緒に吉本行こう」と誘ったことが、このあとの吉本興業、そして僕の未来にとてつもなく大きな影響を与えることになる。

(文中敬称略)


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