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再び東京へ 芸能界覇者への道 その2 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(16)

招かれざる大阪芸人

漫才ブームがあり、オレたちひょうきん族笑っていいとも!が人気番組になっても、吉本の芸人が手放しで受け入れられたわけではない。
1980年代前半は、アイドル黄金時代であり、バラエティ番組も歌、そして歌手を中心に、それをワキで支えるお笑いタレントという位置付けであったし、バラエティ番組のプロデューサーやディレクターは、それまでに付き合ってきた芸能事務所と強い紐帯で結ばれていた。
そんなところに、突然の漫才ブームで、クセの強い大阪弁を話す芸人たちが東京の芸能界に登場してきて、番組の中心に立ったりするのが、東京の芸能プロダクションやテレビのスタッフに面白かろうはずがない。
ブームの仕掛け人だった横澤彪のフジテレビ第二制作や、澤田隆治の東阪企画のスタッフ達や、レギュラー番組のスタッフ達とは非常に気持ちよく仕事をさせてもらったが、その他での単発の仕事にはそれなりの緊張感があった。
そもそも僕は、大阪のお笑いの興行会社に入社したという意識が強く、芸能界は別の世界だと思っていたし、そんなに興味もなかったから、せいぜい渡辺プロとかホリプロぐらいしか知らなかった。ジャニーズ事務所なんか絡むこともないだろうと思っていた。当然、音事協(一般社団法人日本音楽事業者協会)なんて全く知らなかったが、今にして思えば、吉本に対して敵愾心を剥き出しにしてきたのが音事協の主要会員社であったように思う。序章でも書いたように、吉本出身の僕が専務理事をやっているという歴史の皮肉を感じざるを得ない。

芸人も社員も東京の芸能界の仕来たりを知らないのだから当然嫌われる。
その一番いい例が、1982(昭和57)年10月の第20回オールスター紅白大運動だ。番組のクライマックスは、名物男子リレーだが、それまではジャニーズのタレントチームが優勝するのが不文律であったらしい。この番組は観たことがあったし、ジャニーズのタレントチームが優勝することも知っていたが、歌って踊ってバク転もするのだから他のアイドルよりも運動能力が高いのだろうという程度に思っていた。そもそも、そんなに興味もなかった。
それが、この第20回に、明石家さんま島田紳助松本竜介が出演することになり、長良プロダクションの山川豊と演歌・お笑い混成チーム四人でリレーに参加した。この四人の出演者も、マネージャーもそんな不文律を知らず、知っていたとしても守るつもりもなく、アンカーの明石家さんまがぶっちぎりの1位でゴールしてしまった。放送を観ると、カメラは2位の田原俊彦をずっと追いかけていたが。
当然のことながら、ディレクターのY氏からは「あーあ、イロモノが勝っちゃったよ」とボヤかれた。僕は、「それやったら最初から負けてくれって頼みに来いやボケ」と思っていたが、まだ入社二年目の小僧なので、薄ら笑いを浮かべながら無視するにとどめた。上司の木村政雄に報告したら、「そうか、勝ってしもたか」と笑っていた。当時の吉本の社員は、多少の個人差はあれど大体こんな感じだったので、好かれてはいなかったと思う。

バラエティ番組のパラダイムシフト

この頃、漫才ブームは終焉を迎えようとしていた。1982(昭和57)年10月に笑ってる場合ですよ!が終わり、笑っていいとも!が後継番組として始まったが、この番組には笑ってる場合ですよ!のレギュラーが一人も残されることはなかった。視聴者層を引き上げる意味もあったのか、司会がタモリ(森田一義という本名が番組のタイトルに使われた)で、会場の観客は18歳以上に限り、出演者も横澤彪の意向か、田中康夫中村泰士大屋政子など所謂文化人が多く、吉本からは斉藤ゆう子桂文珍ぐらいしか入らなかった。漫才師は一組もキャストされなかったのだ。
タモリは深夜の顔と芸風だから昼間の帯番組には向いてないとか、キャスティングが地味とか言われ、1クール(3ヶ月)も持たないんじゃないかと噂されていたが、32年続く長寿番組になった。放送開始後1ヶ月ぐらい経って、視聴率が10%を超えた頃に、「横澤さん、良かったですね」と言ったら、「企画さえしっかりしてれば大丈夫なんですよ」とドヤ顔で言われた。いつもニコニコされているのに、それまでの1ヶ月は結構険しい顔をされていたように記憶している。

ただ、漫才ブームとその主要メンバーたちは、テレビのバラエティ番組の世界に地殻変動を起こし始めていた。
それは、中心が「歌謡」から「笑い」に移ったこと、そして老若男女を問わず国民に等しくウケる番組から、若い人たちとそれに続く若年層に支持される番組への移行である。

それは、エズラ・ヴォーゲル「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本が世界でベストセラーになるほど日本が経済的に絶好調だったという経済的背景も無視できないだろう。80年代は、バブルの名のもとに、若者が消費の中心を担っていく。
また、ニューメディア時代などと言われ、地上波以外にも新しいメディアが次々に生まれたというメディア状況も影響がないとは言えないだろう。テレビ視聴も家族全員からパーソナルという傾向を示し始めていた。
日本でもBS放送の期待が高まり、CSそしてCATVも加えた多チャンネル時代が見えてきたのが80年代だった。アメリカでは、まさにCNNが1980年、MTVが翌年開局している。とはいえ、デバイスはTV受像機に限られていたのだが。

もちろん、ひょうきん族の出演者とスタッフ(もちろん事務所のマネージャーも含む)の意気込み、「全員集合を超えろ」という高い熱量での番組作りが勝利を呼び込んだのだが、このような時代背景もそれに味方したということは否めないだろう。
そのトレンドにフジテレビが最も早く上手く対応したため、10年以上視聴率三冠王が続くことになった。

また時を同じくして、歌謡界も急速にアイドル全盛時代を迎えていた。
これは、優れた才能を持った人が不断の努力のもと、磨き上げた歌唱を披露するという歌謡界の常識が、まだ成長の余地を残したまま未完成のアーティストをテレビ、芸能界が求めたということであり、視聴者もまた求めたということだ。この傾向はますます顕著になり、80年代のおニャン子クラブから今日の48系、坂系にまで連綿と続いている。

大阪に戻ることに

そろそろ東京の仕事も生活も楽しくなったところで、1年もしないうちに大阪に帰ることになった。空手形だと思っていた井上課長の約束が実行されたのだ。
大阪に戻っての仕事は、明石家さんまのマネージャーと京都花月担当のプロデューサー(サブ)ということになった。そしてすぐに朝日放送の局担当にもなった。こう書くと、とても忙しそうだが、実はそんなに忙しくはなかった。
明石家さんまは当時、大阪ベースではあったが週に2、3日は東京に行っていたし、ドラマが入ると月曜以外はほとんど東京にいた。そのフォローは東京事務所が行うから、僕はかなり暇だったのだ。
明石家さんまは、大阪に関してはほぼレギュラー番組だけなので、日常は本人と打合せのため現場に顔を出すぐらいで、それも、当時はまだ劇場に出演していたので花月の楽屋で済ますことも多かった。
京都花月も、上席10日、中席20日、下席30日のそれぞれ千穐楽に新喜劇とポケットミュージカルスの稽古、翌日の初日には花月に張り付いてそれぞれの直し、そして間の日に作家と次週の中身の打合せをするぐらいだった。
朝日放送担当は、空いてる時間に局に行き、テレビ制作局とラジオ局制作部をうろうろし、レギュラー番組のゲストブッキングや、祭日に編成される午前2時間、午後4時間生放送されるホリデーワイド福娘コンテストお笑い新人グランプリなど)という特番があり、その出演者交渉などを行っていた。

まだその頃は、局に番組企画を提案に行くとか、社内で新規事業企画を上げたりはしていなかったが、超多忙だった東京時代に比べて考える時間が増えた。徐々に業界のことも分かってきて、自分なりにやりたいことが見えてきて、いろいろ事業企画を考えるのが楽しくなってきた。

初のテレビ企画が実現

そんな暇な様子を見て、毎日放送担当の先輩社員浦川國雄から声がかかった。東京赴任前になんば花月担当だったときの上司だ。
「うちの制作で、MBSの全国ネット枠が決まったんや。三枝さんMCで何か企画ないか?」と聞かれ、僕は間髪入れずに「昔、三枝さんがやってたファイト&ファイトのグレードアップ版やりませんか?ゲーム自体は面白いので、うちの芸人以外の芸能人がやったら新鮮で面白いし、全国ネットでも行けると思います」と答えた。
「たたいて・かぶって・ジャンケンポン」とか、「さわってさわって何でしょう」とか、今でもバラエティ番組で使われているゲームの殆どは、ここから生まれたと言って良いだろう。僕は「あなたは天国、わたしは地獄」というコーナーが特に好きだった。5人のチームで一人だけひどい目に遭うというもので、例えばグリーン歯磨きで歯を磨くのだが地獄の一人はチューブに練りわさびが入っていて、相手チームが誰が地獄かを当てるというようなものだ。大体、地獄は坂田利夫のことが多い。わさびで涙と鼻水を流しながら「なんで分かったん〜?」というだけで、涙が出るほど笑った記憶がある。今だったらアウトな企画かもしれない。
ともあれ、桂文枝(当時は三枝)もOKしてくれて、毎日放送のOKも出て、本当にそれで企画が決まってしまった。初めて企画が通ったのだが、かつての人気ローカル番組のリバイバルなので、僕の企画とは言えないが、入社2年目にして初めてテレビ番組しかも全国ネットのアシスタント・プロデューサーになった。
タイトルは「三枝のドバーッとファイト!!」なんと宝塚の元トップスターの汀夏子さんがキャプテンとして出ていただけるなど、全国ネットとなると華やかなもんだなあと思った。しかも、大阪出身ということもあり、全く気取ることなく楽しんでやっていただいた。一方で、アグネス・チャンにも出てもらったのだが、相当お気に召さなかったらしく、マネージャーに交通費を渡しに行ったらとんでもなく険しい目で見られ、無言で受け取られた。後に渡辺プロの大阪支社の方に聞いたが、リハーサル終わりで、出演しないで帰るというのを懸命に説得していただいたらしい。当時の階段の踊り場で仕切りすらないうめだ花月の楽屋を考えたら、気の毒ではあったのだが。

紳竜・さんまのスクープ一直線

その一方で、関西テレビで同時に明石家さんまの新番組企画も進んでいた。大﨑洋が企画した、島田紳助・松本竜介明石家さんま主演のコメディドラマで、「かんさいタイムズ」という新聞社を舞台ににしたドタバタ喜劇なのだがストーリーとしては意外にシリアスな「紳竜・さんまのスクープ一直線」という番組だった。
さんまのマネージャーの僕も、吉本興業制作だから、当然、アシスタントプロデューサーとして番組のお手伝いをしなければならないのだが、収録が金曜日で、「三枝のドバーッとファイト!!」の収録と重なってしまって、立ち会うことができなかった。
1983(昭和58)年4月の段階では、まだ紳助もさんまも大阪で週一でローカル番組のドラマを撮るだけの余裕があったのだ。

そして、全国ネットとなると、特に在阪局の場合、MCはまだまだ紳助さんまではなく三枝やすきよというオーダーだった。そして、その間隙を縫って台頭してきたのが桂文珍だった。

文中敬称略






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