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心斎橋筋2丁目劇場スタート 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(18)

勝手にダウンタウンのマネージャーになる

当時の吉本では、部内人事のシフトで担当が決められており、新人にはマネージャーは付かないというのが通例だった。
ダウンタウンにも、もちろん付いていなかった。社内では、「大﨑がNSC時代から目をかけて、南海ホールのイベントもやってるから」という意識で、誰も手を付けなかったという状況だった。ということで、僕がこれ幸いと勝手にマネージャーになり、ボール紙のスケジュール表に「*スケジュールは中井まで」と書き込み、事実上担当者ということになった。
マネージャーになったから何か変化があったかと言えば何もなかったのだが、少し責任感めいたものが生まれたような気がする。
ダウンタウンのマネージャーを名乗り始めたのは、南海ホールで心斎橋筋2丁目劇場というイベントを始める少し前からだったと思う。
1983(昭和58)年のトミーズが優勝した「ABC漫才・落語新人コンクール」の時には、まだ朝日放送担当として立ち会っていたように記憶している。前章でも述べた通り、翌1984(昭和59)年にダウンタウンが優勝したときには、局担当でもありマネージャーでもあったように思う。ただ三人で大喜びした記憶は全く無い。獲って当然どころか、本来なら去年獲ってる筈だろうと思っていたからだ。
受賞したご褒美として夕方の番組のコーナーをレギュラーとして頂いたのだが、ロケで近畿地方のいろんな街に行って良いところを紹介するというようなダウンタウンには全く興味がなく不得意な仕事だったので、1、2回行っただけで後は自主的に行かなくなってしまった。その時、僕はマネージャーとして「なんで行かへんねん?仕事やねんから嫌でも行かんかい!」とは言わず、「まあ、あの番組はええか」と話し、朝日放送の担当者にお詫びして外していただいた。芸人もマネージャーも揃って酷い奴だ。よくぞABCも許してくれたものだと思う。それどころか、その年の10月から始まった、全国ネットの番組「ABOBAゲーム」の出題コントのコーナーで使ってくれた。ちなみにその時のディレクターが、現在の朝日放送グループホールディングス社長の沖中進である。

かかってきなさい

南海ホールでの「心斎橋筋2丁目劇場」という名のイベントは、前章でも述べた通り、当初なかなか集客できなかったが、1985(昭和60)年1月24、25、26日に行ったダウンタウンの初の単独イベント「かかってきなさいダウンタウンショウ」は、1日目で67人を集客し、最後の3日目は土曜日ということもあり満員だった。タイトルの「かかってきなさい」は、いがらしみきおの漫画のタイトルから取ったように記憶している。客層は、後の2丁目のような10代の女性がほとんどということはなく、お笑い好きの若い大学生らしい男性も多かった。後に聞いた話しだが、二人の友人で現在もダウンタウンの番組に限らず放送作家やエンタメ全般のプランナー、プロデューサーとして大活躍している高須光聖が、浜田から「東京から偉いさんが観に来るかもしれんから友達連れてきてくれ」と頼まれて同級生を15人ほど動員したらしい。ダウンタウンがお客様の入りを気にしていた時代だった。
ただ、大﨑と僕は「さすがダウンタウンやな。結構入ったな」と言いながらも、全く満足していなかった。「こんなもんやないで」と思っていたからだ。

その時上演したコントは、ローリングサンダーマン妖精のコント仕事人だった。どのネタも、後にテレビでも演っているのでご覧になった方も多いと思うが、当時の同世代はもとより、東西の先輩達のコントを、視点、ボケの角度、展開の意外性などの点で、遥かに凌駕する内容だった。ダウンタウンの二人、そして作家の萩原芳樹さんと僕で、NSCの稽古場で打合せして作るのだが、どれも一晩で、それも2時間ぐらいで作ったネタだ。それもほぼ完成形まで。アイディアからオチまで、ほとんど松本が考えるのだが、そのボケに対する浜田の絶妙としか言いようのないリアクションやツッコミによって、更にネタが膨らんでいくのだ。「あ」研究家の「考え事をしていて呼び止められたときのあ」の「あ、もうやってたんですね」というツッコミの間、言い方は浜田しかできない。少しでもズレれば「あ」で笑いが来てしまい、ツッコめなくなってしまうから、あのタイミング、あの強さしかないのだ。

さんま紳助という両天才のアドリブで作り上げていくコントの打合せに立ち会ったときも興奮したが、3次元だったら普通に見える事象を違うディメンションから見ているような視点から発想してくる松本と、それを具象化して聴衆に展開して見せる浜田という両天才との打合せは背筋に寒気を感じるほど興奮する楽しい時間だった。

当時のマンスリーよしもとの記事

ダウンタウンは、新人のときから一切時事ネタはやってない。何故なら、それは演った瞬間から古くなるから。漫才は、今聴いたばかりのニュースでもネタにできるという機動性がその特質と言われたりする。しかし、今年あった大きなニュースを題材に本ネタを作って、お客様がそのニュースを覚えている間はウケたとしても、翌年になってしまえば「ああ、そんなことあったなあ」と思うだけで大きな笑いにはならないのだ。そのことについては、当時も話し合ったことはないが、松本にとっては自明の理であったのだろう。

ダウンタウンのネタは、漫才もコントも強烈な印象を与えるので、一度観ると忘れられない。それは、テレビ朝日の「テレビ演芸」で初めて彼らのネタを直に観たとき感じた「今までの漫才の系譜から外れた漫才師だ」と感じたことが正しかったということだろう。今まで観たことがないものだから違和感が強く、記憶に残ってしまう。
歌は、同じ曲を何回も何回も聴かれれば聴かれるほどヒットして、いい曲であればスタンダード・ナンバーとして長く聴かれ続けるのだが、通常の漫才は、初めて視聴したときに大爆笑を取っても、同じネタを2回目に聴いたら笑いは何割か減ってしまい、数回聴くと「なんや、またこのネタか。これしかないんか」と飽きられてしまう。
だが、ダウンタウンのネタは、一度視聴したら忘れられないぐらいのインパクトがあるにもかかわらず、飽きられることはない。
そしてそれは、ネタを知っていても演じ手の解釈や技量を楽しむ古典落語や、ストーリーよりもギャグを芝居の中核においてマンネリを敢えて楽しませる吉本新喜劇とも違う構造なのだ。
これは正直に言って、ダウンタウンの一番近くにいて、誰よりもネタを観ている僕でもなかなか解を見つけられないでいたが、そんな話しをしていたときに、松本が「お笑いは、どっかに哀愁がないとあかんのですよね。哀愁があると、飽きられることがないんですよ」と言ったことで目から鱗が落ちた。確かに、漫才やコントで彼が演じる役は、世間や時代からズレた、それ故に普遍性のある大ボケが多く、それを観客は大いに笑うのだが、その底に人間であることのどうしようもない哀しさが漂っている。
その象徴が、コントとしてはありえない37分にも及ぶ「トカゲのおっさん」だろう。
ダウンタウンの笑いは、その心の奥の哀しさ切なさという感情を激しく動かすのだ。

彼らが少し売れ始めた頃、舞台やテレビでダウンタウンのネタを書いてきた作家は何人もいたが、ただただシュールに不条理にという狙いだけの、人間が全く描かれていないネタばかりだったので、二人に見せるまでもなく、すべて僕がNGを出した。
ある作家のネタは、ほとんど浜田が話して振りをしたら松本がボソッと一言ボケるというものだった。彼らの漫才は8割以上を松本が喋っているのだが。
松本はボソボソ喋るという印象があるが、それは声が小さいわけではなく、話し方と滑舌によるもので、本当は音量も十分(そもそも基本的に声がでかいが、浜田との対比で相対的に小さく感じるだけ)で、その内容はちゃんと伝わっている。そんなことも分からないでネタを書いたり撮ったりできるわけがないのだ。
新人芸人のマネージャーがそんな生意気なことを言っても普通は聞いてもらえないのだが、桂三枝(現 文枝)明石家さんまのマネージャーを経て、笑福亭仁鶴桂文珍の現職マネージャーだったので、それなりのことは言わせてもらえたのも幸運だった。

今夜はねむれナイト

漫才ブーム絶頂時に入社以来、桂文枝(当時 三枝)、明石家さんま笑福亭仁鶴桂文珍のマネージャーを歴任していた僕は、当然のことながら、放送局に売り込みなどというものを行ったことがなかった。数多持ちかけられるオファーを取捨選択して、お断りする仕事に関しては、いかに相手の気分を害さないように断るかが仕事だったのだ。
先輩たちの中には「おたくの番組に出して、うちになんかメリットありますか?」とか平気で言う人も沢山いた。皆忙しかったから若干イライラしていたし、そんなときに他のオファーに比べると条件的に比べ物にならない申し出があると「忙しいときになんやねん。出るわけないやろ。そんなこともわからんのか」と思う気持ちもわからないでもないが、気の弱い僕には無理だった。
慣れない売り込みを、それまで一緒に仕事をしたことがあるプロデューサーやディレクターに行うのだが、一様にダウンタウンの才能は高く評価してくれるものの、今のところ出てもらうのにいい場所がないから考えておくというような反応だった。ただ、レギュラーこそままならないものの、単発ではそこそこ仕事が入るようになってきた。

そして、年初に「かかってきなさい」をやった1985(昭和60)年10月、ラジオではOBC「おっと!モモンガPart2 おもしろREVOLUTION」(毎週金曜22:00-24:00)、テレビではKTV「今夜はねむれナイト」(毎週火曜24:15 - 25:10)というレギュラー番組を獲得した。
「今夜はねむれナイト」は、吉本興業制作の番組で、吉本側のプロデューサーが大﨑だった。関西テレビ側のプロデューサーは上沼真平。司会は、大平サブロー・シローで、そのサブ司会的な立ち位置と、数分ではあったがメインのコーナーを得ることができた。このダウンタウン劇場(シアター)は、毎週、数分のオリジナルコントを上演するものであったが、一度もネタに困った記憶はない。この番組の構成でもあった作家の萩原芳樹とダウンタウンと僕の4人で打合せするのだが、お茶を飲みながら30分程度の打合せで終わって、道具や衣装の発注し、当日ディレクターを交えて撮り方の打合せして本番というルーティンで進んでいた。
顔の傷が洋服から靴を越えてフロアまで続くというごっっ悪いやつとか、大きな鳥かごの絵が描かれた裏側に松本が鳥の格好で張り付いて、高速で回すと松本が鳥かごの中に入っているように見えるか、というネタもあり道具の岸村信治には随分無理難題を聞いてもらったが、スタッフ皆がダウンタウンの才能を愛してくれていて本当に良い現場だった。
このレギュラーが始まったあたりから、ダウンタウンの面白さが、青田買いのお笑いファンから、一般のお笑いが好きな(関西では嫌いな人が極少数派だが)方々にも浸透し始め、イベント心斎橋筋2丁目劇場(@南海ホール)のお客様もどんどん増え始めた。

同時に、お笑い芸人を目指すNSCの生徒たちにも変化が起こっていた。
ダウンタウンと同期の1期生は、紳助・竜介の影響を強く受けていたが、3期生あたりからは、まだ全然売れていないダウンタウンの影響が色濃くなっていったのだ。お笑い芸人を目指すくらいのお笑い偏差値が高い後進の目には、ダウンタウンこそ倣うべき存在に映ったのだろう。

2丁目劇場スタートというタイトルとは裏腹に、本章では、まだオープンしていない。タイトルに偽りありである。申し訳ございません。
ダウンタウンの昔のことを書き始めると止まらなくなってしまった。彼らのファンは皆さん熱狂的で自分が一番の理解者だと思っている方が多く、本当にありがたいと思う。私の意見には異論もあるだろうが、現場で寄り添った者の思いだとご理解いただければ幸いだ。

次回は、本当に2丁目劇場オープンを語る予定です。
(文中敬称略だが、関わった人たちが出てきたので、呼び捨てが辛くなってきた)



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