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本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ第74話③ 240723 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、光秀の年齢 そ第74話③ 

2光秀の年齢 4光秀、最大の敵 3/6 240723 

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【 重要史料 】 【 人物 】  
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 240723 

第74話③

  【参照】 ←テ第74話③ ←◎第74話 ←第74話

6四国の儀について。
 信長は、光秀に、十分な時間を与えていた。
 
光秀は、出来る男。
 これまで、期待を裏切ったことなど、一度たりともなかった。
 その、光秀の為すことである。
 信長は、吉報を待っていた。

 光秀が、石谷頼辰を土佐へ派した。
 最後の使者である。
 これが、一月。
 信長は、当然、このことを知っている。

 そして、甲斐へ出陣。
 だが、しかし、・・・・・。
 あの武田氏が、呆気なく、滅び去った。 
 これが、二月~三月。

 駿河・遠江・三河・尾張・美濃を経て、安土に帰陣。
 これが、四月二十一日。

 ここから、である。
 刮目すべき場面!!
 時代の流れが激変する瞬間。
 僅か一ヶ月で、世の中が変わった。
 これが、五月。

 信長は、再び、動き出した。
 
すなわち、西国へ。
 「時節到来」
 信長は、燃えていた。

 信長は、四国出陣命令を発した。
 
総大将は、三男信孝である。
 
以下は、その条々。
 

  今度、四国に至って差し下すに就きての条々、

  一、讃岐国の儀、
    一円其方に申し付くべき事、

  一、阿波国の儀、
    一円三好山城守に申し付くべき事、

  一、其外両国(土佐・伊予)の儀、
    信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事

  右の条々、聊(いささ)かも相違なく相守り、国人等の忠否を
  相糺(ただ)し、
  立置くべき輩は、立置き、追却すべき族は、追却し、
  政道以下、堅く申し付くべし、
  万端、山城守(三好康長)に対し、君臣父母の思いをなし、
  馳走すべきの事、忠節たるべく候、
  能々(よくよく)其意を成すべく候也

   天正十年五月七日      ( 朱印 )
     三七郎殿 
    【 重史 012 】(「寺尾菊子氏所蔵文書」「織田信長文書の研究下」)

 これについては、後述する。

 信長は、待つことを止めた。
 
武田氏の消滅した今。
 その必要がなくなった。

 すなわち、光秀に見切りをつけた。
 
光秀は、「失敗の烙印」を押された。
 「役に立たぬ」、との評価である。

 光秀は、元親との交渉に失敗した。
 
「出来る男」の、初めての失敗。
 光秀は、信長の期待を裏切った。

 なれど、
 信長は、そのことに、触れず。
 何も、言わない。

 光秀は、四国問題から、外された。
 
それ故の、信孝だった。

 光秀は、面目を潰された。
 厳密に言えば、そうなるだろう。

 なれど、信長は、絶対専制君主。
 
そのピークの頃である。
 
信長の意思決定に、水を差す者などいない。
 光秀とて、それは同じ。

 光秀は、信長の決断に従った。
 
光秀は、信長の性格を知悉していた。
 異を唱える者は、粛清される。
 佐久間信盛を見よ。 
 
そうする他、道はない。
 のである。

 光秀に、まだ、チャンスが残っていた。
 信長は、光秀に、配慮を示した。

 次の一節を見よ。
 「一、其外両国の儀、
    信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事」

 もう少し待ってやるから、それまでに、元親を承服させよ。
 急げ!!
 光秀に対して、そう言っているようにも、思える。

 ここがポイント!!
 注目すべし!!

 切り札は、石谷頼辰。
 
頼辰、未だ、帰還せず。
 光秀は、待つしかなかった。
 
「一日千秋の思い」とは、正に、このことだろう。

 光秀は、典型的な戦国武将。
 最悪の場合を想定していた。

 なれど、間に合わぬ時は、・・・・・。

 光秀は、いよいよ、追い込まれていく。
 これが、五月七日。

 そして、五月十七日。
  〃 、同 二十七日。
  〃 、同 二十九日。
 

 その先に、
 天正十年1582、六月二日未明。
 「本能寺の変」



 ⇒ 次へつづく


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