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フロリアノ ペイショット ヌメロ100、 サントス、ブラジル

天井が抜けたみたいだった。言葉で言うなら、そんな感じ。

それまでの私は、フカフカの真綿にくるまれて鞘の中でじっと息を潜めているような子。滅菌空間で育てられた「空豆の子」。

それが、いきなりブラジルだ。
当時地球の裏側へはプロペラ機でアメリカ経由、たっぷり2日間はかかった記憶がある。

赤道直下の光と色、街に溢れるサンバのリズムと、香ばしいコーヒーの匂い(あの酸っぱ濃い香りを嗅ぐと、私の体は今でも時空を超えてサントスの街にワープしてしまう)、真っ二つに豪快に割って食べる屋台のヤシの実、見かけるとせがんで買ってもらわずにはいられなかった屋台のチョコレートアイスクリーム、、

それは眠っていた五感が体の内側からむくむく動き出す、そんな感覚。世界がそれまでの白黒写真からいきなりまばゆいテクニカラーになった、そんな感覚。砂浜も、太陽も、フェイジョアーダも、8等身が眩しい色とりどりのブラジル人も、
街中が4日間ぶっ通し寝ずに踊り続けるカーニバルも、日本仕様の私にとってはすべてが規格外。

ブラジルでの毎日はドキドキするほど楽しくって、同時にハラハラするほど厳しかった。6歳の子供にとっては、いきなり太平洋の真ん中に放り込まれて、泳いで渡れと言われる、それくらいのインパクトだったと思う。

最初の半年間、ストリートで話されているポルトガル語も、アメリカンスクールの授業で使われている英語もさっぱりわからない音だったから、

熱が出た。

それが学校という限られた空間であっても、自分の身は自分で守らなければならない。たとえ親であろうとも頼れない。野生の本能を発動させなければ、生き残れない。

あの3.5年間が「空豆の子」にしてくれたことは、大きかった。

自分の知らない世界で、知らない言葉を話す、色んな色と肉体を持った人達がいるということ。その人達の中に私は私の居場所を作らなければならないということ。そして、その努力は必ず通じるということ。思いは言葉というチカラになってカラダを通して、伝えたい相手に伝わるということ。

あの時のあの実感が、その後の私を突き動かし続けた。

Floriano peixoto numero 100, Santos, Brazil

波打ち際まで歩いて5分、海岸から2本目の大通り、ポルトガル風石造りの家に私達、若い一家4人は住んでいた。Google mapで見たら、50年前住宅地だったその辺りは、地元の商店街になっていた。

すっかり様変わりして面影も残っていない、でも懐かしい景色。あそこからなら、またどこにでも行けそうな気がする。

Floriano peixoto numero 100、2024年現在

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