midorigyoza

下北沢生まれブラジル育ちオレゴン育ちサンフランシスコ育ちロサンゼルス育ち世田谷暮らし。

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マガジン

  • 人生が100秒だったら

    私に起きたことを100秒くらいに縮めてみよう。人生最期の瞬間、まぶたにフラッシュバックされるっていう、あんなふうに。

最近の記事

小学校の頃がいちばん楽しかった

馬鹿にされることを覚悟で、あえて言う。 小学校の頃がいちばん楽しかった。 なんじゃ、その後の人生はおまけかい?お前のピークは小学校かい?と言われることを承知の上で、あえて言う。いちばんと言う言葉は感情的なものだ、という分析に私はいちばん賛成したい。ホント、理性なんて要らないのだ、あの時代に。 私は10歳で、時は昭和40年代で、場所は世田谷で。近所にはあちこちにまだ原っぱがあって。(原っぱには昔畑だった名残りの肥溜めというものもあって、ウンの悪い子がたまに洗礼を受けていた。

    • 脳のチューニング

      はじめての学校は、戦場だ。 後年アルバムを広げて「カワイイ」とか「懐かしい」では言い尽くせない、生き残りをかけた世界だった(はずだ)。大人になりきった今、あの時の危うさを覚えている細胞は体内にもうひとかけらも残っていないけれど、少なくとも私にとってはそうだった。 守ってくれる親のいない、つるんでくれる友達もまだいない、はじめての世界。場所はブラジルのサントス。小学校1年から3年の中頃まで3年間通ったアメリカンスクールEscola Americana de Santosは幼

      • 絶滅危惧種

        朝いちばん、慣例の儀式があった。 親戚中の同じ年頃の孫達(上は小学生〜下は幼稚園児まで)がずらり畳に座って待っている。目の前のふすまがシズシズと観音開きに開くと、向こうの間にまるでお内裏様とお雛様のように(ずいぶん老けてはいるが)お祖父様とお祖母様が並んで座っていて、私達孫連中は、声を揃えて「おじーさま、おばーさま、おーはーよーございまーす。」 畳に頭を擦り付けてご挨拶するその時、両手の親指と人差し指で三角を作ってその中に鼻を入れなければならない。 そういう儀式。 私と

        • 犬の話だけど犬の話じゃない話

          一度だけ、短い間だったけど犬を飼ったことがある。子犬の時もらってきて、子犬のまま手放したから、記憶の中は今でも子犬のままだ。 名前はポンゴ。 ディズニー映画「101匹わんちゃん」の主人公の名前そのまんま。犬種もダルメシアン(もどきの雑種)。ねだってねだってねだり倒して飼ってもらった。あれほど何かが欲しかったことはなかったし、これからもないのではないか。心が震えるくらい、欲しかった子犬だった。 ポンゴがはじめて家にやってきた日の翌朝のことを覚えている。夜が明けるよりも、家族

        小学校の頃がいちばん楽しかった

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        • 人生が100秒だったら
          28本

        記事

          カウボーイになりたかった

          ビリーザキッド、ワイアットアープ、ドクホリディ、、西部劇小説を夢中になって読み漁っていたちょうどその頃、テレビではローハイドとかララミー牧場をやっていて、私はジェスに夢中だった。(今でも主題歌のイントロなら歌える) 疾走する馬から駅馬車に飛び移ったり、 岩陰に隠れてインディアンを待ち伏せしたり、 縦横無尽にアリゾナの平原を愛馬を股に挟んで駆け巡ったり、(本物のカウボーイは、馬を股ぐらに挟んで動かすのだ)10歳にして立派な脳内カウボーイだった。 インディアンは不当に悪者扱い

          カウボーイになりたかった

          制服を着る

          こんな私もかつて制服を着ていた。 通算して7年、幼稚園、中学、高校の時代に。 アルバムに残っている入学式の写真は、どれも「誇らしげ」に写っている。カメラの前でポーズをとっていた本人もさることながら、カメラを構えていた両親の誇らしさのほどはいかばかりか。 あれは何だったのだろう。 学生服を着ている自分と、着ていない(普段着の)自分。 あの違いは? 特に自覚無く、大人から言われるままに「着せられていた」はずなのに、子供ながら確かにそこにあった高揚感は?満足感、帰属感、安心感

          制服を着る

          目を覚ましたら、世界が変わっていた件

          1963年11月22日金曜、ブラジル サントスの自宅。あの日、あの時間、私は昼寝から目を覚ましたばかりだった。 それが色なのか、ニオイなのか、わからなかったけれど、自分が全く違う空気に目を覚ましたことに気がついた。眠りにつく前と目覚めた後とで、世界は変わっていた。 何が起こったのかと大人達に聞いたら、ケネディという大統領が暗殺された、という答だった。あんなに不安そうな大人達を見たことはなかった。暗殺という言葉を聞いたのも、はじめてだった。 この地面の続きで何か大変

          目を覚ましたら、世界が変わっていた件

          お雛様

          母の手は、いつも何かを作っていた。 子供の頃、私たち姉妹のお出かけ服は全て母の手作りだったし、夢中になって遊んだリカちゃん人形の服、新聞紙入れや小物入れなど木切れで作る工作、毎年デザインを決めて200枚ほど作る手作りクリスマスカード、季節の梅仕事(梅干し、梅酒、梅シロップなど)やラッキョウ漬け、、 家族のために作る毎日の料理やヌカ漬けはもちろん、母の手はずっと休まず何かを作っていた。 中でも折り紙は母が特に根を詰めていたもののひとつだった。少女時代からの「千代紙コ

          脳内8ミリ

          6歳から9歳まで暮らしたブラジル・サントスの記憶は、アルバム2冊の白黒写真に残っている。これはそのアルバムの中には残っていない出来事の話だ。写真という形で残されていないのに、いや、だからこそ脳内で再生される時、鮮烈になる。昔の8ミリ映写機の音までカタカタ聞こえてくるような気がする。 それは両親と一緒に映画のロードショウを見に行った、その帰りの出来事。その日、どうしても見たい映画があったのだろう。(たぶん1962年公開「史上最大の作戦」The Longest Day)3歳の妹

          脳内8ミリ

          次のドリルがあった日々

          小学校1年から3年まで、ブラジルのサントスで日本語学校に行っていた。1年生から6年生まで生徒8人に先生1人。教えてくれていた遠藤先生は、日本から移住してきたもと小学校教師。学校と言っても、場所は先生のご自宅。授業は生徒ひとりひとりの理解力に合わせて、わからないところはトコトン時間をかけて教えてくれるという贅沢さ。3時になると先生が出してくれた手作りおやつも待ち遠しくって、私はその小さな学校へ行くのが毎日楽しくてたまらなかった。 私にとって、学校というものは大好きな(勉強の時

          次のドリルがあった日々

          影の無いお友だち

          ブラジルに行ったばかりのころ、私には友だちがいなかった。近所の子と遊ぶためのポルトガル語も、アメリカンスクールで勉強することになる英語もつたなかったからだ。 そんな私にまもなく特別な友だちができることになる。彼らはみんな架空のお友だちだったけど、6歳だった私は彼らのつくり出す世界にどんどん引き込まれていった。 それはDick and Jane、そして末っ子のSally。アメリカンスクールで渡された教科書の中に彼らは住んでいた。 驚天動地。 想像して欲しい。 1960年代

          影の無いお友だち

          フロリアノ ペイショット ヌメロ100、 サントス、ブラジル

          天井が抜けたみたいだった。言葉で言うなら、そんな感じ。 それまでの私は、フカフカの真綿にくるまれて鞘の中でじっと息を潜めているような子。滅菌空間で育てられた「空豆の子」。 それが、いきなりブラジルだ。 当時地球の裏側へはプロペラ機でアメリカ経由、たっぷり2日間はかかった記憶がある。 赤道直下の光と色、街に溢れるサンバのリズムと、香ばしいコーヒーの匂い(あの酸っぱ濃い香りを嗅ぐと、私の体は今でも時空を超えてサントスの街にワープしてしまう)、真っ二つに豪快に割って食べ

          フロリアノ ペイショット ヌメロ100、 サントス、ブラジル

          おじいちゃんが写したかったもの

          祖父は写真に凝っていた。 昭和の初め、日本ではまだ珍しかったライカで撮った写真を自宅の暗室で現像するほどだった。唯一の趣味だったと思う。 決して饒舌とは言えなかったが、真面目で仕事一筋。そして筋金入りのマイホームパパだったと母から聞いている。毎日会社から一直線に帰宅。判で押したように定時に帰って、家族で食卓を囲んでいた。休日には当時庶民の憧れの的だったデパート、帰りは家族全員でお食事という「お出かけ」も欠かさなかったと。 祖父母にとって私の母は、結婚して10年以上待ち

          おじいちゃんが写したかったもの

          モルフォ蝶に会いに

          どうだい綺麗だろ、モルフォ蝶。 おじちゃん、私、これ飛んでるとこ見たよ。 おっ、すごいね、どこで。 ブラジルの公園で小さい頃。 木漏れ日が眩しい日曜日、のんびり日向ぼっこしてたら、いきなりみんな走り出したから、なんだなんだとついて行ったら、この蝶々だった。キラキラ光りながら飛んでいるのを、みんなで夢中になって追いかけて、まるで夢のなか歩いてるみたいだった。 そりゃあ、いいもの見たね。 ところで知ってるかい、モルフォ蝶のモルフォってモルヒネが語源だって。幻覚みたいに綺麗

          モルフォ蝶に会いに

          銀の星

          6歳の誕生日に父から1冊のノートをもらった。 「お前はお話をつくるのが好きだから、お話をつくる人になるといい。ここにお話を書きなさい。」そして父は「お話をつくる人」は小説家というのだと教えてくれた。 子供用には見えない深い緑色の装丁に鼻を近づけると、その頃夢中だったアラビアンナイトやトム・ソーヤーなんかの匂いがした。 ただし、私のノートの1ページ目はまっ白。真ん中を開いてもまっ白。どこを開いてもまっ白。 うむ。 私はそのノートに「銀の星」という名前をつけた。我な

          toma passeio トマ パシーオ 散歩しませんか、お嬢さん

          31歳の母が、ゴンザガ・ビーチを歩く。 胸ポケットにクシを入れたブラジルの伊達男が足を止める。 Que bonita ああ、あなたに見せたかった。 あの時、あの浜辺の母がどんなに眩しかったか。 Toma passeio 散歩しませんか、お嬢さん。 31歳の母は微笑む。はにかみながら。 poquito ちょっとだけなら、と答えた自分の声に驚くけれど、お日様が背中を押してくれるから大丈夫。歩く度にスカートの裾が足に触れるのを感じながら、ゴンザガの浜辺を歩きはじめる。波の模様

          toma passeio トマ パシーオ 散歩しませんか、お嬢さん