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私は駿台予備校卒業生 その1~当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 私の卒業した高校は駿台予備校です。
 この学校で徹底的に知的基礎を鍛え上げました。

 つまらない押し付けカリキュラムの中学·高校を抜けて、自由に最先端の知識学べ、研究出来る大学に行きたかったのです。当時(1970年代中頃)は、超難関校合格者の多くは駿台予備校生でした。

 小学生から学校のカリキュラムを超越して、まるで大学生のように自由に独学していました。ですから公立の小学校、中学校では定期試験の勉強に拘らなくても上位の成績が取れていました。

 転換点は、中学2年の秋。学校のマラソン大会でした。電車で貯水池まで繰り出しその貯水池の周回路を一周するというものでした。無事マラソンは終了し、食事を取った後のことです。クラスの少しやんちゃな友達にいきなりジャレ付かれ、バックドロップを食らいました。

 痛い!

 足に強烈な痛みと違和感。直ぐに救急車で近くの外科へ。
レントゲン取るも異常なしということで帰されました。痛くて歩けないのですが、レントゲンを撮って確認したのだから私が大袈裟という扱いを受けました。帰宅してもバスケットボールやバレーボールをしていたスポーツウーマンの母親が、学校からレントゲンで異常なしとの連絡受けていました。なので全く大袈裟なんだからという扱い。挙げ句、たまたま居合わせた同じバレーボールクラブの方から、だったら足首をグリグリ回して痛みを取ってあげるとまで。丁寧に御遠慮させて頂きました。

 正解でした。

 一晩中痛みで寝られず。翌日学校から帰宅後、親に懇願し整骨院に行くと、レントゲン写真には骨の割れた像が。見事に足の骨折でした。
 全治3ヶ月。学校も2週間以上休みました。痛みで勉強もできず、中間試験、期末試験は散々でした。見事に学校の成績は下がり、高校受験までには取り戻せませんでした。
 つまらない押し付けカリキュラムの中学·高校を抜けて、自由に最先端の知識を学べ、研究出来る大学に早く行きたかったのです。しかしこの事故で行きたい大学へのステップとしての公立、私立の超難関校には合格できませんでした。

 しかも、屈辱的な未来がまだ待っていました。合格した公立1校と大学附属の私立2校の選択でした。公立高校に通い大学受験に備えたいと両親に了解得て、合格した公立高校の入学手続に行くと、窓口で学校に親から受付しないよう連絡が有ったのこと。結局受付けて貰えず帰宅。大学の付属高校進学確定。怒っても覆水盆に返らずなので、呆れつつもそれはそれで良しとしようと自分の運命を甘受しました。

 という流れで、大学付属高校生にもかかわらず、駿台予備校に高校一年生から通いました。
(見事にイジメに遭いました。(笑))
 予備校に入るのに入学試験があり、成績別に露骨にクラス分けされます。上から2番目のクラスからのスタートでしたが、超難関進学校の方々は別次元の能力で、追いつくには5年を要しました。

 私が駿台予備校卒業生になるまでの長旅の始まりでした。
でも、優秀な講師に支えられての知的な別世界への入口だったのでした。

蛇足
 私の通った大学附属高校は、その後附属高校ながら進学校になりました。



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